〜〜〜 流し雛 〜〜〜
雛祭りも過ぎた頃の非番の日、総司とセイは揃って屯所の門を出た。
目的はいつもの甘味。
前夜、隊士部屋で隣に横たわっていた総司の悲痛な叫びに、
セイは慌てて寝床から起き上がった。
そんな配下に向かって尊敬する師であり頼れる上司のはずの男は、
瞳一杯に涙を浮かべて叫んだのだ。
「ここずっと忙しかったから、お雛様の時に桜餅を食べてませんっ!!」
幾人もの隊士がいるはずの室内に空虚な静寂が広がり、その中にしくしくと
肩を振るわせる男のむせび泣きだけが漂っていく。
「・・・・・・・・・わかりました。明日は非番です。
どこかで探して食べましょう・・・」
深い溜息と共にそれだけを告げてセイが布団に潜り込む。
一斉に向けられた同情とも哀れみともつかない視線の中に、一際強く隣から放たれる
期待と歓喜に満ちた視線を感じてセイは布団の中で頬を緩めた。
そして今、ふらりふらりと八坂神社に向かって足を進めている。
「そうかぁ。花見がありますもんね〜。桜餅はまだありますよね、きっと」
嬉々とした表情の総司がセイに話しかけた。
京都の町は季節の移り変わりに敏感だ。
特に生菓子に関しては節句や行事に合わせて作られ、時期を逃すと
また一年後でなければ口にできなくなるものも少なくない。
総司は桜餅もそうだと考えていたために、世界の終わりのような叫び声を上げたのだった。
けれどこの先京の都は桜に包まれる。
あちらこちらの花見の際に、桜餅・鶯餅・草餅は宴の供にと望まれるのだ。
ゆえに雛の節句が終っても、桜餅を店頭に置いている店は多い。
「楽しみですね〜。東山の柏屋さんの生菓子はちょっとしたものですし」
八坂神社を南に下って少し行った場所にある菓子匠の柏屋は
最近総司のお気に入りでもある。
祇園の芸妓や舞妓の隠れた贔屓の店で、隊の会合で祇園に赴いた時に
総司の甘味好きを熟知している舞妓がこっそり耳打ちしてくれた店なのだ。
鴨川の橋を渡りながら川沿いに植えられた桜を見やると、
気の早いものが一輪二輪と花を綻ばせている。
それでもやはりまだ時期には早いと見えて、ほとんどの蕾は固いままだ。
「桜には早いですけど、桃は満開ですねぇ」
総司の声に振り返ったセイの眼に柔らかな桃色に包まれた一本の木が映った。
「うわぁ。綺麗ですね〜」
思わずセイも感嘆の声を上げる。
「桃は邪気を払うんですよね。元々雛祭りもそういう意味合いだったそうですし」
すでに今は女の子の節句として人形を飾り、ご馳走を食べるという
祭りの色しか残っていないが、元は子供の邪気払いの意味があったのだ。
「詳しいですねぇ」
感心したように覗き込んでくる総司に向かってセイが小さく笑った。
「里乃さんに教えていただきました」
京の芸妓も遊女も知識は広い。
特に地位が上に行くに従って過ごす相手の格も上がって来るのだ。
話し相手を務めるのに無知では用をなさないのだから。
「元々は流し雛が原型だそうです。紙で作った人形(ひとがた)に一年分の災厄や
穢れを乗せて川に流す。陰陽道からきた風習らしいですけれど・・・」
叶う事ならこの男の身に降りかかる災厄や穢れも流してしまいたい。
敬愛する兄分達の分も一身に穢れを引き被るつもりの男を思ってセイは眉根を寄せた。
ぽんっ、と月代に手を置かれ、反射的に隣の男を見上げる。
「私は可愛いお雛様を流す気なんてありませんからね。穢れだろうと災厄だろうと、
お雛様に押し付けるなんて男が廃りますよ。ねえ?」
穏やかに笑みを浮かべて月代を幾度か撫でた手が離れていった。
「それにね」
ぽきりぽきりと小指程度の長さに桃の枝を折ると、一本をセイの髪に差し
もう一本を自分の大刀近くの袴紐に挟み込んだ。
「穢れや邪気を払うなら、こっちの方がずっと格好良いでしょう?」
くすっと笑ったその表情は深い慈しみを漂わせていて。
一瞬見とれたセイだったが慌てて髪から枝を抜くと、総司同様に腰へ差し直した。
「かっ、髪に花を飾る武士など格好良いとは言えませんっ!」
照れ隠しに頬を膨らませるその姿が尚更総司の笑いを誘う。
真っ赤な顔でそっぽを向いていても、口元が緩んでいる事はばればれなのに。
(本当に可愛いなぁ)
心の声は口には出さず。
「さあ、桜餅が待ってますよ。早く行きましょう」
小さな手を掬い上げ、それを引いて歩き出す。
ふわりと吹いた春の風が、ふたりの髪を優しく揺らした。
2008.03.15.〜05.11.