氷面鏡の裏側に




あの時、放った一言が過ちだったのか。




隊務で神谷さんとふたり、盆屋で張り込むこととなった。
動きがあるのは朝方のはずで、それまでは体を休めておくはずだった。


壬生の屯所で、斎藤さんが不在の夜にふたりきりだった事など幾度もあったし、
子犬のような温もりを胸に抱えて眠った事とてあった。

だというのに、あの日。
ぼんやりと行灯の灯りに浮かび上がるあの人に、劣情を覚えたのは何故か。
求める心のまま伸ばした手の先で、あの人は怯えた瞳をしていた。


「貴女が、欲しい」


その言葉に静かに瞼を閉じたあの人の身を引き寄せ、唇を重ねた。
それから後の事は、あまり覚えていない。

熱持つ吐息と絡まる四肢。
浮き上がる感覚と沈みゆく理性。

激しい鼓動の中で言葉など形をなさず。
ただ飢えを満たすように白い肌に溺れた。

すでに生涯不犯の誓いなど、燃え盛る焔の中に消え去っていた。


そして全てを焼き尽くす閃光に身を貫かれ、荒い呼吸を整える私の下で
貴女が眼を開いた。
その中にあったのは、凍えた感情、それだけだった。




「ねぇ、土方さん」

幾度も逡巡した挙句、ようやく私は口を開いた。

「あぁ?」

面倒くさそうに返事を返されたけれど、そんな事を気にする余裕などなかった。

「あのですね・・・男と女が体を重ねて・・・」

ぎょっとした顔で振り向かれて、こちらの方が目を瞬いてしまう。

「なんだ? お前にそんな相手ができたってのか?」

「いやだなぁ、違いますよ。ちょっと相談されたんですけど、私はそういった
 事には全く縁が無いので・・・どう答えたものか困ってしまって。
 土方さんだったらわかるかなぁって思ったんですよ」

いつものように惚けた様子で答えると、土方さんは安堵したような
がっかりしたような複雑な顔で首を振った。

「まぁな、そんなとこだと思ったぜ。・・・で? なんだって?」

「ええ、ですからね。体を重ねた後で、呼吸も整わないうちに女子が
 身支度を始めて帰ろうとするっていうのは・・・」

「ああ、そりゃ脈はねぇだろうな。商売女じゃないなら、抱かれる事の快楽だけが
 目的なんじゃねえか? それ以外だと、何か断れない事情があって
 言う事を聞かなきゃならねぇか」

胸の隅にちくりと痛みが走った。
確かにそうなのかもしれない。
上司である私を、あの人が女子だと言う事を知っている私を、
あの人は拒絶できずにいるのかもしれない。


「なんだ、そんなやつが隊内にいるのか?」

不快な表情を隠そうとしない土方さんに苦笑を返す。

「いえ、町で知り合った人の話ですよ」

「そうか、あんまり変なやつに近づくんじゃねぇぞ。
 女を脅して好きにするなんざ最低の野郎だからな」

既に頭の中では最低男の像が出来上がってしまったようで、土方さんが眉根を寄せた。
はい、と返事をしながら胸の中で頭を下げる。


すみません、土方さん。
あなたが嫌悪する最低男は私なんです。





あれから幾度も盆屋に呼び出した。
凍ったままのあの人の瞳は何の感情も無く、氷面鏡の如く冷たく私を映す。
それでも熱を交わしたかった。
きつく閉じられた瞼の向こうで揺らぐ感情を感じたかった。
耐え切れず時折漏れる喘ぎを聞いて、あの人の全てに溺れたかった。

神谷さん、神谷さん。

幾度も呼ぶ声は、ただ胸の内だけで。
睦言のひとつも無い、無言の交わりが繰り返される。




ごそり、と隣で身じろぐ気配がした。
胸を突き破るかという鼓動がどうにか収まりつつある中で感じたその気配が、
精を放った脱力感よりも強く私の内から何かを流失させてゆく。


「もう、戻るんですか?」

問いかけた私の言葉に神谷さんは背を向けたまま黙って身支度を整えてゆく。

「私達は非番なんですから、明日の昼までに戻れば良いんです。
 たまにはゆっくりしてはどうですか?」

苛立ちを表に出さぬよう、極力感情を抑えて言葉を重ねる。
無言のままで襦袢を着、袴をつけ終わった神谷さんが袷を肩に羽織ろうとした。
その手を後ろから握り締め、こちらに引き倒す。

いきなり床に押し付けられ、上から圧し掛かられた体勢にも驚く気配を見せもせず、
無表情を保ったままだ。
それが尚の事、私の神経を苛立たせた。


「戻って良いなんて言ってないでしょう?」

するりと襦袢の中に手を差し入れる。

「まだ夜明けは遠いんですよ」

襦袢を開くように、体の線に沿って手の平を滑らせる。

「私は、まだ満足してないんです・・・」

再びの熱を求めようと、その唇を塞ごうとした。


「でしたら・・・」

神谷さんを抱くようになってから、盆屋で始めて聞いた声だった。
いつも何一つ言葉を紡ごうとはしなかった彼女だから。

はっと顔を上げ、顔を覗き込んだ私の目に映ったのは皮肉気に歪められた唇。
一度強く噛み締められた唇が、ゆるやかに開いた。

「でしたら遊女でも買われればよろしいでしょう」


何を言われたのかが理解できなかった。
体も心も一切の機能を止めた私を押しやると、神谷さんは手早く身支度を整え
部屋を出て行った。
一度として振り向きもしないその後姿がひどく遠く感じ・・・。
ただ悪夢の中の出来事のように、私の心を切り刻んでゆく。


―――彼女は何を言った?

オンナヲ カエ ト

―――冷たい瞳と凍った声は私に何を突きつけた?

オマエノ ネツナド ツタワッテイナイ ト


床に幾度も拳を打ちつけた。
胸の中で風が荒れ狂う。

言葉無き体の交わりは、買った妓に劣情を叩きつけるが如く
想い無き一時の遊興としか受け取られていなかったのだ。

わかっていた。
あの人の瞳を見るたびに、そんな事はわかっていた。
それでも重ねた時間の重さ故、かならずどこかで伝わるものと
吐息を絡めるその度に、信じて願って乞うていた。

ただひたすらに、恋うていた。


始まりが間違っていたのだろうか。
熱に浮かされ伸ばした手は、やはり過ちだったのだろうか。

あまりに強き想い故に形をなさず胸に凝った言の葉たちが、
ひび割れ砕け空に散る。
消え逝く言葉の一片なりと音と紡いでいたならば、
互いの距離がこれほどに遠いものとはならずに済んだか・・・。


激しい後悔の波が去った後、虚空を見つめ続ける私の目には
遠ざかる凍えた背だけが映っていた。









「おい、総司」

「どうしたんですか、土方さん。真面目な顔して」

「浅葱の着物の女はどうした?」

「なんですか、突然」

「もう、いいのか? 探している気配もねぇが・・・」

「・・・まぁ、色々と・・・」

「その女の事を割り切ったなら、いい加減他の女と所帯を持たねぇか?」

「はい?」

「近藤さんが良い娘を見つけてきたんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「大阪奉行所の役人の娘らしいんだが、結構美人だし気立ても」

「土方さん」

「あ?」

「私にその気は無いんですよ。近藤先生の命令だとしても・・・お断り願います」

「お前・・・」

「もう、決めているんです」

「惚れた女がいるって事か」

「ええ」

「何か約束を交わしたのか?」

「いいえ。・・・まだ片戀なので・・・」

「馬鹿野郎! そんなのとっとと抱いちまえばいいだろうが」

「そういうものじゃないんですよ」

「いや、男と女ってのはそんなもんだぜ」

「土方さんの言うような女だったら、私は本気になりません。
 いくら体を重ねようと、想いが届かなければ無意味なんです」

「・・・・・・抱いたのか?」

私は黙って微笑んだ。
何かを感じたのか、それ以上土方さんは何も言わなかった。



部屋を出ると土方さんに命じられたのだろう。
盆に茶を乗せた神谷さんが、俯いたままで立ち尽くしていた。
その手から盆を取り上げると部屋へ戻って土方さんの前に置き、
そのまま神谷さんの腕を掴んで屯所を出た。






明るい陽射しを川面がきらりと反射させる。
背の高い葦の向こうは私達の定位置。
私があの愚かしい行為をする前には、よく二人でここへやってきた。
時には甘味を携えて。
時には優しいあの人の声音を子守唄がわりに夢路を辿った。

瀬を渡る爽やかな風の中で、確かにあの人の心と触れ合っていた時間があった。
砂を噛むような孤独と焦燥の中で、心の伴わぬ抜け殻の体を重ねるのとは
比較にならぬ程の至福の時だった。


もう戻らない。
そんな温かな刻を壊したのは私なのだから。

どれほど謝ったとて、もうあの時間をこの手にできぬ事は理解している。
傷つけられたあの人の心が元に戻る事もあり得ない。


それでも、もう二度と貴女に触れる事は無いと。
貴女の秘密を知る上に、逆らう事のできぬ上役である私の愚劣な行為で
貴女を苦しめる事はしないと。

心からの謝罪と共にこの人に伝えなくてはいけないから。
出来るものなら腹を切って己の愚かしさを償いたいけれど、私の命は私が勝手に
捨てる事は許されないから、この人が望むなら一番隊以外への配置換えも
土方さんに乞うつもりだ。
例え以前のような笑顔が戻らずとも愛しい人の傍に居たいけれど、この人にとっての
自分はただ疎ましいだけの存在に成り下がっているのだろう。

自分以外の男の下で笑う愛しき人の姿。
胸を苛む悋気も羨望も、全て己の罪ゆえに。
どれほどの苦痛と空虚さに苛まれようと、それを受け入れるが己が罰。
耐える覚悟はすでに決めた。

ただ・・・ただこの人の心の傷が、いつか癒える事だけを願う。



「聞いて、いたんでしょう?」

いつもの場所に腰を下ろし、少し離れた場所に座った神谷さんに声をかけた。
屯所を出てすぐに掴んでいた腕は離した。
その時ちらりと盗み見た、俯いたこの人の頬がひどく強張っていた。
また無理矢理盆屋へ連れて行かれると思ったのだろう。
純粋に私を慕ってくれていたこの人を、どれほどに傷つけたのかを改めて思う。

光を弾く川面に視線を戻し、その眩しさに目を細めた。
と、感情を押し殺した声が耳を掠めた。


「・・・どうして、あんな事を仰ったんですか・・・」

「え?」

―――あんな事?

神谷さんが指している言葉がどれなのかわからず、彼女を振り返った。
相変わらず俯いたままの彼女は、自分を抱え込むように腕を回し、
零れる激情を必死に抑えているように見えた。

「局長の選んでくださった縁談ですよ? なぜ断ったりしたんですか?
 沖田先生の為に良かれと思って考えてくださったんです。それをなぜ」

表情はわからない。
けれど時折強く噛み締められる唇が、何より雄弁に感情の揺らぎを表している。

「偽者など欲しくないですよ・・・」

私が欲しいのはただ一人。
それがわかってしまっている以上、身代わりなどは欲しく無い。
そんなもので満足できるほど、身を焼く熱情は淡くない。

「すみませんでした。貴女に苦しい思いをさせましたね。
 想う相手でもない私が、己の欲に抗えなかったばかりに・・・」

「そんな事を聞きたいんじゃありませんっ!!」

突然迸った貴女の怒声に私の背がビクリと揺れた。

「沖田先生は沖田の家をお継ぎにならなくてはいけないんです!
 きちんとしたお家からお嫁様を貰って! 局長も副長もそれを望んでおられるっ!
 だと言うのに、なぜお断りなんてするんですかっ!」

顔を上げた神谷さんは必死に涙を堪えている。
彼女が何を言いたいのかが私にはわからない。

「私は貴女を・・・」

神谷さんが幾度も首を振る。

「私は武士ですっ! この先も武士として沖田先生の隣で闘っていきます!
 女子として先生に添う事などできないのですっ! だからっ!」

ぽろりと一粒零れた涙を追って、堪えきれなくなった雫が次々と
滑らかな頬を転がり落ちる。
その瞳の中に、確かに激しい熱を見つけた。


「貴女に私の想いは伝わっていたのですか?」

膝でいざり寄って彼女の細い肩を掴んだ。

「知りません! 私は何も知りません!」

子供のように首を振る神谷さんの頬に手を添えて視線を合わせる。

「私が貴女を恋うていた事、その想いは伝わっていたんですね?」

この一点だけは譲れない。
想いの添うた行為と劣情だけの行為では天と地ほどの違いがある。
その違いはそのままこの人の傷の深さになっているだろうから。
それを確認せずにはいられなかった。

「神谷さんっ!」

激しく肩を揺すられて、神谷さんが強く瞼を閉じた。

「・・・・・伝わらないはずが無いじゃないですか・・・」

弱い弱い声音で彼女が答える。

「どれほど沖田先生の近くで先生を見つめていたと思っているんです?
 先生の指が手の平がその身の全てが想いを伝えてくださってましたよ!!」

叫ぶような声と共に、彼女が私の袷を掴んだ。

「だからっ!! 私が自分の想いを閉ざすしかなかったんです!
 先生には沖田の家があるっ! 局長の願いがあるっ!
 私の事など一時の気の迷いとして、忘れて」

「馬鹿な事を言わないでくださいっ!!」

彼女の言葉を遮り、もう二度と触れまいと誓っていたその細い体を
力の限り抱き締めた。
同時に切なくも痛々しい言葉を吐き続けるその唇を塞ぎ、
固く閉ざされた歯列を割って吐息まで奪う。
私の身をなんとか離そうと暴れるその身を地に押し倒し、激情のままに
想いを注いだ。



唇から幾筋もの雫が零れる頃にようやく甘いそれを離すと神谷さんが
荒い呼吸のまま、私を睨みつけた。
けれどそんな視線は怖くなど無い。

「ねえ、神谷さん。近藤先生も土方さんも私が不幸になるのをわかっていて、
 無理矢理に妻を持たせようなんて考えませんよ」

口づけの余韻で紅く濡れた唇を噛み締める彼女の視線はまだ鋭い。

「貴女が女子に戻らず、このまま隊に残りたいならそれも構いません。
 けれど・・・お願いですから、私を突き放さないでください」

揺らぐ彼女の眼差しに畳み掛ける。

「私が欲しいのは貴女だけなんです。他の女子など抱きたくない。抱けません。
 そんな事を貴女に求められるのが、何より苦しい・・・」

遊女を買え、とこの人に言われた時の心の痛みが甦る。
出来るはずが無い。
この人以外の誰かを抱くなど、したいとも思わない。
むしろそれは自分にとって拷問にも等しい責め苦なのだ。

「神谷さん・・・貴女が二度と触れるなと言うなら、もう二度と触れません。
 男として好いて欲しいなどと望みません。でも他の女子を押し付けるなど」

言葉の途中で彼女のしなやかな腕が私の首に絡んだ。
そのまま強く寄せられた柔らかなその身に体が固まる。

「好いてます・・・先生だけを武士の神谷も女子のセイも・・・
 私の全てでお慕いしています・・・」

耳元で囁かれた言葉が信じられず、体を離しその顔を覗き込んだ。
潤んだ瞳の中には確かな恋情が宿っていて私の全身を喜びの波動が広がってゆく。

「本当・・・ですか?」

それでも信じられず問い返す自分の声は情け無い程に震えている。

「沖田先生が・・・好きです」

揺らぐことの無い視線が言葉と共に私の魂を包み、癒した。



抑えようの無い恋情と歓喜の奔流に押し流され、幾度も唇を合わせ睦言を繰り返す。
愛しき思いをこの素直な人が、どれほどの苦しみの中で押さえ込んでいたのか。
己の苦痛など児戯に等しいと思えてくる。
惚れた男の熱情を感じながら冷えた面を作り続け、陰でどれ程涙したのか。

もう、させぬ。
そんな思いは二度とさせぬ。

妻として腕に包んで愛でる事は出来ずとも、生死の境目にある時に
必ず傍にいられるのだ。
私の最後の吐息を奪うは貴女。逆もまた同じ事。
これ以上至福の事があろうものか。


腕の中で頬を上気させる愛しい人の瞳を覗く。
もはやそれは凍えし氷面鏡などではなく、灼熱の坩堝ともいえる熱を宿す。

その熱が私の全てに伝播した。


「ねえ・・・ここではさすがに人目がありますから、行きませんか?」

不思議そうに瞬くその眼は以前のままで、知らず頬が緩んでしまう。


「貴女が・・・欲しい・・・」



それは全ての始まりの言葉。
ふたりの関係を狂わせたはずの、過ちの象徴とも言う言葉。

けれど・・・。

神谷さんは首筋まで桜色に染めて、小さく確かに頷いた。



だから。
永遠に、私が欲するのは貴女だけ。