〜〜 露結ぶ 〜〜




何があった訳でもない。
ただ普通に朝起きて、稽古をして。

井戸で汗を拭いながら空を見上げたら、青いな、と思った。

何となく昼餉を取る気になれず、勘定方の手伝いをして。
午後は巡察に出た。
不逞浪士と出会う事も無く町を巡っている合間に見た空は、夕焼けに染まり。
町並みも雲も全てを不思議な橙色に染め上げて。
淡く夢の中を漂っているような感覚を覚えた。


屯所に戻り皆が寝静まった後で、沖田先生に見張りをしてもらいながら
久しぶりに湯に浸かり。
温かな湯の感触に心のどこかが緩んだのだろうか。
涼みがてら座り込んだ廊下で見上げた、星だけが輝く新月の空が滲んでゆく。

新月の夜。
月は闇に沈む。
確かにそこにあるはずのものが、見える事は無い。

青い空に風のような彼の人を思い。
橙色の町に捨てて来た己自身の昔を思った。

そして今、虚ろな空に光は無く。

唐突に、ひどく唐突に、自分の孤独を突きつけられた。
求めはせず、求められもしない。
ただ傍にある事だけが自分に許されし現実。

闇の中、ひとりぼっちの月は何を想っているのだろうか。



ぽろりぽろりと音が聞こえるが如き輝きを放って、その瞳から雫が落ちる。
月もひとり、己もひとり。
寒暖の差激しき折に守りの屋根の無い場所に結ぶ露は
清冽な輝きを放つ。

明度の高き水晶にも負けぬ、その雫は止まらず。
ただ闇月を見つめ、こほれ落ちるのみ。





ふいに秋の風に冷やされた背中に温もりを感じた。

「こんな所にいたら、風邪を引いてしまいますよ。ほら、こんなに冷えて」

耳に馴染んだ声と共に、背後から回された腕がふわりと己が身を拘束する。
濡れし頬の理由は問わず、顔を覗き込みもしない。
ただ、囁くような声音が耳に滑り込む。

あのね、原田さんがね、町で見かけた猫が、八木の勇坊が。

日々の中の小さな出来事。
穏やかに、静やかに、まるでパクリと開いた大きな傷口に
優しく優しく薬を塗りこむ細心さを持って言の葉が紡がれる。


ぽろりぽろりと雫がこぼれる。
ほわりほわりと声音が包む。


「・・・沖田先生」

「はい、何ですか?」


柔らかく己が胸の前で組まれた彼の人の腕に手を添えると、
ほんの少しだけ身を拘束する力が増した。


「・・・沖田先生」

「・・・はい」


振り向かず空を見上げたまま言ってみる。

「もう少しだけ、・・・いいですか?」

背後で小さく笑った気配がした。

「甘えたさんですねぇ」

「だって寒いんです」

少し強く言ってみたら、また少し腕の力が強くなった。


「・・・そうですね。こうしていると・・・温かい」



空には新月。
優しい鬼達は光届かぬ影の中、温もりだけを感じていた。




2007.10.02.〜12.31.