〜〜〜 夢の声 〜〜〜

(2008年沖田追悼・史実バレ)




遠くで木の葉のそよぐ音が聞こえる。
初夏の風は梅雨の名残を留め、じっとりと身体に纏わりつくようだ。
深い眠りから引き上げられながら、肌に触れる空気の不快さに僅かに眉根を寄せた。

――― くすくす

耳元で鳥の羽ばたきのような軽やかな笑い声が響いた。
この声だけが自分の隣にあるようになって、どれくらい経つのだろう。
淡い眠りの中で考える。

最後にあの兄分達が自分の元を訪れたのは、まだ桜が散りきる前だったはず。
確か・・・二月ほど前の事。
それ以来、この小さな寓居には自分ともう一人しか存在していない。


そこまで思い出した時、額からつうっと汗が流れ落ちた。

――― 暑い・・・

己が身をその一部だと思い定めていた兄分が乗り移ったかのように、
眉間に深い皺を刻む。
以前はこの程度の暑さなど気にもならなかったものを、布団にいる時間が
長くなるに従って、どうにも耐えられなくなった気がする。
暑さも不快だが、己の我慢の効かなさもまた不愉快でたまらない。

苛立ちのままに額の汗を拭おうと腕を上げようとした。

――― くすくす

軽やかな笑みと共に乾いた布が額に当てられ、不快な汗が拭われる。

「相変わらず、暑さが苦手なんですね・・・」

耳に慣れた優しい声音を認知した瞬間、不快も苛立ちも一瞬で消えうせた。


(・・・・・・さん・・・)

脳裏で愛しいその人を呼ぶ。

布地をどけた額に柔らかな手の平が当てられ、それが頬へと滑ってゆく。

「今日は特に暑いですものね。後で冷たい飲み物でも用意しますね」

ふんわりと耳朶に滑り込むその声に、眉間の皺も緩やかに解けた。
けれど次の瞬間、額に感じた感触に眠りの薄絹が一気に剥がされる。

(・・・さんっ?)

声を上げる前に、再び唇に感じた甘い柔らかさに反射的に悲鳴を上げた。





「やめなさいっ! うつったらどうするんですかっ!!」



がばりと起き上がった自分の目の前には、きょとんと眼を見開いた少女がいた。
片手にハンドタオルを持ち、淡いミントグリーンのキャミソールの胸元には
自分が贈った桜を模したペンダントヘッドが揺れている。


「・・・・・・セイ・・・・・・」

ぐったりと力を失ったように、華奢なその肩に額を押しつけた。
しばらく困惑したように身動きできずにいた少女がそろそろと
自分の背に腕を回し抱き締めてくる。

そうだ・・・もう、自分は病葉(わくらば)ではない。
ひとたび朽ちた己が身は神仏の慈悲ゆえか再びの生を受け、この人と再会した。
自分とは違い、何一つ記憶に残していないらしい少女に改めて想いを告げ、
ようやくこの腕に抱いたのは数日前の事。

少しずつ、記憶をトレースしてゆく。

夢の中で確かだった自分から、現代に生きる己へと。
たとえこの愛しい人が何一つ記憶していなくとも構わない。
互いに記憶が失われようと、必ず惹き合うのだ。
根拠のひとつも無い、御伽噺のような事でも今の自分は信じられる。

こうしてこの人を腕に抱ける、それが全てを証明しているのだから。

だから・・・。

男が顔を上げ、少女に口づけた。
前の世で許されなかった行為を幾度も繰り返す。

――― 今度こそ・・・手放したりはしない・・・。

胸中の叫びに呼応するように、背に回されたままだった少女の手の平が
力を強めた気がした。







2008.05.30.〜06.16.