〜〜 呪われし季節 〜〜



ここ数日、重く天を覆っていた雲が途切れ、久方ぶりに顔を出した朧な月を
居室の濡れ縁に座して見上げる男は、鴉の濡れ羽色と称えられる艶やかな髪も、
色めいた視線を流されれば思わずゾクリと身体が震えるすっきりと切れ長の瞳も、
すんなり通った鼻筋もきりりと引き締められた唇まで、
誰が評価しようと色男以外の何者でもない。

普段から「役者のような」という形容をつけられるその美貌ではあるが、
役者などとは比較にならぬほどに強烈な印象を残すのが、強い意志により炎を宿したような瞳だろう。
時には真っ直ぐに相手を射抜き、時にはギラギラと喰いちぎられるかのような恐怖を与え、
時には己が身さえも燃やし尽くすかのような熱を湛える。

それ程に力ある瞳が、今はぼんやりうつろに開かれていた。


昨日あたりから、どことなく風が身にまといつくようになってきた。
屯所の隅の忌々しくも不快なあの花が色づき始めてきた。
日頃は自分の怒声に敏感に反応するあの男が、どこか余裕ある笑みを浮かべるようになってきた。


来る・・・。

アレが来る・・・。

アレの季節がやって来る・・・。



思い出したくもない記憶が頭をよぎり、ぶるりと大きく首を振る。
消し去りたいと切に願っても、余りに強い衝撃ゆえに今も心に残って離れない。
首を振った程度では吹き飛ばせなかった記憶の残滓が本流を呼び、脳裏に鮮明な映像を甦らせた。




あれは昨年の事だった。

確かに兆候はあったのだ。
溺愛している弟分が自分の目の届かぬ場所に置かれる事や、
本来の隊務でない仕事を言いつけられる事。
まして他の男と近しく接することに、はっきり嫌悪の顔を見せるようになっていたのだ、
あの男は。

始めは馴染みの花街の妓に無沙汰を詫びる艶文を、あの童に届けさせた時だった。
後で話を聞いたあの男が、勝手に用事に使うなと文句をつけたから怒鳴り飛ばして部屋を追い出した。
翌朝、顔を洗いに部屋を出た自分の足元には、朝日を照り返して銀色に光る一本の筋。


あの時から察知するべきだったのだ。
それまでは文句を垂れるあの男が自分に怒鳴られただけで、
あれほど素直に部屋を出たことなど無かったものを。

それ以来小柄な隊士を怒鳴りつけるたび、用を言いつけるたびに翌朝の銀の筋が増えていった。

どうして気づかなかったのだろう。
あれは無言の警告だったのだと。

そして警告が脅迫となり、間を置かず恫喝となっていた事に。
銀の筋の増加をもって、明確に掲示されていたものを。



そしてあの日。
さる大藩の京都留守居役との会談に神谷を供とした。
自分には到底許容できない事だが、話によると相手は美麗な若衆が殊の外好みだとかで、
円滑に話を進める為だと言い含め、酌をせよと連れ出した。
もちろん煩いあの男には時間のかかる他出を命じてあり、他言は許さぬと神谷にも伝えてあった。

あの男が用事を済ませる前に戻る予定だったのだ。
それを弟分恋しさか、神速の勢いで用を済ませたあの男は、
自分達が戻る前に屯所に戻っていやがった。

誰から聞いたのか、既に一連の事情を承知していたあの男は、
一番隊の連中と共に門の前に立っていた。
あからさまな怒気を浮かべる配下の者とは対照的な、いつもと変わらぬ暢気な笑みを浮かべて。

なぜ注意して見なかったのだろう。
いつもと変わらぬ笑みの中、ただ一点いつもと真逆に凍てついた怒りを宿す眼を。
あまりに静かで静か過ぎて自分ともあろうものが見落としたのだ。
神谷の身体が強張った事に不審を覚えていたものを。

あの男の背後に垣間見えた、鮮やかな紫の花が記憶に強い。



そして翌朝。

部屋に運ばれた朝餉の膳。
味噌汁の椀の蓋を開ければ。


椀の塗りも見えぬほど、びしりと貼りつく
ぬるぬるの、うねうねの・・・




うわぁぁぁぁぁぁぁ!!




望まぬものを脳裏で再現してしまったため、全身に鳥肌が出現した。

あれから真冬といえど、味噌汁の椀に蓋をするなと強く命じてある。
賄い方の訝しげな視線など、あの時の恐怖を思えば如何ほどでもない。

最早名を口にするのも思い浮かべる事すら忌避するあの生き物を、
あの男はあれほど大量にどうやって探し出したのかと、
腹立ちと嫌悪と恐怖のない交ぜになった思考の中で考える。

けれど答えの出ない問いには早々に見切りをつけ、再びぼんやりと月を見上げた。




これから日に日に湿度が上がり、うとましい雨が連日続くようになるのだろう。
そして。
アレが今までとは比較にならぬほど、大量に這い回るようになるのだ。



アレが来る・・・。


アレの季節がもうすぐやって来る・・・。






土方は一番隊が組長を中心に日々の巡察以上の熱意を持って、
連日ナメクジ採集に勤しんでいた事を知らない。





2007.07.08.〜2007.10.02.