〜〜〜 狂恋獄 〜〜〜



――― ぴぃぃぃ

棒立ちになった影の喉笛から漏れた空気が頼りない音を立て、
鋭い刃を一閃させた娘が月光に浮かび上がる。

その姿を眼を細めて見つめていた男が僅かに唇を歪めた。



春の日差しの如き柔らかな笑みを湛えていた娘。
弱き者に手を差し伸べて、清らかな心を持っていた娘。

それが今は両手を血に染め、眉一つ動かさない。


おそらく自分もこの娘も辿り着く先は地獄だろう。
御仏というものが存在するのであれば、けして我らを見逃しはすまい。
自分はそれでも構わない。
そんな事はとうの昔に覚悟を決めた。

けれど愛しき娘だけは、その身に相応しき光に満ちた場所に置きたい。
悲憤も怨恨も似合わぬ人なのだから。
それを願ってきた。
そうあれと祈ってきた。


しかし、この娘の血に染まった手は白く戻らぬ。
罪と穢れも消えぬだろう。
共に逝くのが地獄というなら。

戦国の世の大盗賊を思い出す。
煮えたぎる油の釜に共に放り込まれた我が愛し子を、
命尽きるまで高々と持ち上げていたという男。
ならば自分もそれに倣おう。

幾千万の針山を素足で上れというのなら、彼女を背負い上ってみせよう。
亡者に腑臓を食らわれるなら、彼女を背に庇い、己が骨まで差し出そう。
灼熱の鉄を飲めというなら、彼女の分まで飲みつくす。


いや・・・。

くすり、と笑んだ。

視線の先では美しい阿修羅が、刀身を伝う深紅の雫を一振りで払い飛ばした。
白々と放たれる月光の中で、動きの一つ一つが清冽な輝きを放つ。


仏法に従えば地獄に落ちるだろう自分達。
だから?
それが何だというのか。


弧を描いた口元から微かな笑いが漏れいでる。

罪に見合った罰を与えるという鬼が、何ほどのものか。
どうせ我が身も鬼なのだ。
愛しい娘に責め苦を与えるというならば、そんな鬼など滅してしまえ。
今更罪など恐れない。


――― くくく

押さえ切れず零れた笑声にセイがゆるりと振り向いた。

「ふふ、何でもありません。貴女の剣尖は相変わらず綺麗だなぁ、と思っただけです」

そしてそれを教え込んだ自分が誇らしいなぁ、って。
囁くように甘い声音を夜気に乗せれば、薄闇の中でも見事に染まった頬がわかる。
怜悧な阿修羅と照れ屋な娘が不安定に同居する。
それさえも愛しいと言ったなら、この可愛い人はどうするのだろう。

このまま共に、鬼など論外、御仏までも斬り捨てて、全き闇に沈もうと
その柔らかな耳元に、蜜の甘さで囁いたなら。

――― どこまでも、お供をいたしますっ!

威勢の良い応えが聞こえた気がして笑み崩れた。


そうだ。
聞くまでもない。
この娘はその身の全てを深紅に染めても、自分の傍らにあり続けるだろう。
それを“信じる”のではない。

それは。

自明の理。
揺らがぬ事実。
定められし運命。


ならばこそ。

「さあ、屯所に戻りましょう」

狂恋に染まる魂など態度にも、言葉にも見せず。
先に立って歩きだした自分の背後に愛しい娘の気配。

――― くすくす

耐え難い愉悦と共に漏れる笑み。


ねぇ、神谷さん。
このまま彼岸の果てにあるという地獄の底まで、共に歩いていきましょうね。
私は貴女を離さないし、貴女も私を捕まえている。

瞳の奥に静かな狂気を隠した男が、月を見上げてゆるりと微笑った。




2010.08.08.〜09.20.