月剣士






「では、おやすみなさいませ。沖田先生」

「はい、おやすみなさい、神谷さん」

静かに灯りを吹き消してセイは総司の部屋をさがった。

襖を隔てた自分の寝間に戻ると、衣擦れの音に気を使いながら女子の衣から
袴姿に着替える。
そのまま気配を殺し、大刀を手にして住まいの裏へと回った。



虫の音もない静かな夜。
自分の立てる微かな音さえ彼の人に聞こえる事のない場所。
けれど彼の安らぎの場に異変があれば、すぐに察知できる所まで離れる。

月の光の中、スラリと剣を抜き、構える。
ズシリと両腕にかかる重みは慣れ親しんだものではあるが、やはり女子の腕には負担が大きい。
小さく揺れる剣先を見据えて呼吸を整える。


息を深く吸い、ゆるりと吐く。
殺気は、込めない。

今は眠りの中に漂う愛しい人は、僅かな殺気にすら敏感だから。
昼も夜も突然襲い来る咳の発作に浅い眠りしか取れなくなっている人を
ほんの少しでも眠りの中に安らがせたいから。
殺気は込めず、神経だけを研ぎ澄ます。

剣先の揺れが止まる。

静かに目を閉じる。
目裏に浮かぶは京での彼の人の姿。
凍てついた冬夜の月光の如き剣尖。

幻の彼と向かい合う。

上段。
中段。
下段。

ただの一つも忘れた事のない、総司の剣の軌道に自分の剣を打ち合わせる。
耳の奥に、剣を振り抜いた後に彼が息を吐く音が短く響く。

右上段から切り下げる自分の剣を弾き、そのまま体勢を崩しかけた自分に
打ち込まれる、自分より数段鋭い右上段からの刃。
半身をずらして紙一重で避けた瞬間、剣先を反転させ鋭さを維持したままに
膝元から舞い上がった剣先が自分の喉下で停止する。



はっ、はっ、はぁ・・・と自分の荒い呼吸音に苦笑しながら目を開き、
闇の向こうを睨みつけた。
千駄ヶ谷に移り住んでから毎夜剣を振るい実感しているが、
あきらかに腕が落ちている。
体力も京にいた頃に比べれば落ちているとしか思えない。
ここ数ヶ月、女子姿に戻って総司の看護に専念していたせいで
剣を持っての稽古から遠ざかっていた。
けれどそんな言い訳を言っていられない。

幻の相手との打ち合いなのだ。
腕や肘にかかる負荷は実際のものと比べるべきもなく、剣を弾かれた衝撃や
体を押し戻され、重みをかけられる負担は無い。
だというのに、このザマだ。

額から流れる汗がひどく不快に感じられて乱暴に袂で拭う。
こんな事では今は満足に剣を振るう事もできぬ身の総司を守れない。
賊軍と呼ばれ、隠れ住んでいるこの地にも、いつ官軍と公言する薩長の連中が
乗り込んでくるかわからない。
今の総司を守れるのは自分だけなのだから。


以前のように彼の盾となり命を落とすことが本望・・・などと今は思えない。

できる事なら傷のひとつも負う事無く、手を血で汚すなどせず、
幸せに穏やかに生きて欲しいのだ、と幾度となく自分に乞うた
優しい優しいあの鬼を、ひとりぼっちで逝かせる事などできるものか。

彼を守り、自分も生きて、彼の最後の瞬間まで隣で微笑み続ける。
けして一人になどさせない。
女子も武士も関係ない。
自分が自分である限り、どこまでも彼の傍にある。
人として、清三郎もセイも彼の傍から離れる事などできないのだから。


深い思考に捕らわれ過ぎて昂ぶった気を静めようと一度深く呼吸をした。



ふ、と気配を感じて振り返った先に、すでに眠っているとばかり思っていた人の姿を見つけ
慌てて駆け寄る。

「な、何をしているんですか。体が冷えます、寝てないと駄目です!」

ひとりで立っているのは辛いのだろう。
木に体を預けるように寄りかかって、総司は柔らかく笑んだ。

「だって貴女がいないんだもの。淋しいじゃないですか」

「戻ります。もう戻りますから。寝ましょう。ね?」

総司の体を支えるように手を添えてセイが歩き出そうとした。
けれど総司は動こうとしない。

「ねぇ、もう一度見せてくださいよ。真っ直ぐで綺麗な貴女の剣。
 まるで夢のようでしたよ」

うっとりと目を細めて掠れた声で囁いた。

「駄目です。こんなところにいたら体に障ります。どうしてもと言うなら
 明日庭でお見せしますから」

「嫌ですよぉ。この月の光の中での貴女がいいんです。ねぇ、お願いですから」

駄々っ子のように言い張りその場を動こうとしない総司の様子にセイは根負けしたが、
いくら何でもこの場に立たせておくのは総司の体に良くないのはあきらかで。
離れの寝床に戻り、障子を開け放って見える庭で剣を振るう事で納得させた。




「こっちを向いてくださいよぉ」

寝床の中に横たわった総司が庭のセイの横顔に声をかける。

「え、いや、恥ずかしいっていうか」

困った様子のセイにぷぅと膨れてみせる。

「正面から見たいんですよぉ。道場で稽古してた頃みたいに。ね?」

拗ねたような声音の中に微かに淋し気な色を感じ取ってセイは肩をすくめた。

「どうせ目は閉じてるんですけどね」

ひとこと言うと総司の方に剣を向け、正面から構えた。




剣の切っ先を見据え、気を研ぎ澄ます。

殺気は、込めない。

静かに閉じた瞼の裏に浮かぶのは剣を構える彼の姿。

ヒュッと鋭い音と共に剣が振り下ろされる。
右上段で2合打ち合い、半歩下がったところの腰位置に左から叩きつけられる刃を受け流し、
そのまま下からすり上げる。

剣を合わせる目裏の総司の後ろから、ゴクリと息を呑む音と僅かな気の乱れを感じるが、
幻の総司の圧倒的な存在感の前に瞬時に意識の向こうに消えさっていった。

右から左から打ちかかる自分の剣をいなされる。
腕が重い。
総司の唇の端が意地悪く釣り上がるのが見えた瞬間、体ごと剣が大きく弾かれ
首元に突きつけられる彼の剣先。

「く、悔しい・・・」

思わず毀れてしまった言葉に驚きながら目を開けた。



視線の先には寝床に起き上がり正面からセイを見つめる総司の姿。
その表情は嬉しそうな、楽しそうな、けれどどこか哀しげな複雑さで
荒い呼吸のままセイは言葉を飲み込んでしまう。


立ち尽くすセイを総司はちょいちょいと手招いて自分の側に座らせた。

「あなたの剣は綺麗ですねぇ、本当に・・・」

小さく溢された声は、どこか憧憬が滲んでいてセイに寂しさを感じさせた。

「でもね、振り切った時に貴女、無理に剣を戻して次を打ち込もうとするでしょう?
 次を仕掛けるより先に間合いを見極めなきゃ駄目ですよ。
 打ち込むことだけに集中する悪い癖が戻っちゃってます」

道場でセイを叩きのめした後で注意していたように、けれどあの頃とは数段違う
柔らかな声音でセイの欠点を指摘していく。
こくりこくりと一つ一つの言葉に頷きを返しながら段々と俯いていくセイの頭に手を添え、
今は髪も生え揃い月代の跡も無くなったその場所を総司は優しく撫でた。

「『花の阿修羅』って呼ばれてましたもんねぇ。このまま女子として穏やかに暮らして欲しい
 って思うのは無理なんでしょうかねぇ」

小さな溜息がこぼれた。

「女子姿で楽しそうにひらひらと微笑んでいる貴女も大好きなんですけどねぇ。
 剣を振るう貴女ときたら、命が輝いているというか、目を逸らせないですし、
 魂ごと惹きつけられる美しさなんですもの。困っちゃいますよぉ」

「せ、先生。褒めすぎです。っていうか、どうしちゃったんですか?
 熱でも出て錯乱してませんか?」

そういうセイの方が余程熱のありそうな真っ赤な顔をしていた。

「正直な感想ですよ、受け取っておきなさい」

ニコリと笑みを浮かべた総司が、次の言葉を躊躇いながら続ける。

「でも・・・気になるんですよね。さっき・・・。
 貴女が・・・さっき打ち合っていたのは・・・誰、です?」


自分たちの繋がりの強さは病に倒れる前から感じていた。
あえて互いを縛る言葉を交わした事はないが、戦いの場でも日常でも
セイは総司を、総司はセイを必ずどこかで意識して、
心の一部を触れ合わせている認識があった。
特に総司が病床に伏してからは、その感覚が強くなっていた。

けれど先程、セイが目を閉じた瞬間から彼女の意識は一瞬たりとも
自分に向けられる事は無く、ひどい孤独感に襲われた。
彼女は記憶の中の誰かと打ち合っていた。
剣で会話して、夢中になって、だから思わず「悔しい」と最後に言ったのだ。
その相手しか見えていなかったから。
現実はひとりだという事すら忘れていたから。
それほどまでに心の全てを囚われていたから。


―――悔しいのは私の方ですよ・・・

目を閉じた貴女が見ていたのは誰?
自分の事さえ意識から締め出して、あの大きく真っ直ぐな瞳が見つめていたのは
いったい誰?


「ねぇ、神谷さん。教えてくださいよ」

先程の熱が引かないまま、まだ頬を桜色に染めた少女が困ったように俯いた。

「えぇっと、言わなきゃ駄目ですか?」

「はい、誰?」

「うぅ・・・沖田先生ですよ・・・」

少し怒ったようにそっけなく返された言葉に、総司の目が瞬いた。

「は?」

「だって仕方がないじゃないですか。一番稽古の相手をしてくださったのは沖田先生なんですから。
 剣の鋭さも早さも強さも、動きのひとつひとつ全部覚えているのは沖田先生のだけなんですから。
 稽古する時はどうしても先生が相手になっちゃうんですっ」

耳まで赤くした少女の言い募る様が可愛くて。



「はっ、ははっ、あっはははは」

思わず笑いが毀れた。

「そうですか。貴女の剣の先にいたのは私ですか。嬉しいなぁ。
 まだ貴女の中には剣士の沖田が生きているんですねぇ」

急に笑い出した自分をきょとんとした目で見るセイが、一瞬切なげな表情を浮かべたのを
見ないふりをして。

「神谷さんの力になっているなら嬉しいです。これからは隠れてなんて稽古せず
 私に見せてください。貴女の真っ直ぐで綺麗な剣を私に楽しませて?」

現実の自分はもう相手を出来ないけれど・・・という言葉は飲み込んで、
甘えたように強請ってみる。
自分の体に無理のかかる事で無い限り、自分が甘えると弱いこの子の事だから
絶対に嫌とは言わないだろうけれど。
残された僅かな時間、この子の命の輝きを一瞬たりとも見逃したくないから。



「仕方ないですねぇ。どうせ私の剣は『沖田流』ですし? 先生に見ていただいて
 色々ご指導願う事がまだまだあるでしょうから。明日から、見ていただきますね?」

「は? 『沖田流』? なんですか、それ?」

「だって私、ちゃんとした道場の流派を習った事無いですもの。先生の剣は天然理心流ですけれど、
 私に教えてくださったのはそれだけではないでしょう? 神谷流って言ってくださったけれど、
 あれだって沖田先生の剣術のはずですもの。だから私の剣は『沖田流』なんですよ。
 先生の一番弟子で、唯一の弟子なんですよ〜、すごくないですか?」

セイはふふふっ、とひどく嬉しそうに笑った。

「『沖田流』の唯一の弟子ですか」

照れくさそうに笑った総司がセイを抱き締めた。

「男としての私だけじゃなくて、剣術家としての私まで独占しようなんて
 本当に貴女は欲張りだなぁ。」

くすくす笑う総司の腕の中から逃れようとジタバタしていた少女が
軽く咳き込んだ総司を慌てて布団の中に押し込んだ。

「と、とにかく。稽古を見ていただくのは先生の体調の良い時だけにします。
 こんな夜更かししてるようじゃ、駄目ですからね」

え〜? と不満気な総司の声に布団をポンポンと軽く叩いて。

「もう今日は、おやすみください、沖田先生。また明日お話しましょう」

セイは部屋を出て行った。






―――沖田流の継承者ねぇ・・・


闇の中、思わず苦笑が漏れた。
あの誰よりも優しくしなやかで真っ直ぐな子は、きっと自分が死んだ後
今もどこかで戦っている近藤土方の下に走るのだろう。
そして命尽きるその刹那まで剣を離す事はないだろう。
もしも戦う場が無くなったなら、その瞬間に自分を追ってくるのだろう。

それは自分の願いでも想像でもなく、あの子が“そうする”事を
自分は“知っている”のだ。


だってあの子は武士だから。
そうあるように育て上げたのは私だから。
私の魂があの子の中に深く深く刻み込まれてしまっているから。
そして何より私の強い執着があの子の魂を離しはしないから。

いくら口先だけで平穏な女子の幸せを願うような事を言っても
心の奥の奥ではそんな事を望んではいない。
狂う程の恋情も身を苛むような愛情も、余すところ無く剣を通してあの子の中に注ぎ込んで、
いずれは私に戻りくる。
私の元に帰結する。
あの子に逃れる術は無い。


―――駄目ですよ。貴女は私のものなのだから。


どれほど貴女が傷ついて、切り捨てた相手の血に塗れ、
怨嗟の声が降りかかろうとも、私が共にいますから。
いえ、共にいてください。
この手を、この身を、魂を、その小さな白い手に強く掴んで離さないで。

貴女の想いが指先に宿り、私の心に爪を立てる。
離すまいと肉に食い込む痛みさえ、・・・ああ、きっと心地良い。


病み衰え命尽きる時を無為に待つ日々でも、息の消えるその瞬間まで
あの子と共にありたいと、自分でも笑ってしまうほどの執着。
それもあの子ゆえなら快いとしか思えず。

珍しく咳の気配もなく安らかに眠れそうで目を閉じた。



瞼の裏には、冴え冴えとした月光の中、剣を構える花一輪。