〜〜〜 恨み雨 〜〜〜
一番隊の隊士部屋には文机がある。
常日頃は隊士達の洗濯物が重ねられていたり、小さな引き出しの中は
組長の菓子箱になってもいて、そこへまっしぐらに向かう
蟻の行列を見た小柄な隊士が泣き喚く上司を足蹴にしながら、
中身を庭にぶちまけた事も一度や二度では無い。
そんな本来の用途を忘れ去られつつあった物が、今日は珍しく正規の勤めを果たしていた。
――― トン
背中にかかった軽い衝撃に文机へ向かっていた男の手が一瞬止まる。
「どうしました?」
「・・・珍しいなぁ、って」
穏やかな問いかけに一瞬言葉を考えてから、背後の人物が小さく答えた。
「沖田先生が珍しい事をしているから、雨が止まないんじゃないでしょうかねぇ」
「ひどいですね、神谷さん」
クスクスと笑い混じりに総司が返した。
「これは先日の捕り物の時に壊した店の報告ですよ。土方さんが“弁済をしろと
請求が来てるから、とっとと報告しろ”って鬼の形相で脅すんですから」
「ああ・・・あれですか・・・」
一番隊の出動時の出来事だったから、当然セイも知っている。
逃げた浪士が店に飛び込み戸板を閉じてしまったせいで、戸を打ち壊し
店に雪崩れこんだ上に中で大立ち回りをやらかしたのだ。
おかげで店内は散々な有様になっていた。
普段であれば店の方が泣き寝入りとなる所を、尾張藩御用達という店だったため
その威光を背景に弁済を申し立ててきたらしい。
さすがにそれを無視出来なかった土方が、総司に報告書を命じたのだろう。
「大変ですねぇ、副長も・・・」
背に背を合わせてペタリと座っていたセイが、ぐぐっと総司に力をかけてくる。
「大変なのは私でしょう?」
総司も書き物の手を止めて、セイに体重を掛け返す。
「先生は簡単な報告書だけじゃないですか。
副長はそれを元にあちこち頭を下げて回るんですよ、きっと」
再び掛けられた力は総司がすいっと体を横にずらしたせいで行き場を失う。
小さな身体が空を泳いだ。
「う、うわっ!」
――― とさっ
落ちた場所はあぐらを組んだ男の膝の上。
(ひ、ひ、膝枕っ!)
紅潮していくセイの顔を覗き込んだ総司が悪戯めいて笑う。
「暇なんですか?」
常と変わらぬ男の様子を見て自分だけ焦っているのが悔しくなったセイが
ぷくりと頬を膨らませた。
「だって雨続きなんですもの。洗濯だって出来ないし、
道場も他の隊の稽古で塞がってるし・・・」
掃除や他の仕事も全部片付いてしまったら、やる事なんて無いんですよ・・・と
忙しい事が常である小柄な隊士は不満げだ。
「だったらたまには昼寝でもしてはどうです?」
私の膝を貸しますよ? とにっこり笑うその顔は凶悪なほどに優しい。
言葉と同時にサラリと梳かれた前髪から、深く沁みる感情が流れ込んでくる。
その温もりが張るべき意地を溶かしたのかもしれない。
「少しだけ・・・」
普段ならば有り得ない言葉を紡いだセイの頬を、大きな手の平がゆるりと撫でた。
「ええ。いつも私が甘やかして貰ってますから。お返しさせてくださいね」
ふわりと包み込むような声音を耳に、セイが静かに瞼を閉じる。
その呼吸が規則正しい寝息に変わるまで、頬を撫でる手は止まる事が無かった。
その場に居辛くなった男達が、ひとり、またひとりと部屋を出る。
冷たい雨の吹き込む廊下に座り込んだ男達は、セイから仕事を取上げた
灰色の雲を幾重にも重ねた空を長い事恨めしげに見上げていた。
2008.06.29.〜08.27.