灯火消えず





春には未だ遠く、皇都を囲む山々の頂を重く垂れ込めた雲が隠し
ふわりふわりと羽の如き雪が舞い落ちる夕刻。

セイの横たわる布団の枕辺には数人の男が座していた。
血の気が失せ白い白い肌のセイにも負けないほど顔色を無くし、沈痛な表情を隠しようもない様で。



土方の用を済ませ黒谷から戻る途中のセイが、屯所近くの路地で四人の浪士と
斬り合っている現場に遭遇したのは、巡察帰りの三番隊だった。

いかな新選組筆頭の剣士、沖田総司の愛弟子といえ四人を相手は分が悪過ぎた。
けれど敵前逃亡は士道不覚悟。
セイには立ち向かうしか術がなかった。
小さな体で必死に応戦しようとも、体力の差は時間と共にセイから力を奪い
どうにか一人を地に沈めたところで最早刃を振るう力もなくなりつつあった。
意外にしぶとい小柄な隊士が身に鎖帷子をつけている事に気づいた浪士達は、
力無く防戦するセイを嬲るように突きを繰り出してくる。
鎖帷子は斬られる場合には有効な守りとなるが、突き技には効果を持たない。
斎藤達が駆けつけセイを取り巻く浪士達を切り捨てた時には、すでにその華奢な体には
十数箇所もの浅く深い刺し傷があった。


まるで血の池に浸ったかのように全身を己の血で染めたセイを、斎藤が抱えて屯所に飛び込んだ
僅かの後、駆けつけた松本法眼による懸命の手当てが行われた。
けれどあまりの傷の数と出血量の多さに、セイの命の炎が尽きる寸前だという事は
誰の目にもあきらかだった。




「おセイちゃんっ! おセイちゃんっ!!」

沈痛な空気を切り裂くように駆け込んできた里乃の悲鳴が響いた。

「なんでやのっ? なんでこんな事になるん?」

セイに取りすがって里乃が泣き崩れる。
と、ピクリとセイの瞼が動き、小さな声が唇から毀れた。

「・・さとの・・・さん。・・・せい、ざぶろう・・・だよ?」

今にも消えてしまいそうな細い細い呼吸をしていたセイが微笑んでいる。

「お・・・セイちゃん・・・」

「神谷さんっ! 気づいたんですかっ?」

それまでセイの手を握り締め、俯いたまま唇を噛み締めていた総司が呼びかけた。
唇には強く歯を立てたせいで、血が滲んでいる。

「どうして四人を相手になんて無茶をしたんですっ? なぜ逃げなかったんですかっ?」

「敵前、逃亡・・・は・・・士道、ふかくご・・・ですから・・・」


セイが言った瞬間、土方の奥歯が耳障りな音を立てた。

無駄死にさせるための隊規ではない。
まして誰もがその気性を承知しているセイだ。
たとえその場を脱けたとしても、戦略的撤退とでも何とでも皆が揃って擁護しただろうに。
そんな道を選ぼうとしなかった愚直な隊士が腹立たしくも哀しい。
土方は視線を逸らした。


「それでも、それでも・・・四人もの浪士を相手に斬り死にしろなんて思わない。
 貴女には生きてて欲しいのに・・・どうしてっ?」

総司の顔が泣きそうに歪んでいた。

「・・・不肖の、弟子で・・・すみ・・・ません・・・」

セイの目から一粒涙が伝い落ちた。

「私がもっと早く貴女を隊から離していれば。私のせいです、貴女をこんな目に合わせたのは」

苦しげに顔を伏せた総司の頬に、セイの手の平が触れた。
そのまま溢される事のない涙を拭うように、目の下を幾度か優しく親指で撫でる。
出血の多さで末端が冷え切ったセイの手は氷のようで、いつも繋いでいた温かな手の平を思って
総司は尚更胸が痛んだ。


「・・・ここに・・・居たいと、我侭を・・・言ったのは、私・・・です」

少しずつ荒くなる呼吸を整えるように、セイは一度大きく息を吸った。

「・・・私は、神谷・・・清三郎として・・・ここで生き、死ぬ事を、望んで・・・いました・・・。
 自分で選び・・・望んだんです・・・。幸せ・・・なんです・・・。
 ・・・せんせいが・・・一番、ご存知・・・でしょう? ・・・私が・・・どれほど・・・幸せだったか・・・」

総司は自分の頬を撫で続けるセイの手の平に自分の手を添え、何度も頬を擦りつけた。

この小さな手でこの子は重い大刀を振るい、私の心の棘を抜き、傷を癒し、
幾度も涙を溢しながらも共にいたいと、ここに居たいと私の着物の袖を握り締めてきた。
誰よりも何よりも愛おしくて、この子のために手を離さなくてはいけないと何度も思いながら、
どうしても手放す事ができなくて・・・。


「神谷さん。ねぇ、神谷さん。もう二度と出て行けなんて言いませんから。
 この手を離したりなんかしませんから。だから一緒にいてください。
 どこにも行かないで。お願いですから・・・」

喉の奥から搾り出される総司の言葉の数々は、その魂を削って綴られるようで。
セイは涙を飲み込んで総司を見つめる。
涙で視界を滲ませている時間は無い。
ただひとり自分の全てで愛した男のその姿を一瞬たりとも見逃さず、
瞳に焼きつけて逝きたい。

「・・・沖田せんせい・・・。清三郎は・・・沖田先生、だけの兵です・・・。
 何が・・・あっても、お傍に・・・おります。・・・けして、お一人に・・・など
 ・・・いたしま、せんから・・・」

そしてセイは沁みるように微笑った。



カタカタと小さく障子が揺れる。
少し出てきた風は、ふわりと降る牡丹雪を再び空に舞い上げ躍らせているのだろうか。
そしてこの娘の魂にも降りかかり、その背から羽となって共に連れていこうとするのだろうか。
ボンヤリと男達は思う。


「・・・局長、副長。・・・おいで、ですか?」

「あぁ、ここにいるぞ、神谷君」

近藤がセイの傍ににじりよった。

「力及ばず・・・ご迷惑を、おかけして・・・申し訳、ありません」

「何を言うんだ。君は立派に戦った、立派な隊士だ」

手当てを終えた松本からセイが女子だという事は聞いていた。
もはや手の施しようが無い以上、儚くなった後にセイの身をどうするかを
考えておく必要があったからだ。
近藤も土方も真実女子だったという事に驚きはしたが、たとえそれでも
セイが見事に武士であり続けた事は事実だった。
だからそれを否定する事はできない。


「ありがとう、ございます。・・・では、最後に、一つお願いを・・・聞いて、いただけ、ましょうや?」

じっと逸らさぬ視線に力が篭っていた。

「ああ、何でも言いなさい」

悲しげに、けれどどこまでも慈父のような空気を湛えて近藤が頷いた。

「・・・どうか、神谷、に・・・切腹を、お許しください」

「神谷さんっ!」

総司の悲鳴が響き、同時に男達が息をのんだ。
里乃は悲鳴すら上げることができず、体をガタガタと震わせている。

「私は、他の方よりも・・・医術の、事は・・・存じております。
 ・・・自分の、傷が、どのようなものか、理解・・・しております。
 ですから・・・最後まで、神谷、清三郎、として、全うさせて・・・いただき、たいのです」

ハッと近藤と土方が顔を見合わせる。
斎藤は痛々しげに目を伏せ、総司は突き刺すような視線をセイの白い面から逸らそうとしない。
ただひとり事情がわからない里乃がセイの体を揺らした。

「なんでっ? なんで、そないな事をせなならんの。なんでそないな酷い事を望むん?
 おセイちゃんっ?」

髪を振り乱して叫ぶ里乃に静かに言葉を返したのは土方だった。

「敵に斬られて命を落とせば遺体の傷を改める決まりだ。幹部が数人と監察が。
 だが切腹であればそれは無い」


誰からも好かれていたセイだ。
斬られて死したとすれば伊東一派の誰かが検死に立ち会うのは必然。
その場でセイが女子と知られれば、それを総司が共に隠していたと知られてしまう。
そして近藤派の一番の戦力である総司を排除するためには、これ程好都合な話もないだろう。
総司と神谷の親密さを隊内で知らぬ者は無い。
長州行を繰り返し、日に日にきな臭さを濃くしていく伊東の事だ、この好機を逃すはずもない。
己の女を武士と偽り隊に置いていた、そう隊士達を扇動し総司の罪を糾弾するだろう。
おそらく、総司に待っているのは、切腹。

されど敵につけられた後ろ傷を恥じて腹を切ったとなれば、その身は武士への敬意を持って扱われ、
人目にさらされる事は無い。
秘密は秘密のまま、静かに土の下で眠る事になるのだろう。

この娘は惚れた男を守るため、最後の最後まで自分を捧げようというのか。



「ココは・・・新選組いう所は・・・」

喉の奥から搾り出すような、およそ優しく柔らかな普段の声には似つかない
老婆の如き掠れた声が里乃の口から漏れた。

「これほど一途な可愛い可愛い子ぉが、最後の最期にたった一人本気で慕うた
 男はんの腕の中で眠る事さえ許さへんのどすかっ?
 そこまでして何を守る言うんっ!!」

里乃の叫びは深い深い哀しみを湛えて、居並ぶ男達の横面を力任せに張り飛ばしていった。
それは物理的な痛みよりも苦痛を感じさせるもので、誰もが言葉を発する事ができず、
ただ唇を噛み締めるしかできない。


「私を・・・」


両手で顔を覆っても声を抑えきれぬまま泣いている里乃の膝に、セイの手が触れる。

「私と、私の誠を・・・守るんです。・・・愚かな、女子として、ではなく・・・
 一人の、武士として・・・生きた、清三郎を・・・守る、の・・」

「おセイちゃん・・・」

「・・・そして、新選組を・・・沖田先生を、局長を・・・副長も、兄上も。
 ここには・・・私の幸せが、全て・・・詰まっているから・・・。
 ・・・大好きで、・・・大好きで・・・仕方、ない場所、だから・・・。・・・許して、里乃さん」


頭ではセイの言う事を理解していても感情がどうにも納得せず、
苦しげに押し黙っていた近藤に向かって、尚もセイが続けた。

「・・・局長。どうか、神谷に・・・自分の誠を、貫かせて、ください。
 ・・・お願い、します・・・」

必死に息を整え言い募るセイに、とうとう近藤は頷いた。

「神谷くん。切腹を許す・・・」

「ありがたき、幸せ・・・」

セイは目を瞑り、小さく息を吐き出した。



「介錯は総司だな?」

重い空気の中、ポツリと言葉を落とすように土方が告げたが、セイは瞼を開けずに
静かに首を振った。

「別の、方に。できれば、若く、経験の少ない、隊士に。
 少しでも、この身が、今後の隊の、お役に、立つなら、本望、ですので」

わずかに呼吸が楽になったのか、幾分滑らかに答える。

「馬鹿な事を言うな。経験の無いやつなんかにやらせてみろ、一太刀で済むはずがないだろう。
 下手をすれば傷だらけになって苦しみだけが長引くんだ」

そんなもん見せられてたまるか・・・、吐き捨てるように続けた土方に向かって
セイは薄っすら笑った。

「もう、感覚が、無いんですよ、副長。痛覚の、無い私だから、その役も・・・出来る」

その微笑みは紛う事無い“花の阿修羅”。
従容と死を受け入れるのではなく、最後の瞬間まで己が身で何かを成そうという
前向きな隊士の姿で。
誰もが感嘆の思いと共に、この小さくも強い隊士を失う痛みに耐えかねた。



「・・・駄目ですよ」


聞こえた声にセイが目を向けると、総司が寂しげに微笑んでいた。

「貴女の頑固さには参りましたけどね。譲れるものと譲れないものがあるんです」

力無いセイの体を抱き上げ、すっぽりと自分の胸の中に収めて言葉を続けた。

「貴女が最後まで武士でありたいというのはわかりました。だって貴女を武士として
 育てたのは私ですよ。ずっとずっと見てきたんです。だからね、貴女は私のものなんです。
 貴女の最後の瞬間を誰かに譲るなんて・・・出来ません」

セイの顔を覗き込んで額と額をコツリと合わせる。

「ねぇ、神谷さん、いいでしょう? 貴女の全ては私のものでしょう?
 私に介錯をさせてくれますよね?」

「でも先生、おつらい、でしょう?」

「・・・つらいですよ」

総司は哀しみに染まった目で苦笑しながら、セイを抱き締める腕の力を強めた。

「でもね、ほんの少しでも貴女を誰かの手に委ねる方がもっとつらいんです。
 “神谷さん”も“セイ”も全部私のものです。全部全部私だけのっ・・・」

波立ち今にも暴れ出しそうな感情を抑えようもなくなって、セイの肩に顔を埋めた総司の背を
優しく撫でながらセイは耳元で囁いた。

「ありがとう、ございます。大好きです、沖田先生。魂と、なっても、私は先生の、ものです。
 ずっと、お傍に、おりますから・・・泣かないで・・・先生」


先刻吹いていた風が重い雲を吹き散らしたのだろうか、沈み行く日輪から投げかけられる
淡い光が障子に浮かび上がる。
日中こそ夕刻であったかのような、これから陽が昇り一日が始まるかのような
柔らかな光の中で誰もが動かず、動けず、一幅の絵のようにそこにあった。


「・・・私の傍にいなさい。呼んだら応えの聞こえる距離に、必ずいつもついていなさい」

総司は顔を上げぬまま、呟くように続ける。

「以前、そう言いましたね。これはこの先もずっと変わりません。
 私から離れてはいけません」

「はい、決してお傍を、離れません。呼ばれる限り、必ず、応えます」

ようやく顔を上げた総司が、セイの真摯な答えに一瞬だけ瞳の色を和らげた。
そして軽く自分の胸を押さえ。

「私も・・・必ずココで聞き取ります。貴女の声は・・・絶対に・・・」





一人で座る力も無いセイを他の男に触れさせたくないと、最後の瞬間まで隣で支えると言い募った
里乃だったが、女子に哀しき場面を見せたくないとの幹部の気持ちは一致していた。
「神谷は俺の弟だ」と斎藤が告げ、セイも頷いたため介添えは斎藤と決まった。


立ち会った近藤土方ももはや言葉は無く、「お世話になりました」と幸せそうに微笑むセイの耳元で、
総司が「神谷さん」と囁く。
その声に「はい!」と応じたセイの顔は更に幸せの純度を増したかのように煌き輝いていて、
その場の男達の心に刻みつけられた。

そして鮮やかさを残したままで。



その時は静かに始まり、静かに終わった。






後に、神谷清三郎に総司が贈った二振りの大刀は、愛しい男に寄り添いたい女子の魂と、
どこまでも仲間達と戦いたい武士の魂を分かったかのように、一振は常に病床の総司の傍らに有り、
もう一振は近藤の手を経て、函館まで転戦した土方の脇差として新選組の終焉まで共に戦い続けた。


鮮烈な隊士の魂は最後まで彼らを慰め、道を照らす灯火であったのかもしれない。