五条の縁



すっかり馴れた梶原邸の朝。
いつもながら寝起きの悪い白龍の神子は、対である黒龍の神子・朔に無理矢理布団を剥がされて、
渋々と寝ぼけ眼のまま食事の間へと足を向けた。
幾分ぼんやりした頭で朝食の膳の並べられた部屋へと足を踏み入れた望美が
先に居た仲間へと朝の挨拶をしかけた時、背後から荒々しい足音が響いた。

「あ、九郎さん。おはよ・・・」

「弁慶っ!!」

望美の言葉を遮った九郎が、既に腰を下ろしている弁慶の前に仁王立ちになる。

「おはようございます、九郎。朝から何を騒いでいるんです?」

日常では絶やす事の無いほんのりとした笑みを浮かべながら、弁慶が九郎を見上げた。
室内ではいつもの黒衣を被っていない為、色素の薄い栗色の髪が朝の光をキラリと反射する。

「何をじゃないだろうっ!」

「はい?」

頭から湯気でも出ていそうな西国の大将の姿にも、弁慶は動じない。
おっとりと首を傾げるだけだ。

「あの部屋を、何とかしろっ!」

「あの部屋、とは・・・」

「俺の邸のお前の部屋だ! 数日前から異臭がすると邸の者が訴えてきた。
 さきほど覗いたが、何だあの部屋は!」

「何だと言われても、貴重な文献などを置いているだけですよ?」

「文献は! 異臭など! せぬっ!!」

怒りの余り、九郎の肩が大きく震えた。



「ねぇねぇ景時さん・・・」

九郎に続いて食事のために部屋へとやってきた景時の腕を、
入り口に立ったままだった望美がついついっと突いた。

「弁慶さんの部屋って、そんなに凄いんですか?」

西国においての源氏の拠点であり、京の守護邸である九郎の邸には
源氏の軍奉行に任じられている景時も頻繁に赴いて仕事をこなす。
だから知っているだろうと尋ねた望美に、困ったように頬を掻きながら景時は小さく頷いた。

「この家にも弁慶の部屋はあるでしょう?」

だから察して欲しいと言いたげな景時の言葉に、望美が眉根を寄せる。
梶原邸に置かれた弁慶の私室へは、怪我の治療をして貰うために望美も入った事があった。
貴重な文献を陽に当てないためとかで室内全体が薄暗くしてあり、薬草の匂いなのか、
あまり長い間その空間に留まりたくないと思える怪しさ爆裂の空気が、
その場にわだかまっていたのを覚えている。

「・・・もしかして、あれ以上ですか?」

「もしかしなくても・・・だねぇ。最近弁慶がこっちに泊まる事が多いのは、とうとう守護邸の自室に
寝る場所が無くなったのかなぁ、なんて思ってたんだよねぇ・・・」

あはは〜・・・、と笑う景時の声が白々しく響いた。
そんなこちらの会話など聞こえないようで、九郎の怒声は激しさを増している。

「いいか! 今日の探索、執務は一切中止にするっ! だからお前はあの部屋を人が住める場所に整えろ!」

「・・・九郎?」

昔馴染み故に伝わるジワリとした反意を声に乗せた弁慶だったが、
今日ばかりはそんなものに怯む九郎ではなかったらしい。

「今日中に片付かなければ、全て処分するからな!」

「九郎っ!」

明らかな怒気を放つ弁慶に、九郎の鋭い眼差しが向けられた。

「あの邸は鎌倉の兄上からお借りしているものなんだ! それをあのように汚すなど許さんっ!」

「・・・・・・・・・」



「あ〜あ・・・。頼朝さんが出てきたら、いくら策士の弁慶さんでも勝ち目は無いですよねぇ」

――― ずずっ
神聖な神子とも思えない音を立てて望美が譲手製の吸い物を啜った。

「そうだねぇ・・・」

――― ぽりっ
瓜の塩漬けを齧りながら景時も頷く。

西国大将とその軍師による口論をおかずの一品にしているように、
のん気な神子と地の白虎は食事を始めていた。
そんな二人に冷ややかな視線が向けられる。

「今日は散策も執務も休みという事ですし・・・お二人にも手伝って貰う事にしましょうか。
 お願い・・・できますよね?」

できますか?・・・という問いではなく、反論を許さない確定事項として
弁慶の口から漏れた言葉に望美と景時は盛大にむせ返る。
にっこり笑んだその全身から滲む気は怨霊などよりも余程禍々しさを感じさせ、
指名された二人は言葉も無く何度も頷くしかなかった。

「ありがとうございます。よろしくお願いしますね、望美さん、景時」

言葉と同時に向けられたその恐ろしい笑みから視線を逸らすように、
膳の上に載った玉子焼きにふたり揃って箸をつける。
甘いはずの玉子焼きが、妙に塩辛く感じたのも二人して同じだった。







そして現在、ここにいる。

「うぷっ! どうして私までっ!」

「ここには龍神の神子に関する文献が揃っているんですよ。
 望美さんだってそれらの伝承には随分お世話になったのではありませんか?」

「そ・・・それは・・・」

不満に満ちた望美の言葉を聞いてころころと笑いながら返答した弁慶に、
不承不承ではあるが頷かざるを得ない神子である。
五行相克の理(ことわり)や浄化するべき怨霊の歪みなど、弁慶から教わった事は山とある。
その知識の素がこの場で大量の埃を被っている物体だというのなら、龍神の神子の務めとして
薬師の部屋というよりも妙に怪しい黒魔術の研究室と呼ぶに相応しいこの部屋であろうとも、
心を込めて片づけをするべきなのかもしれない。

そう考えた望美が殊勝な気持ちになった時、部屋の奥から景時の悲鳴が轟いた。

「べっ、弁慶〜! 異臭の原因はこの壷の中っ! これ、何〜〜〜!!」

「はい?」

埃どころか足音さえ立てずに本の山を縫いながら、弁慶がそちらへ向かった。

「ああ、それは大変貴重な薬草なんですよ」

「貴重って・・・カビが生えて、何か下の方はドロドロしてるよ〜?」

「え? 参ったな・・・乾燥した葉だったはずなのに。
 液化したなら成分は毒に変じてしまったという事ですよね・・・きっと・・・」

眉間に皺を寄せて口元に手を当てた弁慶の呟きを聞いた景時が、「ひえっ!」と壷から手を離した。
そのはずみで隣にあった漆の文箱を蹴飛ばしてしまう。

「うわっ、ごめん。壊れなかった〜?」

そうっと持ち上げた文箱には何の異常も見られず、ほっと安堵した景時が何気なくその蓋を開けた。
弁慶の後ろについてきていた望美も中を覗き込む。

「ミミズの中のミミズだ・・・」

望美の呟きに景時と弁慶が同時に吹き出した。
異世界の人間である望美がこちらの世界の文字を“ミミズ文字”と呼んでいる事は、
八葉だったら誰もが知っている。
それでも最近は朔や景時、弁慶が書いた文字であれば多少は識別できるようになりつつあった。
けれどその望美をして、文字と認識できないものだったのだろう。

「確かにミミズですけどね・・・」

ふふふ、と吐息だけで笑いながら弁慶が中身を取り出した。
それは書籍ではなく、ただの紙の束だった。
けれどかなりの枚数がある。

「これは幼かった九郎の、数多い汚点の一つなんですよ」

その言葉を聞きつけて、景時と共に異臭の原因を捜索していた九郎が部屋の奥から飛び出してきた。

「べっ、弁慶! まさかっ!」

「ええ・・・君が物知らずだった証明・・・ですよね」

「まだ持っていたのかっ! 捨てろ! 燃やせっ! そんなものっ!」

顔を真っ赤にして言い募る九郎を無視して望美が訊ねた。

「なんなんですか? それ・・・」

「これはですねぇ」

こちらも騒ぐ九郎を綺麗に放置している弁慶が、楽しそうに語りだした。





まだ二人が出会ってそれほどたっていない頃、互いに徒党を組んで
事ある毎に角突き合わせていた最中の話だ。
九郎と弁慶だけではなく、荒れた若者達は幾つもの集まりを作り、
たまたま九郎がその中のひとつと争って怪我をした。

五条河原のほとりで傷口を清めていると、そこに住む貧者の一人である
老婆が九郎を気遣って自分の小屋へと招きいれた。
時折寄ってくれる薬師様から貰った薬があるのだと、知り人のように
細々と世話をしてくれた老婆に九郎は感謝した。
それ以来、折に触れて顔を出すようになり、老婆の言っていた薬師が弁慶だと知る事となった。



「それで九郎さんと弁慶さんは仲良くなったんですか?」

望美の問いに弁慶が首を振った。

「いいえ。その方には僕も大勢の敵に囲まれて困った時に、偶然匿っていただいたんです。
 だから恩人と言える方だったので、その方の眼の届く場所では九郎も僕も
 お互いに争う事はありませんでしたが、それ以外では相変わらずでしたよ」

若さゆえに自分達の行動が愚かだと気づかなかったんですよねぇ、と
どこか苦く笑う弁慶と九郎はちらりと視線を交差した。

「じゃあ、どうして?」

「ええ・・・」



ある日弁慶が老婆を訪ねると、九郎が青い顔をして入り口に座っていた。
老婆が寝付いているという。
まだ薬師として未熟な弁慶だったが、それでも老婆の様子を一目見ただけで
もはや手の施しようが無い事は理解できた。
気休めにしかならないのを承知で、しばらく自分が付き添う事を告げると
九郎は何度も老婆を頼むと繰り返し、そのまま駆け去っていった。
親しみを感じていた人間の死に向かい合う度量も無いのかと、内心侮蔑の思いを抱いた弁慶だったが、
鞍馬の牛若の真骨頂を五日ほど後に知る事となった。



「これをね・・・書き写してきたんです、九郎は・・・」

弁慶の言葉に景時が眼を見張った。
望美に“ミミズの中のミミズ”と評されたその紙束は数百枚はあるだろう。
しかも細かい文字でぎっしりと書かれたそれは経典とも思えるほどのものだ。
とても五日やそこらで書き写せるものではない。
そんな景時の驚きを察した弁慶がクスリと笑った。



鞍馬の寺に戻った九郎は導師である僧侶に、寺にある医術の本を借りたいと申し出た。
この時代、確かな知識を持った医者は朝廷や有力な貴族のためだけに存在するものであり、
市井の民が頼る相手は僧侶か陰陽師、または能力差の激しい薬師と呼ばれる者達だった。
朝廷には膨大な資料から編纂された“大同類聚方”や“医心方”といった貴重な医学書が
献納されていたが、そのような物は一部の特権者しか眼にする事は許されない。
けれど歴史ある大寺院には、大陸から先達が持ち帰ってきた医術に関する秘文書が隠されていた。
もちろん九郎が預けられている鞍馬の寺にも。
だからこそ九郎はそれさえあればあの老婆の命も救えるのではないかと考えて、導師に願い出たのだ。

けれど貴重な経典と変わらぬ価値があるそれを、容易く貸し出すことは出来ない、
まして比叡の荒法師などに貸せはしないと導師は首を横に振った。
それでも九郎の真摯さと必死さに打たれた導師が九郎に貸す事までは譲歩した。
だが、寺からの持ち出しは禁ずる、という。
そして暗に自分で書き写したものであれば、誰に貸そうと勝手だと提示する。
机に向かうのが何よりも苦手だった九郎がそれから五日、一睡もせずにその書籍を書き写した。

『鬼若っ! これを使え!』




すすり泣きに満ちたあばら家の入り口から、朝の光と共に差し込んだ満面の笑みと清冽な声音を
自分はけして忘れる事は無いだろう。
そう胸の中だけで呟きながら弁慶が紙束を握り締めた。

「それで?」

口を閉ざした弁慶に向かって望美が問いかけた。

「九郎の間の悪さは今も昔も変わらなくて・・・」

はぁ・・・と深く吐かれた溜息に、九郎がむっと眉尻を上げる。

「その方が亡くなった直後だったんですから・・・」

間が悪いにもほどがある、と言いたげに弁慶が首を振った。

「たっ、確かに間に合わなかったが、俺はっ!」

「ええ、わかってますよ。九郎がどれほどあの方の事を思っていたか、
必死になって助けたいと祈っていたかはね。
あの後間に合わなかったと知って亡骸を前に号泣しながら幾度も謝罪していた姿も、
力尽きたように倒れこんで二日も眠り続けていた事も、その間夢の中でも
悔いていたのか眠りながら涙を流していた事も・・・。全て覚えていますから」

「忘れろっ! そんな事っ!!」

顔を真っ赤にして声を荒げる九郎を弁慶が穏やかに見やった。

あの時、この真っ直ぐな心根の男には敵わないと、力になりたいと思ったのだ。
これが二人の確かな始まり。




「でもさ・・・これ・・・」

弁慶の手の中にある紙束の文字を拾い読んでいた景時が首を傾げた。

「ああ、やはり君だったら知っていましたか」

楽しげに笑声を上げながら弁慶が言葉を継いだ。

「陰陽師を育成する安倍家で修行していた君ですから、もしかしたら知っているかと思ったんですよね」

くすくすと抑えられないとばかりに笑う弁慶に代わって景時が望美に説明する。

確かにこれは大陸から渡ってきた医学書である事には間違いない。
それ故に全てが漢文であり、一見するととても貴重な物に見えなくもないが、
その実は多少富裕な家であれば簡単に入手できる医術の基本書のようなものなのだ。
現に景時も安倍家で見かけ、それなりに有用だろうと梶原家の蔵書の中にも置くようになった一冊だ。
貴重な本として九郎が書き写すほどの価値があったとも思えなかった。

「だから先程言ったんですよ。“九郎が物知らずだった証”だと。
 平泉の泰衡殿の部屋に見覚えのある本が無造作に置かれているのを
 見つけた時の九郎の顔ときたら・・・」

「いい加減黙れっ! そんなくだらぬ事は全て忘れろっ!」


関連する記憶の欠片までもを失わせたいと、今にも弁慶の首を締めつけようとする九郎の腕を、
景時が懸命に抑えて必死に話題を転換しようとした。

「ま、まぁさ。ここにある物達が薬師であり軍師の弁慶を作ってるんだから、
 多少は大目に見ても良いんじゃないかな〜」

空気を換えるようにと紡がれた景時の言葉に、九郎が冷たい目を向けた。

「そうか・・・。だったらここにあるもの全て、お前の邸に運ぼう。
 あの何だかわからない発明用の部屋に押し込めば、同類同士でさぞや
 話も合う事だろうからなっ!」

言い放つと共に立ち上がり、家人に指図しようと部屋を出た九郎を景時が慌てて追ってゆく。

「ちょ、ちょっと待ってよ九郎! そんな事したら朔が怒っちゃうよ!」

「うるさいっ! 運ぶと言ったら運ぶんだ!」

「九郎〜!」



ぱちぱちと眼を瞬いていた望美が弁慶に視線を戻すと、件の紙束を一枚一枚確かめるように眺めている。

不器用な友の不器用な情愛が形をなした品。
望美にも弁慶の気持ちは理解できる気がして、ふっと微笑んだ。
その気配を感じたのか弁慶が顔を上げる。

「何を・・・考えているんですか?」

「弁慶さんと同じ事を」

「同じ・・・ですか?」

ただ一途に己の全てを捧げて仕えた兄に裏切られ、冷たく閉ざされた門前で、
暗く凍りついた牢獄で、縋るように兄を呼ぶ悲痛な声音が望美の耳に木霊する。

繰り返さない。
あんな悲劇を繰り返してたまるものか。
そのために自分は今、ここにいる。

無意識に握り締めた手の平に、鋭く爪が食い込んだ。

「ええ。命を賭けて働く九郎さんを、どっかの安全な場所から眺めているくせに、
 いずれは美味しい所だけ取り上げてしまおうとする性悪夫婦から守らないといけないなぁ、って」

「性悪夫婦・・・とは、また・・・」

ふふふっ、と吐息だけで弁慶が笑いながら手元の紙束を撫でる。
清冽で一途だからこそ、政の駆け引きに疎い仲間を危ぶむ気持ちは同じなのだ。
弁慶にも望美の危惧と覚悟は伝わっているのだろう。

「守らないといけませんね。愚かな程に純粋な僕達の大将を」

「ええ、何としても・・・」

「でも神にも愛でられる神子姫に、そこまで思ってもらえるなんて・・・ズルイかな」

「は、はぁっ?」

艶めかしく微笑みながら告げられた言葉に、神子は一瞬で頬を染め上げる。

「そんな幸せな男なんですから、神子にふられた悲しい男に部屋の一つぐらい
 好きに使わせてくれたって良いと思いませんか?」

――― にっこり

無敵な笑みに望美は答える事などできない。


『九郎ってば〜〜〜!』

遠くから景時の悲壮な声が響いてきた。

「景時もただでさえ鎌倉と九郎の板ばさみで苦労してる事でしょう。
 この上僕のせいで朔殿にまで叱られるのは哀れですからね・・・。
 九郎を宥めてきましょうか」

やれやれ、とばかりに部屋を出て行く弁慶の背中を見ながら、このふたりは
この先もずっ〜っとお釈迦様と孫悟空のような関係なのかもしれないと望美は思う。
そんな二人と共に、自分も生きていきたいのだ。
たとえ弁慶がこの怪しい部屋で黒魔術を習得していたとしても・・・。
そして時折九郎がその怪しい術の実験台にされているとしても・・・。



そして何をどう言いくるめたのか、今も九郎の京都守護邸には弁慶の黒魔術師部屋が健在であり。
時折思い出したように片付けろと騒ぐ西国大将の姿も、変わらぬ風景としてそこにあった。




                                      了






前々からお世話になっておりましたUTAKATAのutaさんが、今までのブログサイトから脱皮され、
HPを開設されました。メインジャンルを変更して・・・。
そのメインジャンルがこれまた海辻もこよなく愛する『遥かなる時空の中で3』です。

そんな訳で先日utaちゃんとお会いした時に 「那由さん、遥か書いてくださいよ。五条の縁v」 「いいよ〜」
という実に軽〜い会話の流れで生まれたのがこの話です(爆)

海辻が好き好きvと叫ぶキャラはutaちゃんの愛する九郎義経ではありませんので
御曹司こと牛若殿には少々優しくないお話ですが、それでも愛すべき大将として書きました。
そして海辻の愛するキャラ二人も当然出張っております(笑)
これは書き手の嗜好なので、utaちゃんには我慢していただくしか・・・。


こちらの話はUTAKATA様へのサイト開設祝いとして贈らせていただきました。
ただ諸事情により、掲載はしばらくこちらでひっそりといたします。

utaちゃん、サイトの新規開設おめでとうございます。
これからも『遥か』『風』ともに、素敵な作品を拝見させてくださいませv