君の場所





神谷さんが三番隊に配置換えになってから十日と少し。
最初はあの子が兄とも慕い、あの子の事を大切に扱ってくれる斎藤さんの
傍にいる事に安心していたけれど・・・。



最近、一番隊の隊士達の様子がおかしい事に総司は気づいていた。
もともと一緒の部屋で寝起きしているのだから、組長である以上自分の部下達の様子には
注意を払っていた。
寝不足の隊士が日々増えている。
昼間もどことなく落ち着かない。
理由はわかっていた。自分も彼らと同じだから。


セイが三番隊に配置換えになった三日後、夜間の巡察中に彼女は怪我をした。
幸い肘の下辺りを浅く切られただけで医療に長けた本人が手当てをして終わる程度のものだったが、
一番隊の隊士達を動揺させるには十分な出来事だった。
隊内一の使い手である一番隊組長の沖田総司が手塩にかけて育てただけあり、
切り合い中でもセイの周囲に対する注意は細心で敵の動きに真っ先に反応していた。

まして元々の身の軽さと俊敏さからセイの動き出しは群を抜いていた。
一瞬の油断や躊躇が取り返しのつかない結果に繋がる事を、総司から繰り替えし
教えられてきたからだ。
そんなセイだから逃げようとする浪士や隠れている敵にいち早く気づき、
思考より先に瞬時に体が動く。
周囲の隊士達が反応しても、すでにセイの動きについていけるはずもない。
精鋭揃いの一番隊でも、特に反応速度の良い者達が常に“神谷番”として
セイの近くにいた。
特に総司が指示したわけではないが、セイと共に動いていれば必然的に
効率良く敵を追い詰める事ができる事を周囲が理解していたからだ。

けれど彼らはただ役目の遂行の為だけにセイと共にいたわけではない。
見た目のままにセイは力が弱い。
華奢な体躯は俊敏ではあるが、体力のある敵と斬り合いになればどうしても不利になる事は
間違いない。
だから仲間達はセイが一人で敵と対峙する事がないように注意していた。

誰にでも分け隔てなく惜しみない優しさを与えるセイを、
小さな体に収めきれないほどの命の輝きを常に放ち続けるセイを、
真っ直ぐに信じた道を見据え、その先にある敬愛する男の背を追い続けるセイを、
誰もが愛おしく、ほんの少しでも彼女の身を守る助けになりたいと思っていたから。
でもセイは配置換えになってしまって。

一番隊の皆が心配しているうちに、事件は起きた。



深夜の巡察中に不逞浪士数名と遭遇し、あっという間に乱戦になったという。
初めは斎藤の背を守るように敵と切り結んでいたセイだが、周囲の切り合いが
沈静に向かった一瞬に突然走り出した。
まだ敵と刃を交えていた斎藤も反応できず、周囲の隊士達が慌てて後を追った時には
セイの小さな体は闇の中に消えてしまっていた。
そしてしばし後、捕縛した浪士を引き立てたセイがその場に戻ってきた。
その腕を自分から流れ出た朱に染めて。


その日から一番隊の隊士達はセイの属する三番隊が巡察に出ると無事にセイが
戻ってくるまで落ち着かなくなった。
そんな不穏な空気に気づかぬままに、セイは戻ってくるたびにどこかに傷を負ってくる。
どれほど周囲がセイに注意を払っていても追いつけないのだ、彼女の速度に。
そして誰よりも早くセイは気づいてしまうのだ、危険の気配に。
畢竟、セイは単身危険の中に飛び込んでいく事になる。
逃げる事や、自分の身の安全を考えて目を逸らすことなど考えられずに。


最初は一番隊が独占していた可愛らしい隊士を自分達の所に迎えられた事に
喜びきっていた三番隊の隊士達が疲労の色を濃くしだした。
傷を負っても笑っている、ひとりぼっちで戦い続ける同志の姿に、微笑みながら傷を増やしていく
仲間の姿に痛ましさと自分達の不甲斐なさを実感して。
このままではこの小さいながらも揺ぎ無い存在感を持った仲間を
無為に失ってしまう予感に怯えて。
隊務の最中でも集中出来なくなりだした。
それは組長である斎藤すらも例外ではなく。




屯所の濡れ縁で刀の手入れをしている斎藤の背に疲労の影を見た総司は
思わず声をかけた。


「お疲れのようですね、斎藤さん」

いつもと変わらぬ穏やかな声音に振り向いた斎藤の目に、やはり疲れたような
笑みを浮かべた総司の姿が映った。

「あんたも随分ひどい顔色をしてるぞ。眠れないって様子だな」

「あははは、そうですね。振り回されますねぇ、あの子には」

言葉を重ねなくともお互いの疲労の原因は理解できている。
総司につられて斎藤も苦笑した。
二人が目を向けた先では、夜勤明けというのにパタパタと元気良く洗濯物を干す
セイの姿があった。


「活きが良いのも、思い切りが良いのも、時と場合によるんだがな。
 あれが真剣に仕事をしている以上、こちらも文句のつけようがなくてな」

「そうですねぇ。本当にあの子といると、こっちの寿命が縮むような思いを
 何度もさせられますよねぇ。だから大人しくしててくれと言っても
 大人しくしてくれる人じゃないですし・・・」

「あんたが鍛えすぎたせいじゃないか?」

斎藤の言葉には総司も溜息を返すしかない。

「そうですかねぇ。でも鍛えておかないと、丸腰のままで敵に突っ込みかねない
 人なもので。あの人、無茶ばっかりするんですもん・・・」

「まぁ、確かに・・・」

今度は斎藤が溜息をつく番だった。


「神谷さん・・・」

掠れたような、どこか不安げな総司の声に斎藤は視線を戻した。

「昨夜も怪我をしたそうですね」

「あぁ」

小さく答えながら再び目を戻したセイの袖や袴からは、動くたびに白い包帯が
チラチラと見え隠れしている。



昨夜は切り合いではなかった。
夜中に突然高熱を出した母親に驚いた子供が医者を呼びに行こうとする途中、
酔った町人に突き当たり、砂袋のように殴られていた。
子供の悲鳴を真っ先に聞きつけたセイが逸早くその場に飛び込み、咄嗟に町人から庇おうと
腕の中に子供を抱え込んだため、そのまま乱暴を受ける事になった。
今もセイの柔らかな頬や額には痛々しい痣や擦り傷が残っている。



「先に抜き身を拝ませれば、その町人も大人しくなったでしょうに」

総司の声にセイから視線を外さぬまま、斎藤が答えた。

「咄嗟の事だったから、そこまで考えが及ばなかったそうだ。」

突然走り出したセイに追いついた斎藤が酔っ払いを追い払ってから、同じ事をセイに問うた時、
彼女は困ったように笑っていた。

―――すみません。そんな事考えもつかなかったんです。それに抱え込んだら
この子がしがみついて離れてくれなくって。でも少し我慢していたら
きっと先生方が助けに来てくれるって信じていたから。

腫れかけている頬や僅かながら出血している額を気にする事も無くニコリと笑ったセイは
そのまま腕の中の子供に事情を聞くと、医者の所まで同行する許可を斎藤に請い、
そのまま行ってしまった。
慌てて斎藤がセイにつけた隊士と共に明け方帰営したセイは、子供の母親の熱が下がった事を
自分の事のように嬉々として報告してきた。
相変わらず、自分の怪我の手当てもしないままに。



「怖い・・・ですよね」

思考に沈んでいた斎藤は、総司の声に意識を戻した。

「人の死なんて日常で慣れているのに、あの人が消えてしまうかもしれないと思うと
 怖いんですよね」

こんな事を思うなんて、どうかしているんでしょうけれど・・・
消えるように小さく囁かれた声に斎藤は空を見上げた。

「同じだろう。うちの組の隊士達もそう思っている。毎回、今回の巡察で
 神谷が死ぬんじゃないかと怯えている。あんなに気を磨り減らしている
 奴等は始めてだ。俺も同様だがな」

「斎藤さんもですか?」

「当然だ。・・・あの首の傷・・・」

セイの首筋にうっすら残る傷を睨みつけるようにして斎藤が言う。

「あとほんの僅か深かったら、あいつは今頃土の下だ」


逃げた浪士を追いかけたセイが、振り向いた相手の懐に飛び込んだ瞬間
敵が大刀ではなく小柄を構えていた事に気づかなかったために、負った傷。
走り出したセイに追いつける仲間は誰もおらず、その時もセイはひとりだった。
ひとりきりで敵に対峙し、追いついた仲間に傷ついた姿のまま笑った。
心配させてすみません、とひどく儚く淋しげに笑った。

巡察を終えて戻ったセイの姿を見て、総司の全身から一瞬で血の気を引かせる
場所についた傷。


「次の傷は・・・」

斎藤はそれ以上を言葉にする事はできなかった。
言霊となり不吉な力を持つような不安があったからか。
けれど思った事はふたり同じ。

・・・今度こそ、あの子は冷たく物言わぬ姿で屯所に戻るのかもしれない・・・

同時に背筋を冷たいものが走ったふたりは、そろって心を決めた。



先に口を開いたのは斎藤。

「俺の所では、あれを守りきれん」

視線の先には小柄な隊士の姿を見つけて走り寄ってきた原田に抱き締められ、
そこから逃れようとバタバタと暴れるセイの姿。

セイから目を離せずに強張った声で答えたのは総司。

「私の所なら守れると?」

総司に視線を戻し斎藤は唇の端を吊り上げた。

「少なくとも、同じに命を落とすなら、あんたの傍の方があれも嬉しいだろうよ」

それにそれなら俺もあんたも納得できるだろう・・・という言葉は飲み込んで。

「うちの連中も一番隊の連中も、こんな不安を抱えたままでは隊務に集中できないしな。
 俺は部下を無駄死にさせる無能な上司になるのは御免だ」

いつもの平坦な声音に戻った斎藤に、総司はくすくすと笑いを溢した。


「では、神谷さんは返してもらいますね」

まるで元々自分のものだったかのような言い草に斎藤の片眉がピクリと上がる。
が、仕方がないかと心で溜息をついた。

「あぁ」

斎藤の内心を知ってか知らずか、ひどく穏やかな顔で総司は微笑んだ。

「本当にご迷惑をおかけしました。土方さんには私が言いますね」

「いや、副長には俺が話をしよう。あんたが相手だと意固地になって
 今度は神谷を別の隊に移しかねん」

総司は斎藤の言葉に思い当たる節があるようで、少し困った顔で頭を下げる。

「何から何まですみません」

「あんたは神谷に話をしてやれ。くれぐれも変な言い回しで怒らせるなよ。
 あれが臍を曲げて三番隊に残るなどと言い張ったら、またややこしくなるからな」

セイがそんな事を言う訳がないとわかっていても、少しの意地悪を言いたいのは
惚れた相手を手放すしかない悔しさ故か。
そんな斎藤の複雑な思いには気づかず、総司は晴れやかに答えた。

「はい。ありがとうございます、斎藤さん」




ようやく原田を追い払ったセイは、濡れ縁から自分を手招く総司の姿に気づいて
パタパタと走り寄った。

「沖田先生、いつからここに? さっきは兄上がいらっしゃったと思うんですが」

斎藤には気づいたセイが自分の存在には全く気づいてなかった事に少しムッとしながらも、
セイが自分の下に戻ってくる事で気分を良くしていた総司は隣に座るよう床をコツコツと叩いた。


「何だか沖田先生、顔色が悪いんじゃないですか?」

すすめられるまま隣に腰を下ろしたセイが、心配そうに顔を覗き込んでくる様子は、
総司の胸を温かなもので満たしていく。
ちゃんと寝てますか? ご飯食べてますか? と真剣に総司の体調を気遣う姿に
思わず口元が緩んでしまうのを止められず。


「あのね、あなた三番隊に行ってから怪我ばかりしていたでしょう?」

すいと伸ばした手で、腫れた頬、かさぶたになりかけてる額、そして首筋の傷に触れていった。
総司の指先の感触にピクリと体を強張らせたセイの耳元に顔を寄せ、優しく囁く。

「斎藤さんも三番隊の皆さんも、無鉄砲な貴女の面倒を見きれないんですって」

ばっと顔を上げ、怒った表情で何かを言おうと開きかけたセイの唇を指で押しとどめる。

「だからね、戻っておいでなさい。相田さんも山口さんも貴女が心配で心配で
 眠れないんですって。他の皆も同じみたいですよ」

沁みるような総司の笑みにセイの瞳が潤んでくる。

「私もね、貴女の傷が増える度に胸が痛かったですよ。私の傍にいたなら、
 こんな怪我なんてさせなかったのに・・・って」

セイの唇から離れた総司の指が再び額、頬、首筋と傷を癒すように辿っていく。


「せんせ・・・」

大きな瞳からポロポロと毀れる涙を優しく拭ってから、総司はセイを自分の膝に抱き上げた。
傍らにあった柱に背を預け、ゆったりとセイを抱き締めたままに吐息を吐くように言葉を紡ぐ。

「好き勝手に飛んでいってしまう鉄砲玉の貴女を守れるのは、私の所だけらしいんですよねぇ。
 でもそんな困った貴女の事を、皆がとても大切に思っているんですよ。
 だからね、自分を大切にしてください。不注意な怪我なんてしないで。
 皆に心配かけないで」

子供にするようにトントンと背を叩きながら囁かれる総司の言葉は
セイの張り詰めきった心の糸を緩めていって、どうにも涙が止まらなくなる。

「・・・一番隊に・・・戻っても・・・っく・・・いい・・ぇっく・・・んです・・・っ・・・か・・・ふっ・・・」

つかえつかえ、それでも必死に問いかけるセイの月代に手を添えて総司が頷く。

「戻っておいで。貴女の居場所は・・・」

照れたように一瞬視線を泳がせてから、セイを抱き締める腕に力を込めた。


「ここでしょう?」

耳元で告げられた言葉に、セイは総司の胸に顔を押し付けて泣き出した。
ようやく戻れた何よりも愛しい人の腕の中で、子供のように涙をこぼした。




しばらく後。
土方を説得してセイの一番隊復帰を取り付けた斎藤が戻って見たものは、
濡れ縁の柱に背を預け幸せそうな微笑を浮かべて寝入っている男と、
その男の腕の中に宝物のように抱え込まれ、安堵しきった子供のように眠る
小さな隊士の姿だった。

微かな胸の痛みを押し込めて斎藤は微笑んだ。
これで今夜から自分も含めた皆に、この二人のような穏やかな眠りが訪れるだろう。


それを約束するように、見上げた冬空は柔らかな茜色に染まっていた。