空にはためく





「はぁ、いい天気だなぁ〜」

昼餉を済ませてから、午前中に片付けきらなかった洗濯物を盥の中で
ゴシゴシと擦り立てながらセイは額の汗をぬぐった。

ジリジリと肌を焼く真夏の日差しは残っていた手ぬぐい等の薄手の洗濯物を
一刻もかけずにすっかり乾かしてくれる事だろう。

長い事しゃがみこんでいたせいですっかり固まった腰を伸ばしつつ、う〜んと
大きく伸びをしながら空を見上げる。

真っ青な夏の空と大きな西本願寺集会所、つまり新選組屯所の大屋根。
白い雲が強い日差しにも負けずにぷかりぷかりと気持ち良さげに浮かんでいる。


「ん?」

白い?


セイの目の端に雲ではない白い物体が映りこんだ。





「土方さん、神谷さんを知りませんか?」

ふらりと副長室に現れた弟分のいつもと変わらぬ言葉と、いつもと変わらぬ
情けなくも不安気な表情に土方は苦虫を噛み潰したような顔で、
こちらもいつもと変わらぬ返答をした。

「お前はいっつもいっつも神谷の尻ばっかり追い回しやがって。いい加減みっともねぇから
 そんな情けねぇ顔で童を探し回るのはやめろって、何度言ったらわかるんだっ!」

「だって・・・あの人ってば、目を離すと何かしでかしてそうなんですよ。
 さっきまでおとなしく洗濯してたはずなのに、気が付いたらいなくなってるし。
 ねぇ、本当に知りません?」

「知るかっ!」

「はぁ、困ったなぁ。どこに行っちゃったんだろう・・・」

心底心配そうな表情のこの男が新選組きっての剣豪だとは信じられないような思いで、
土方はもう一度「過保護もたいがいにしやがれ!」と怒鳴るつもりで口を開けかけた。


その一瞬先に部屋の前に慌しい足音が響き。

「こちらに沖田先生はいらっしゃいますかっ?」

ひどく慌てた声が投げかけられた。

隊の内外で鬼副長と認識されている土方の部屋に、挨拶も無しに声を投げかけるなど
唯事ではない。
スラリと障子を開けて総司が顔を出した。

「何かありましたか?」

総司の言葉にかぶせるように隊士が口を開く。

「神谷が・・・」

皆まで聞かず、部屋を出ながら短く総司が問う。

「どこです?」
「中庭で・・・」

答えを聞く前にすでに走り出した総司の背を追って土方も部屋を後にした。




中庭に走り出た総司を見つけて、上を見上げたまま右往左往している隊士達から
一番隊の人間が走り寄ってきた。

「沖田先生っ、神谷が・・・」

隊士の指差す先を見上げて絶句する。

遙か上方の屋根の上を、そろりそろりとセイが上に向かって登っている。
傾斜の急な寺社の屋根だ。
今にも滑り落ちてきそうで見ている方は気が気じゃない。

「な・・・にをやってるんですか、あの人は・・・」

唖然としたまま呟く総司に、どうやら屋根の上まで飛んでしまった洗濯物を
取りにいったらしい、と他の隊士が説明した。

確かに今日は気持ちの良い快晴ではあるが、時折思い出したように突風が吹いている。
それで洗濯物が吹き飛ばされたのか、と納得しつつも、だからといって
今のセイの状態を黙って見ているのも心臓に悪い。

「ど、どうしましょう、土方さん」

少し遅れて総司に追いつき、同様に言葉無く屋根の上のセイを眺めていた土方にしても、
どうにもできようがない。
かといってこの高さを万が一落ちようものなら間違いなく命はないだろう。
さしもの策士も名案が浮かぶはずもなく。

「落ちたら落ちたで、あいつの責任だ。」

そんなぁ、と情けない声をあげる総司の声に耳を塞いで、それでも落ちてくれるなよ、と
祈る思いで屋根を見上げた。




その頃、屋根の上のセイはと言うと。

「もう少しで届く〜。あと少し〜、頑張れ私の手足〜」

滑りやすい瓦は真夏の日差しに焼けてすがりつくセイの手の平に痛みを与えてくるし、
落ちないようにふんばる足も徐々に力を失いつつあるような気がしている。

思ったよりも集会所の屋根の勾配は急で、小さなセイの体には少々負担が大きかったが、
目の前でヒラヒラふわふわと揺れる白い物体をこのまま放置する事は
どうにも許すことができず。


「待ってろよ〜。誰のかわからないけど、きっちり捕獲してやる〜」

と、セイをからかうように風に棚引く白い物体を睨みつける。

「あ〜と〜す〜こ〜し〜」

指先に触れそうな距離で目一杯腕を伸ばしたセイの体がグラリと傾いだ。

「へ?」

ビュォォォォォォォ!

間が悪くその一瞬に今日一番という突風が軽いセイの体を持ち上げる。

「うっ、うわわわわっ」

突風に乗って自分に近づいた白い物体をとっさに握り締め。

そのままセイの体は屋根を滑り落ちた。





「神谷さんっ!」

セイの体が均衡を崩したのは下からでもはっきり見えて、それまではらはらしながら
その小さな部下を見つめていた総司が悲鳴を上げた。
同時に中庭から屋根のセイを見上げていた隊士達からも声が上がる。

総司の声が消える前に小さな体が屋根を滑り落ちてくる。
徐々に加速する落下速度のまま地に叩きつけられれば・・・。
考えるより先に総司の体は動き、セイの落下地点に走りこんだ。

誰もが一瞬目を固く瞑った時。


ドサリという鈍い音が二度響いた。



少し離れた場所から目を閉じる事なく土方はその瞬間を見ていた。

走りこんだ総司が必死の形相で腕を広げてセイを受け止めたが、
いかに軽いセイの身とはいえ過速度がついたそれは総司の腕だけでは
受け止めきれず、かなりの勢いを削がれたものの総司の腕から地に落ちかけた。

その身をもう一人の腕がしっかりと抱きとめた。

立ったままの総司の膝元に片膝をついて斎藤が腕を差し出しており、
セイはすっぽりとその腕の中に救助されていた。

目を見開いたまま呆然とするセイの無事な姿を確認した土方は、夏の暑さからではない
冷たい汗が自分の頬を伝うのを苦々しげに拭った。




斉藤の腕の中で呆然としているセイの胸倉を総司は掴んで立たせた。

パンッ

乾いた音に誰もが目を見開く。
セイを打った手を振り上げたまま、蒼白な顔で総司が怒鳴りつけた。

「何を考えているんですかっ、貴女はっ! 死ぬところだったんですよっ?」

セイの胸倉を掴んだままの総司の手が僅かに震えているのに気づいてセイは俯いた。

「も、申し訳ありません。」

虫の鳴くようなか細い声で謝罪するセイに、尚も総司の言葉が降りかかる。

「いつもいつも危険な事をして。何度言えばわかるんですか。あなたはまだ子供だし
 未熟なんです。自分の身の安全をまず第一に考えるべきなんです。
 どれだけ周囲に心配をかけたら気が済むんですか?」

総司の言葉の途中からポタリポタリと地面に雫が毀れ落ち始める。
セイの大きな瞳から。
屋根から落下するという恐怖に感情が昂ぶった状態で、想いを寄せ誰よりも敬愛する
総司から強く叱責されるのは堪えた。
セイの耳元では未だに落下している時のびゅうびゅうという風を切る音が響いていた。
それが尚の事恐怖心を甦らせ、涙を留めることができない。

見かねた斎藤が口を挟む。

「沖田さん。あんたの気持ちはわかるし一部同感だとは思うが、
 とりあえず神谷を落ち着かせてはどうだ?」

「斎藤さんは神谷さんに甘すぎますっ!」

(いや、あんた以上に神谷に甘いやつはいないはずだが?)

という斎藤の心の声を聞いたらその場の隊士の全てが首を縦に振っただろう。



「たかが洗濯物一枚と引き換えにできるなんざ、お前の命は随分と軽いもんだよなぁ、神谷」

斎藤にまで八つ当たりを始めそうな総司の言葉を遮るように、
意地悪気な低い声が投げかけられる。

「・・・副長・・・」

なぜだろう、総司や斎藤には素直に謝罪できるのに、この声の持ち主を相手にすると
妙に戦闘意欲が湧いてきてしまうのは。

「なんとかと煙は高い所を好むというが、お前もナントカってやつだって事か?」

ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる土方にセイが食ってかかった。

「お言葉ですが、誰のかわからない“下帯”らしきものが頭上でひらひらしているってのに、
 副長は平気で隊務を行えるんですか? あぁ、副長だったら全然平気かもしれませんね。
 何しろ鋼の神経をお持ちですからっ!」

土方が言い返す前に総司が声を荒げる。

「だからといって、あんな危険な事をする必要があるんですかっ?」

「だって!」

涙を一杯に湛えた目でセイは総司を睨みつける。

「まるで白旗みたいだったじゃないですかっ?
 嫌ですよっ、屯所の屋根に白旗がひらめいているようでっ!
 あんなものを放っておける訳無いじゃないですかっ!」

一息に言い切って唇を噛みながらポロポロと涙をこぼすセイの姿に
土方ですら口を閉ざした。

確かにセイが必死になって取り外そうとしたのも納得できなくもない。
屯所の屋根に翻る白旗。
見つけたのが土方だったとしても、さすがに自分で取りに行こうとは思わぬまでも、
即刻誰かに回収させた事だろう。


ぽんぽんと宥めるように斎藤がセイの背中を叩き、呆れたような諦めたような
溜息を吐きながら総司がセイの月代を撫でた。
ほのぼのと柔らかな空気の中でも土方の毒舌は続く。

「ったく、手前は洗濯物ひとつまともに干せねぇのかよ」

「私が干したものではありませんっ!」

むかっとした顔のままセイは握り締めていた誰かの下帯を、土方に向かって突き出した。
斎藤が無言のまま、その裾に書いてある持ち主の名を確認する。

“甲子”


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


セイが青ざめ土方の頬は引きつる。
斎藤ですら微妙に額に汗を浮かべる。

その中、総司は無言でセイの手から下帯をむしり取るように取り上げると
近くにいた隊士に押し付けた。
満面の笑みで「伊東先生にお返ししてくださいね」と言葉を添えて。

その笑みはいっそ爽やかとさえ表現できるものだというのに、周囲の隊士達の
身を凍らせるような真冬の外気の如き冷気を感じるのはナゼだろう。
何人かが照りつける日差しに汗ばんでいたはずの腕を無意識に擦りたてた。


そんな周囲を見る事もなく総司はそのままセイの腕を掴み上げると、
妙に平板な声音で語りかけた。

「熱い屋根のせいで両手に軽く火傷をしてますよね。さっさと井戸で冷やしましょう。
 ついでに穢れもしっかりと洗い流さないといけませんしね。
 その後は私の肝を潰しかけた事について、たんとお仕置きも必要ですし」

(伊東先生の下帯を穢れ扱いですかっ? いや、確かに自分もそう思わないでもないけれど、
 それを他の隊士達の前で言い放つのもどうかと・・・)

ぴきりと固まったセイを引き摺るように歩きながら、顔だけで土方を振り返った総司の面には
黒い笑みが。

「そうそう、“うちの”神谷さんのおかげで伊東先生の下帯を頭上に戴いたままにならずに
 済んだのですから、土方さんも当然感謝してますよね。
 明日は私達非番ですし、今日はふたりとも外泊しますから。もちろんかまいませんよね」

許さないなどと言ったらさっきの下帯で顔をぐるぐる巻きにしてやるぞ、と
如実に顔に浮かべる総司の笑みに、土方はそっぽを向きながら「勝手にしろ」と吐き捨てた。

ひそかに額に青筋を浮かべた斎藤と、「仕置きってのは何なんだ」と
頭の中でぐるぐると妄想に苦しめられる土方と、その他大勢の隊士を置き去りに、
いつでもどこでも周囲を騒がせる師弟は場を去った。




翌日、妙に疲れ果てた様子のセイと積年の独占欲を満足させきったらしく
満面の笑みを隠そうともしない一番隊組長が帰営したのは、
夏の長い陽もすっかり沈みきった頃だった。