恋、請いて
「考え直さないか、神谷くん」
近藤の困惑の色濃い問いかけにセイは静かに首を振った。
「総司の野郎は納得しねぇだろうよ」
苦々しい土方の声には微かに俯く事で答える。
木屋町にある松本良順の寓居に、平隊士の身ながら新選組の局長と副長を呼び出した
神谷清三郎の面は、目の部分を白い包帯で覆われていた。
「このような事になったのも、私の未熟故の事です。けれど回復の目途もたたぬまま、
隊に残るのも皆様のご迷惑になると思われますし、何よりも沖田先生の障りとなるのは
入隊以来様々に、この若輩者の面倒を見てくださった先生に申し訳ありません。
ですので、このまま松本先生のお手伝いをし、医術を学ぶために江戸へ行ったと
いう事にしていただきたいのです。」
セイの隣に座し、腕を組んだまま難しい顔をしている松本に近藤が問う。
「松本法眼、本当に神谷の目はこのまま治らんのでしょうか?」
「わからねぇ。明日にも見えるようになるかもしれん。が、このまま見えねぇままって
可能性もある。今の医術じゃぁ、手立てがねぇんだ」
土方の眉間の皺が一層深くなった。
事の起こりは巡察中の事故だった。
不逞浪士を捕縛して一瞬皆の気が緩んだ瞬間だった。
総司の背後にあった家から子供が出てきた。
まだ四つ五つの幼い子供だった。
刀を振り回し浪士を追い詰めた総司を悪者と思ったのか、子供の顔は恐怖に歪み、
その手には錆びた小刀が握られていた。
殺気すらない小さな気配に総司が反応するのが遅れ、瞬間的に総司を庇うように飛び出した
セイの太ももに刃先が突き刺さった。
幼子の力でつけられた傷は深いものではなかったが、錆びた刃物だった事が災いし、
その晩からセイは高熱を出した。
松本の診療所に担ぎ込まれ、三日三晩意識が戻らぬまま高熱にうなされ、
ようやく熱が下がって目覚めた時。
―――――セイの瞳から、光が失われていた。
それから十日が過ぎても一向に回復の兆しが無く、いい加減面会を止められている
総司の我慢も限界に達するだろうと思われた頃、セイが松本に切り出したのだ。
このまま総司に病状を伝えずに江戸に連れていってほしい、と。
直接的には子供のせいであっても、総司を庇って負った怪我が原因である以上
総司が責任を感じるのは必定。
サエの件であれほど傷ついた事を知っているだけに、セイを女子の身と知りつつ
隊に置いたためこのような事態になった、と総司に余計な荷を負わせる事は
避けたかった。
いずれにしても目の見えない状態で隊に残る事が不可能なのは火を見るよりもあきらかで、
松本にしても反対する理由はなかった。
ただ新選組には『局を脱するを許さず』という局中法度の条文がある以上
局長である近藤と副長土方の許可を得る必要があり、松本の名で二人を
この場に呼び出す事となった。
近藤達としても傷は深手ではないと聞いていたセイが中々松本の元から帰隊せず、
どうやら総司も会う事が出来ないらしく日に日に焦燥感を深めていく様に
首を傾げていたところだったため、状態を確認しようと足を運んだ。
そこで信じられない、いや信じたくない事実を告げられた。
唐突に突きつけられた事実に困惑する二人の前で、セイはするすると包帯を取った。
見慣れた隊士の顔の中で瞼だけが閉ざされ、いつも活き活きと気持ちを映す
黒目がちな大きな瞳は隠されていた。
「おい」
土方の声にパチリと音がするかのように開かれた瞳は焦点が合っておらず、
目の前にあった茶碗を静かに持ち上げ、中に入っている茶をかけようとする
土方の動きにも何の反応も示さない。
「本当に見えねえのかよ・・・」
「申し訳ありません」
重い重い溜息をつき、茶碗を膝元に戻した土方に、セイが困ったように笑う。
「いや、君のせいじゃないのだから謝る必要はないよ。けれどね、何も江戸になど行かずに、
いましばらくこの京で様子を見てはどうだろう。療養の為に一時離隊という形にすれば、
多少なりとも暮らしの援助はできる。そうだろう、歳?」
「あぁ、隊務中の怪我が原因だ。それなりの見舞金と月々の助けはする。」
近藤と土方の言葉に今度こそ苦笑を濃くしてセイが首を振った。
「局長、副長のご厚情には、この神谷感謝の言葉もございません。
されど京にいれば、いずれ沖田先生のお耳に入ることもありましょう。
お優しい方ですから、このような事を知れば気にされます。
それは私の本意ではありません。ですからどうか、両先生におかれましては
このような不出来な隊士の事はお忘れください。神谷は治療中に医術の道に目覚め、
恩知らずにも松本先生の威光をもって隊を離れた、と」
どうか、そう沖田先生を納得させてください、と深く頭を下げる。
本当は脱走という手も考えたのだ。
事実を知っている松本に強く口止めをした上で、思う所があり脱走したが
武士としてそんな自分を恥じて腹を切った。
そんな筋書きで全てを闇の中に葬ってしまおうかと。
腹を切った遺体からは眼の事が総司に知れる事はないだろう。
自分が生きている限り、いずれどこからか総司の耳に入る可能性がある。
一方通行とはいえ自分の全てをかけて恋情を抱く相手に、欠片ほどでも
自分の事などで苦しんで欲しくはない。
それくらいなら、と思った。
けれど同時にそれは隊内での総司の立場を悪くする事だとも気づいてしまった。
総司が並々ならぬ情を自分に持ってくれている事は感じていた。
たとえそれが女子の身と知りつつも、セイ本人の強固な意思の前に
隊から抜けさせることの出来ない罪悪感からだとしても。
それでも優しいあの鬼は自分を気遣い慈しんでくれている。
弟分として部下として。
脱走などという形を取ったなら、自分の上司であり隊の中で最も近い存在と
誰もが認知する総司の責任ともなり迷惑になる。
だから・・・隊を抜けるのではなく、いずれは新選組専任の医師となるために
江戸へ医術の修行に行く・・・という形を考えたのだ。
自分の父が蘭医であったことも。
日頃から隊士のためにと医術を学んでいた事も、誰もが知っている。
この理由ならば波風立てず、誰もが納得するに違いないと必死に考えた。
できうるならば、彼の人も納得してくれますように、と祈る思いで。
近藤達は苦しげに視線を逸らし考え込んだ。
セイが身寄りの無い天涯孤独の身だという事は入隊試験の折に聞いていたし、
何より近藤は一度は自分の養子にと望んだほどにセイを慈しんでいた。
土方にしても小生意気な童だと思っていたがその働きぶりといい、一本筋の通った
心持ちといい、口に出さないだけで本心としては気に入っていたのだから、
このまま放り出す気になれなかった。
それに何よりもセイを溺愛していると言っても過言でない総司が、そんな言い訳に
納得するとも思えず、腕を組んだまま唸るしかなかった。
サラリ
微かな音を立てて開いた障子に驚いて顔を向けた近藤達は、そこに表情を消して
立っている総司の姿に息を呑んだ。
セイだけが見えない目の焦点を合わせるように細めながらニコリと微笑み、話しかける。
「患者さんですか? もうすぐ松本先生の手が空きますから、あちらの控えの間で
お待ちいただけますか?」
血の気を失い無表情のままの総司は、セイの目の前に足音を立てて歩み寄るとドカリと座り、
セイの両頬に手をあてて瞳の中を覗き込む。
「お、おい、総・・・」
乱暴な総司の行動を嗜めようと、言葉を発しかけた近藤を土方が手で制した。
松本も腕組みをしたまま、総司とセイの様子を黙って見ている。
セイだけが何が起きているのか理解できないまま、間近に感じる馴染んだ気配に
怯えるように身を竦めた。
「・・・・・・神谷さん・・・・・」
落とされた声にセイは目を見開き、一瞬後に総司から離れようと身を捩る。
けれど頬に添えられた総司の手は強く、身動きする事は許されない。
「・・・神谷さん、本当に見えないんですね・・・。話は聞いていました。
盗み聞きは貴女だけの得手じゃないんですよ。」
クスリとどこか荒んだような笑みを漏らす。
「は、離してください、沖田先生」
「駄目ですよ。貴女、私に黙っていなくなってしまうつもりだったんですよね。
江戸で医術の道を進む、ですか。
・・・そんな事を私が信じるなんて本気で思っていたんですか?
貴女がどれだけここで、新選組で、武士であろうと努力してきたか、
ずっとずっと一番傍で見てきた私が?」
一瞬言葉を切った総司が、強い視線でセイを睨みつける。
「・・・ねぇ、貴女、私を馬鹿にしてます?」
「おきた・・・せんせ、い・・・」
「信じる訳がないでしょう! 貴女はずっと私と共にあると言った!
共に誠の旗の下で戦い抜くと誓った! あれは嘘じゃない!
そんな事は私が誰より知っているんです!
だからこそ無理を承知で貴女が隊に残る事に眼を瞑った!
近藤先生のため、隊のため、私の隣で戦うと言った貴女の想いが真実だったからっ!
今更いなくなるなんて駄目です! そんな事許さない! 絶対にっ、絶対に許さない・・・」
セイの目を覗き込んだまま一気に言い放った総司は、頬の両手をセイの背に回し
強く抱き込めると、そのままセイの肩に顔を押し付けて掠れた声で小さく紡ぐ。
「・・・私を残して行かないで。・・・離れないで。目なんて見えなくたってかまわない。
・・・そこにいてくれさえすれば・・・いいんです。
貴女がいてくれれば、それでいい。ねぇ、神谷さん・・・」
近藤も土方も信じられない思いで目の前の光景を見つめていた。
総司が神谷を弟のように愛おしんでいる事は知っていた。
土方にいたっては、二人が衆道の仲ではないかと疑ってさえいた。
たとえそれでも、総司がこれほどに自分の全てを神谷に依存し執着し、
委ねきっているとは考えもしていなかった。
試衛館にいた頃だとて、これほどに心の均衡を危うくしかけている総司を見たのは
サエの一件の時だけだったし、まして当の相手に縋り付くようにして揺らぐ自分の心情を
吐露する姿など、普段の飄々とした様からは想像すらできない事だった。
いかないで、いかないで。私を捨てていかないで。
そばにいて、となりにいて。
だきしめて、だきしめさせて。
ふれさせて、あなたのぬくもりを取り上げないで。
こえをきかせて、やわらかなあなたのこえを。
おねがいだから、おねがいだから。
私を置いていかないで。
小さな総司が泣いている。
あまりの総司の不安定さに言葉を失った三人を置いて、松本が静かに口を開いた。
「目の見えねぇ人間の世話は簡単な事じゃねぇんだ、沖田。お前だって隊務があるだろう。
四六時中こいつに付いてる訳にゃいかねぇ。こんな状態じゃ屯所で暮らす事だってできやしねぇ。
実際問題、江戸の俺の診療所で過ごさせた方がこいつにとっても色々と都合がいいだろう。
お前にだってわかっているはずだ。」
所々にこの状態のセイに男のフリを続けさせるのは無理だ、という含みを持たせた
松本の言葉に、総司はセイの背に回した腕の力を益々強めて、ただ首を横に振った。
「治る見込みだってわからねぇんだ。見えねぇなら見えねぇなりに暮らしていく術を
学ぶ必要もある。このまま京にいても、こいつにとって利があるとは思えねぇ・・・」
苦々しげに言葉を重ねる松本にも総司はひたすら首を横に振る。
まるで幼い頃の駄々っ子が戻ってきたかの如く。
そんな様子を見かね、諭すような口調で土方が説得に加わった。
「いい加減にしろ、総司。俺達は明日の陽を拝めるかもわからん日を生きているんだ。
こんな状態の神谷にお前が責任を感じるのはわかる。だが中途半端な情けで
面倒を見れるはずがねぇだろう。お前に何かあった時、それこそ神谷はどう生きるんだ?
ここは松本先生に任せて・・・」
「嫌ですっ!」
土方の声を遮った総司の叫びが部屋を駆け抜けた。
「神谷さんは離しませんっ! 神谷さんがいる限り私は死にません!
絶対にです! そして、もしもどうにもならないなら、そんな時が来たなら、
その時はこの人も連れて逝きます! 絶対に置いてなんか行かない!
この人は、私のものだっ!!!」
セイを抱く手は離さずに、顔だけ土方に向けた総司の瞳は狂気をも浮かべた壮絶なもので、
さしもの鬼副長も言葉を飲み込まざるをえなかった。
女に惚れた事は、ある。
惚れた女に執着した事も、ある。
けれども、ここまでの激情を自分は知らぬ。
まだまだ雛だと思っていた弟分が、今は雄の眼をして自分を睨みつけている。
土方は言葉を続ける事が出来なかった。
総司の言葉の途中から、ただ体を震わせてポロポロと涙をこぼし続けるセイに視線を戻し、
コツリと額と額を合わせた。
「休息所を用意します。誰か気のつく人を住み込みで雇って、時間の許す限り里乃さんにも
来ていただきましょう。里乃さんに一緒に暮らしてもらってもかまいません。」
「駄目です。先生の誠のお邪魔になってしまいます。私は足手まといになんて
なりたくないんです」
涙を流しながら嫌々と首を振るセイに構わず、総司は言葉を続ける。
「江戸の姉に文を出します。祝言をあげるから、と。可愛いお嫁様なんだって。
私はこの人がいないと駄目なんだって。沖田の家は姉夫婦に守ってもらいます。
私は貴女と京で暮らす。私が私の誠を貫く為には貴女が必要なんです。
貴女と共にある為に、死んでたまるか、と思える。貴女が私に生きる力をくれる。
共にいてくれれば、それだけでいいんです。」
セイの見えぬ目ではなく真っ直ぐに心に届けと祈りを込めて、総司の声が強さを増す。
「ねぇ、神谷さん。私に強さをください。私と夫婦になってください。
そして最期の最期まで共にあると。どちらかがどちらかを遺す事など無いと誓ってください。」
野暮天だ野暮天だと思っていた男のどこに、こんな殺し文句が埋もれていたのか
セイは混乱しきった思考の片隅で首をひねる。
自分は絶対に総司の重荷になりたくなかった。
総司が視力を失った自分に対する責任や同情で、面倒を見ると言ったなら
何があろうと京の地を、総司の傍を離れるつもりだった。
けれど総司の言葉は情けないほどセイに縋るもので。
ただひたすらにセイの存在を乞い、セイの心を請うものだった。
総司の真情が触れた手の平から、額から、時折震える声音から感じられ、
ずっと見つめ続けてきたセイだからこそわかる、不安に染まった捨て犬の如き瞳で
自分を見ている表情さえ見えるような気がした。
こんな総司を突き放すことなど自分に出来るはずがない。
けれど・・・やはり自分は重荷にしかならないのだ・・・。
情と理に揺らぐセイから力ずくで総司が引き離された。
同時にバキッという痛みを連想させる音とともに、総司の体が部屋のほぼ中央から
敷居際まで吹き飛ぶ。
そこには総司を殴り飛ばした腕を振り切ったままに、仁王立ちになる土方の姿。
総司が「祝言を挙げる」と口にした事に驚き目を剥いた近藤と土方に、セイが実は
女子である事とそれを隠して総司大事と勤めていた事を簡単に松本が説明していたのを、
自分達の世界に入り込んでいた二人は気づいていなかった。
セイが女子だった事にも驚いたが、それを総司が隠し続けていた事への土方の怒りが
拳にこもっていた。
「もう俺達は知らん! 神谷の事はてめぇがしっかり面倒見やがれっ!」
怒りのままに部屋を出て行く土方を、松本が追いかけて酒に誘う声が聞こえる。
何が起きたのか見えぬ目ではわからぬセイの肩に、温かな手が置かれた。
「神谷くん。君が女子だったということは驚いたが、私は君が立派な武士だと知っている。
隊を離れてもそれは変わらない。もしもこのまま君の目が見えなかろうとも、
その誇りを忘れないで欲しい。それから・・・」
くくくっ、と可笑しくてたまらないという笑いを漏らしながら。
「あの駄々っ子を、総司を頼む。あれは本当に君が大切で必要なんだ。」
君を取り上げるなら斬り殺してやる、という眼で睨みつけてあの歳を黙らせたよ、と囁いて、
肩に乗っていた手がポンポンと軽く弾み愛おしむように一度月代を撫でた後、
重い足音が去っていった。
部屋を静寂が支配しかけた頃、セイに向かってズリズリと何かを引きずる音が近づいてきた。
その音が目の前で止まった時、セイの面に久しく忘れていた笑みが浮かんだ。
「副長に殴られたんですか?」
「・・・えぇ、手加減無しですよ。顎がガタガタしてます」
力任せに土方に殴られた衝撃でグラグラする頭を押さえ、這うようにして
セイの元に戻ってきた総司が苦笑する。
「口の中が切れたんじゃないですか? 明日は頬が大福ですねぇ」
「歯が折れなかっただけ良かったですよ。大福は・・・覚悟します」
どこかフガフガとした総司の口調にセイの笑みが尚更深くなる。
「ねぇ、神谷さん・・・」
そっとセイの手が総司の大きな手の平に包まれた。
「返事をまだ聞いてないです。」
「・・・返事?」
「私と祝言を挙げてください、と。」
「・・・あ・・・」
先の真摯な告白を思い出し、一気に頬を紅に染めたセイの手を引いて
腕の中に収めた総司が言葉を重ねる。
「ちゃんと返事をくださいよ。もちろん『諾』以外は聞きませんけど、
どうしても貴女の口から言って欲しいんです」
暗闇の向こうから突き刺さる程に強い総司の視線を感じて、セイは眩暈がしそうだった。
「・・・・・・あ、の。・・・でも・・・」
「言って、神谷さん。私から逃げないと、どこへも行かないと。・・・ほら」
ここで『否』と言ったとしても総司は自分を離さないだろう。
抗う余地など無い強い強い総司の想いが改めてセイの中に染み渡った時、
初めてセイは自分の心を開放した。
「・・・はい・・・お傍に、先生のお傍にいたいです・・・」
湖面に薄く張った氷のように、危うく張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
同時にセイの体が強く拘束され、肺から空気が全て押し出されるような圧迫感が襲う。
「せ、先生。く、苦しい・・・です・・・」
ぎゅうぎゅうとセイの体を締め上げる腕を緩める事無く、満面の笑みで総司が答える。
「駄目です。私を捨てようとした罰です。それに、それに、これは神谷さんを
私だけが独占できる喜びの表現でもあるんです。我慢してください」
すりすりとセイの頬に自分の頬を擦り付けながら、暫くその腕が力を弱める事はなく。
ようやくその強い拘束が解け大きく呼吸をした直後、唇に感じた温もりと柔らかさに、
セイがとうとう大声で泣き出した。
全てを手放し失う覚悟をしていた身には、何も失う事も無くそれ以上に大きな物を
与えられた事実は、今更ながらセイの心を激しく揺らした。
わんわんと幼子のように声を上げて泣く愛しき少女を腕に抱き、総司は幾度も
その頬に額に唇にと口付けの雨を降らし続けた。
後日、総司の宣言通り用意された休息所で、新選組幹部と少しの知人を招いて
ささやかな祝言が執り行われた。
誰が見ても感嘆の溜息を吐く様な可憐な花嫁の隣でヒラメ顔の花婿は満面の笑みを振りまき、
同僚に小突かれまくる事となる。
そのまま周囲を呆れ果てさせる嫁馬鹿ぶりを披露し続けた黒ヒラメが、父とも兄とも思い
敬愛する局長副長に嫁の視力回復を歓喜の舞付きで報告したのは半年の後。
その直後、隊への復帰を懇願する嫁の強情にほとほと困り果て、涙混じりに局長副長
松本法眼に加えて兄代わりの斎藤まで巻き込んでの説得工作の最中、
セイの中に小さな命が息づいている事が発覚。
ようやく穏やかな家庭生活を手にした総司は、
今日も変わらず嫁馬鹿で過ごしている。