北に舞う風





「神谷、お前が・・・なぜ?」

新選組の古参隊士に連れられて現れた人間を凝視したまま
土方は続く言葉がなかった。



自分を部屋に通すと場を辞そうとする隊士に向かって軽く会釈をすると、
静かに土方に向き直り、その人はニコリと笑んだ。

「ご無沙汰しております、副長。お元気そうで何よりです」

その笑みは柔らかく、もう滅多に呼ばれる事も無くなった“副長”という
自分の呼称と共に胸に沁みた。

「総司の事はお前が文を寄越したはずだ。最後まで世話をかけたな、
 兄代わりとして礼を言う。」

一度軽く頭を下げてから言葉を続けた。

「だが、なぜお前がここにいる。もうお前の“誠”を捧げる対象はないだろう。
 本来の姿に戻っていると思っていたぞ」




神谷清三郎こと富永セイがどんな事情で女子ながら武士と偽り
鬼の住処と呼ばれる新選組に入隊したかは、京で総司が病に倒れ
病床に伏すようになった時に近藤と共に聞かされていた。
すでに女子の輝きを常に纏うようになっていた神谷を、影になり日向になりして守る
自分のいない局中にこのまま置くことは危険極まりなく、この機会に彼女を普通の女子の
幸せの中に返してやりたいとの思いが総司からは滲み出ていた。

突然聞かされた事実に近藤も土方も驚きを隠せなかったが、
そう時間を必要ともせず自分達が納得している事に気づいた。
総司も神谷も一度として表面に出した事はなかったが、常に二人でいる姿は
あまりにも自然で仲の良い兄妹とも恋人とも見えていたからだ。
総司の必死の懇願に兄代理の二人は静かにうなずき隣室に控えていた神谷を呼ぶと、
隊を抜けることを命じた。
しかし彼女は頑として首を縦に振る事はなかった。

総司がどれほど説得しても、土方が隊には女子の居場所などないと怒鳴りつけても、
近藤が局長命令だと命じても、静かに首を横に振り続けた。

「てめぇ、今のお前は隊士なんだぞ。局長の命令を聞けねぇって事は
 隊規違反で切腹だって事を忘れたわけじゃねぇだろうなっ!」

あまりの強情さに痺れを切らせた土方の切り札に彼女はふわりと微笑んだ。

「隊士として切腹を申し付けられるのなら、最後の瞬間まで武士でいられるなら、
 それこそ本望です。神谷清三郎という武士が誠を捧げた方のお傍で魂となって
 お守りいたします。どうぞ隊を抜けろなどと仰らず隊命違反の咎で
 切腹をお申し付けくださいますよう」

今一度姿勢を正すと、すっと頭を下げた。

「神谷くん。君の“誠”は誰のためのものだい?」

神谷の強固な覚悟に一瞬言葉を失くしていた近藤が、自分を取り戻しながら問いかけた。

「武士の卵であった神谷清三郎の前に、常に武士であり続け少しも揺らぐ事の無い姿で
 いてくださった方のものです。神谷に武士としての全てを言葉でなく、その生き方で
 示し続けてくださっている方のものです」

「・・・総司かよ」

ポツリと呟いた土方に、そればかりは入隊当時から全く代わることの無いまま
神谷はニコリと素直な笑顔で答えた。

土方は はぁ、と溜息をつくと、一瞬絶句し目を見開いたまま顔を真っ赤にさせた
総司に向き直った。

「悪いが俺達にこの頑固者の説得は無理だ。女子の身であの鬼の集団に溶け込み
 “新選組の阿修羅”の名さえ違和感なく暮らしてきたやつだ。
 そんな生き方を武士(おとこ)だったら否定なんざできやしねぇ。
 ましてやコイツをそう育てたのはお前だ。最後まで責任とって面倒みるんだな」

隣で近藤も頷いた。

「神谷くんが望むなら別として、本人が望まない事を無理やり押し付ける事はできない。
 だが、確かに総司不在では隊内で何かと不都合が起こりかねない。
 神谷くんが本当は女子だなどと発覚してはまずいだろう。
 このまま総司付きの看護役として、総司と共に隊を離れてもらおう。
 君は医者の子だし、総司の介護を任せたい。」



そしてそのまま隊を離れた総司と神谷は、大阪・江戸と療養の地を移し
静かに残り少ない時を慈しんで過ごした、と土方は聞いていた。




江戸を離れる前に一度だけ総司の見舞いに赴いた折、痩せ細った総司の枕元で
女子姿に戻り穏やかに微笑む神谷を見た。
春の陽だまりのような暖かな空気に、総司があれほどに隊を抜けさせたがっていた気持ちが
わかるような気がした。
やはりこの娘は命を絶つ側でなく守る側にいるべきなのだと。

そう感じた相手が腰に大小を差して目の前にいる。


「総司はお前が女子として幸せになってくれる事を何より望んでいたはずだ」

「そうでしょうね」

「ならなぜ、今、お前は、男のなりをして、ここにいる?」


相変わらずの眉間の皺を更に深める土方に、困ったような笑みで神谷が答えた。

「沖田先生は最後の最後まで新選組一番隊組長で、私の上司であり続けました。」

「なん、だって?」

信じられない事を聞いたように土方が問いかえす。

「あの方の武士道です。私に男として新選組での居場所を作った以上、
 決して私を女子として相対する事をご自分に許す事はありませんでした」

「ずっと、上司と部下のままだったっていうのか」

「はい。男と女子としての触れ合いはただの一度も。そういう思いでは手を触れる事すら・・・」

「な、にを考えていたんだ総司の野郎はっ。不器用にも程があるだろうっ」

激した感情のまま声を荒げる土方にむけて、神谷はいっそ清々しいほど晴れやかに笑う。

「それが先生ですから」

「・・・だったら尚更だ。全て忘れて女として生きろ。そして今度こそ幸せになれ」

「沖田先生が逝かれる前、最後に仰いました。『私が逝ったら本来のあなたに戻って
 幸せに生きてください。それが私の最後の願いです』と。
 それまでも幾度も私らしく生きて欲しいという事を言われておりました。
 だから、私らしく生きるためにこの地に、副長のお傍に参りました」

「どういう意味だ」

「私の誠は沖田先生のもの。沖田先生は最後の瞬間まで近藤局長や土方副長の
 隣に戻りたいと願っておいででした。今頃先生は局長の隣で満足げに笑っておいででしょう。
 ですから沖田先生の意思を継いだ私が、せめて副長のお傍にいさせていただきます。
 いずれ沖田先生が迎えにいらっしゃるまで」

窓から見える冬の気配の濃くなった景色に目をやりながら、その時を待ち焦がれるように
神谷は遠い目をする。


「ふざけるなっ、お前は総司じゃねぇっ」

「もちろんです」

「お前が死ぬ事なんざ、総司は望んじゃいねぇっ。俺はあいつに恨まれるなんざごめんだっ。
 それにここに女なんかの居場所はっ」

「女子のっ!」

初めて神谷が土方の言葉を遮った。

「女子のセイは父や兄と共に死にました。時折亡霊が現れては、沖田先生に
 ご迷惑をかける事もありましたが、あの子はどこにもいないのですよ、副長。
 ここにいるのは神谷清三郎という一人の武士です。誰よりも敬愛する方に
 決して恥じることなく、その方の望み通りに自分らしく生きる一人の人間です。
 どうかその生き様を否定なさらないでください」

神谷の真っ直ぐな眼差しに射抜かれて土方は口をつぐんだ。
元々真っ直ぐに相手を見つめる童だった。
けれど今の彼女の目は昔のキラキラとした輝きの中に熱を宿したものではなく、
静かに澄んだ水面を思わせる、まるでサラサラと陽光はじく多摩の清流のような
静謐な透明さで。

(この目は、どこかで見た・・・いつも見ていたような・・・。
 あぁ、総司だ。総司の目だ。そうか、あいつがいるんだなぁ)


京で病の床から神谷を脱隊させようと必死になっていた総司や近藤と共に
彼女を説得していた事を思い出して思わず笑いがこみ上げる。

(なぁ、近藤さん、総司よ。誰よりも最強なのはコイツじゃねぇのか?
 三人がかりで説得したって聞きゃしなかったんだ、俺一人でなんとかしろってのは、
 無理ってもんだろうよ)

身じろぎもせずに自分を見つめ続ける神谷を見ながら喉の奥から笑いを漏らした。


「・・・クックック。まったくおめぇは変わらねぇなぁ。人の意見なんて聞きやしねぇ」

きょとんとしながら軽く小首をかしげる、大人の女性となった容姿のままで
けれどそんな仕草は昔と変わらない神谷の様子に土方は笑いが治まらない。



さわり、と室内にも関わらず風が舞った。

(本当にもぅ、この子ってば頑固なんですからねぇ)

とても聞きなれた、けれど今では聞くことなど望めぬはずの懐かしい声が耳をかすめ、
土方は思わず目を見開いた。

突然笑い出した土方の様子に困ったように立ち尽くしている神谷の後ろから
柔らかく、柔らかく両手を伸ばし、その身を大切そうに抱え込むその男の姿は
懐かしい京にいた頃そのままで。

(私がいくら女子として幸せになりなさいと言っても聞きやしない。
 困ったお転婆さんなんですから)

ちょっと唇を尖らせて拗ねたような声音であっても、その表情は蕩けるように甘く、甘く。
娘を後ろから抱き締めたまま、その髪にすりすりと頬ずりしている。

(この子の事、お願いしますね、土方さん。この子が前を向いている限り
 好きに生きさせてあげてください。全てはこの子の思いのままに)

ちゅ、と音がするかのように頬に口付けると、土方に向き直った。

(最後までお世話をかけてごめんなさい。土方さんも土方さんの思うままに生きてくださいね。
 いつも見ていますから)

ニコリと笑うと腕の中の娘にもう一度頬ずりしたまま、その姿はふわりと消えた。



笑っていたと思ったら突然固まって自分を凝視し続ける土方の姿に
神谷が困惑しつつ声をかけた。

「あの、副長?」

その声にハッと自分を取り戻した土方だったが、今の光景が脳裏に焼きついて離れなかった。
現実にはありえない事だとわかっていても、夢とも思えず。


(何が上司と部下だよ。可愛くて恋しくて大切で心配で、器が無くなったって
 離れることなんざできないくせに。)

(病の苦しさも、愛しい想いを伝えられない哀しさも、置いていく不安も
 何もかも飲み込んで強い武士(おとこ)のままで死んだってのかよ)

(そんな姿を見せられたら、神谷が他の男に目を向けられるはずなんざ
 ねぇじゃねぇか、馬鹿野郎。)


不器用な二人の不器用な恋を思うと視界が滲んでくる。

相変わらず困ったように自分を見つめている神谷の姿を眺めつつ、ひとつ息を吸った。

(わかったよ、総司。お前がたった一人愛した女は、俺の命がある限り
 お前の代わりに守ってやる。ただし神谷が俺に惚れても文句は言うなよ)

少し意地悪気に心で呼びかけた相手は、『もう、土方さんってば意地悪なんだから』と
苦笑していた。


「神谷清三郎。旧新選組一番隊隊士として、総司の代わりに俺の隣にいろ。
 参戦を許す」

新選組副長時代のようなズシリとした土方の声音に神谷は莞爾と微笑んだ。

「はいっ。命ある限り、勤めさせていただきますっ」




その日から土方の隣には女子と見間違う美しい阿修羅が離れる事なくあった。
華奢な身からは信じられぬほどの冴え冴えとした剣の腕は周囲を圧し、
戦場以外での穏やかな様子からも周囲に受け入れられた。

何よりも神谷はいつも柔らかで爽やかな風をまとっていた。
京から土方と共にあった新選組の旧隊士の幾人かは、その空気と気配を
常に神谷の傍にあった、冗談が好きで、甘味が好きで、何よりも神谷を
大切にしていた剣豪のものだと悟っていた。
ふたりを知っていた者たちは、何があろうと彼らが離れる事は無いと感じていたから。
神谷の傍には、激しくも暖かな京での時間が存在していた。



そして彼らは最後の瞬間に幸せな奇跡を目にする。

官軍の銃弾に倒れ行く神谷の体をそれまで穏やかだった風が一瞬強風となって取り巻き、
その軽い体が地面に叩きつけられる事のないよう、ふわりと抱き下ろす。
そこには背の高い青年が微笑みながら片手を差し出し、その手を少し恥ずかしげに、
けれどとても嬉しそうに握り締める月代の前髪立ちの少年の姿があった。

「・・・総司、・・・神谷」

神谷に駆け寄る足を止めた土方に向かって軽く頭を下げると、青年は優しく少年を抱き締め、
その幻影は光の粒子になって消えた。

「やっとか、やっとだ。良かったな、神谷」

土方の見上げた五月の空は、どこまでも青かった。




「神谷さん、ご苦労様でしたね」

「・・・沖田先生」

「あぁ、ほら、やっぱり泣き虫ですねぇ、あなたは」

「沖田先生の着物が無かったから、ずぅっと泣けなかったんです。
 だからその分です」

「おやおや、それは随分たくさんですねぇ。くすくすくす」

「沖田せんせぇ・・・」

「いいですよ、たくさん泣いて。これからはずぅっと一緒なんですから」

「ずっとですか?」

「ええ、ずぅっとです。神谷さんが泣き止んで、笑ってくれて、
 それからもずぅっと一緒です」

「ずぅっとですね? 本当ですね?」

「えぇ、大好きですよ、神谷さん」