春の香
「あ、おかえりなさいませ。沖田先生」
いつものように裏庭で洗濯物を取り込んでいたセイが、土方に命じられた
二条城への遣いから戻った総司に声をかけた。
「ただいま、神谷さん」
土方へ報告を済ませると真っ先にセイの元へ顔を出すのは、
すでに習慣となっているらしい。
屯所へ戻った事を実感するのか、総司の表情が微かに和らぐ。
「随分お戻りが遅かったですねぇ。何か手間取る用件だったんですか?」
土方の遣いはいつもの事だが、それにしては今日の戻りは遅い。
自分に話して支障の無い事なら総司は口にするだろうと、バサバサ着物の埃を
払いながらセイが尋ねた。
「いえ、用件はすぐに済んだんですよ。書状を届けるだけの事でしたから」
それならセイも時折黒谷の会津本陣まで遣いに出る。
ただ二条城となると幕府の重臣宛の書状となるので、遣いもセイのような
平隊士ではなく組長格が赴く事となる。
「お疲れ様です」
この能天気な上司でも、やはり気疲れぐらいするだろうと声をかけた。
「その帰りにですね〜・・・」
どこか戸惑うような声にセイが振り向くと、総司が手の中で何かを弄んでいる。
「お城の近くで具合を悪くしていた年配の尼様を見かけて、
東山の尼寺まで送っていったんですよ」
女子供と年寄りに優しい総司らしいとセイが微笑む。
「そしたらお礼だと言って、これをくれたんですが・・・」
手の中で転がしていた小ぶりな壺をセイに差し出した。
小さく首を傾げながら、その壺の蓋を取り中を覗いたセイが目を瞠る。
「ねっ? 何かと思うでしょ? 何だか小動物の糞みたいだし。
気持ち悪いので途中で捨ててしまおうかとも思ったんですが、
もしかして何かご利益のある糞だったら勿体無いですし・・・」
心底困惑している総司の様子にセイは我慢できずに声を上げて笑い出した。
「ふ・・・糞ってっ・・・・あっははははは、失礼ですよ・・・あははははっ」
「どうして笑うんですよ〜」
ぷっと頬を膨らませる総司は子供のようだ。
これ以上笑っては、本格的に拗ねそうだとセイはどうにか笑いを収めた。
「だって、沖田先生ご存知無いんですか? これってお香なんですよ?」
「は? お香? あのお寺で焚くやつですか?」
予想もしていなかった正体に眼を瞬いている。
「はい。お寺で焚く粉状の抹香やお線香とは違って、これは練り香と言うんです。
公家や上級武士などの嗜み・・・と言ったらよいのでしょうか。
香りを楽しむ為のものなんですよ。しかもとっても高価で特別なものなんです」
最後の言葉に多少の勢いをつけてセイが言う。
予想通りに総司の目がきらきらと輝き出した。
「詳しいですね、神谷さん。どうやって使うんですか? 知ってます?」
食べ物と剣以外に興味を持つ事は稀な男だが、時折新しいものに
好奇心が刺激されるのは弟子と似ている。
「え〜っと、そうですね。まだ洗濯物を片付けないといけませんし・・・。
夕餉の後でよろしいですか?」
「はいっ。楽しみにしてますねっ!」
総司が満面の笑みを浮かべて頷いた。
「副長。ちょっと宜しいですか?」
夕餉まであと僅かという時間にセイが土方の元を訪れた。
「あ? なんだ?」
文机から振り向かぬままの土方の背に向かってセイが口を開く。
「夕餉の後で、少々客間を貸していただきたいのですが」
「何に使うんだ」
「実は沖田先生がですね・・・」
一連の事情を説明した。
「練り香か。以前日野の姉が何だかいじってた事があるな」
興を引かれたのか土方が振り向いた。
「道具類は西本願寺からお借りしてきたのですが、場所が・・・」
眉根を寄せたセイを見て土方も苦笑する。
「確かに隊士部屋に香を漂わせるわけにもいかねぇな」
「はい。ですからどうせだったら客間でと」
確かに客間であれば残り香が漂っていた所で、無骨な新選組にもこのような
気遣いのできるものがいるのか、と客に好感を持たれるぐらいだろう。
「別にかまわねぇが、甘ったるいやつなんて焚くんじゃねえぞ」
幾ら風流を知る土方とて、伊東ではあるまいし鬼の集団の屯所内で
色里のような甘い香を焚かれるのはご免被る。
「ああ、それは大丈夫だと思います」
あまりにキッパリとしたセイの言葉に土方が片眉を上げた。
無言の問いにセイが答える。
「くださったのは年配の尼君だという事ですし、恐らく尼寺で時折焚かれて
いるものでしょうから、若い女子が使うような甘すぎる香では無い筈です」
「それならいいが・・・。ここが鬼の住処だって事を忘れるなよ」
ふんと鼻を鳴らして再び背を向けた土方に、セイは笑いを噛み殺す。
総司同様に好奇心旺盛なこの男は、きっと何か理由をつけて
後で覗きに来るのだろうと。
夕餉も済んでのんびりとお茶を啜っていた総司の元にセイが現れた。
そのまま客間に連れていかれると、その先には何やら盆の上に小物達。
途端にぱっと眼を輝かせ、道具の前にちょこんと座る姿は童と何ら変わりない。
くすりと小さく笑みを漏らしてセイも盆を挟んだ反対側に座った。
鈍く光る青銅の香炉には小さな足が三つついており、
セイの手の平で包むには少々大きい。
その中には灰がこんもりと円錐形に盛られている。
きちんと正座をして背筋を伸ばしたセイが盆の上から火箸を取り上げ、
その一本を縦に灰の真ん中に差した。
「この中に火の付いた炭が入っているんです。そこから熱が上がってくるように
こうして道を通してあげます」
火箸で開けた細い穴の上に薄い金属板を乗せる。
「これを使わず直接練り香を乗せても良いのですが、この板を使った方が
熱の伝わりが良いそうです」
ひとつひとつ丁寧に説明するセイの手元は少しも止まらない。
総司が尼僧から貰った壺を手に取ると中の黒い粒をひとつ出し、
それを指先で軽く押し潰す。
平たくなった塊を静かに金属板の上に置いた。
客間は隊士達の部屋とは離れた場所にある。
時によっては第一級の密談も行われる部屋は、屯所内で最も静謐な空間でもある。
セイは口を閉じてじっと香炉を見つめている。
総司はそんなセイと香炉を交互に見ていた。
室内の静寂が緊張感ともなりかけ、総司が我慢できずに口を開こうとした時。
ふわり
春風がそよぐように、微かな香りが総司の鼻腔をかすめた。
「あっ・・・」
思わず声を出してしまった総司を気にもせずに、セイが片手で香炉を持ち上げ
空いた手をその上に蓋のように被せる。
親指と人差し指の間に隙間を作り、そこに鼻を寄せた。
先程からのひとつひとつの動作が、どうにも常のセイとは違って見えて
総司は何故か落ち着かない。
眼を閉じ香りを確かめていたセイが突然パチリと瞼を開いた。
息を詰めてその姿を見つめていた総司は急に絡んだ視線にドキリと胸を鳴らす。
「わかりました、これが何の香だか!」
嬉しそうにニコリと微笑むセイは総司の動揺など気づかぬままに、
手元の香炉を総司に渡した。
「先生も聞いてみてください。多分知ってる香りですよ〜」
悪戯っぽいセイの言葉に総司が首を傾げる。
「聞く・・・んですか?」
「ああ。お香の場合は“嗅ぐ”と言わずに“聞く”と言うんですよ。
だから何種類かのお香の名前を隠して、それが何というお香なのかを
香りで当てる事を“聞き香”と言うんです」
本当は香木の欠片を用いるものなんですけどね、と説明しながらセイの細い指が
自分がやったように総司の手に添えられ、蓋のように香炉の上に持ってくる。
「ほら、この隙間から強く香りを感じるはずです」
セイが動くたびにトクリトクリと鼓動を大きくする心の臓を宥めながら
総司が隙間に鼻を寄せた。
(・・・ん?)
部屋の中に拡散していたものと違って、香りの輪郭が鮮明になる。
(良い香りだけれど、こんなものよりも神谷さんの香りの方が・・・)
意識が奇妙な方向に行きかけ、慌てて香りに集中しようと眼を閉じる。
(少し甘いけれど・・・凛と清々しい感じも・・・これはどこかで・・・)
静かに呼吸を繰り返していた総司がはっと眼を開け、同時に叫んだ。
「梅っ! 梅の香りですっ!」
それを聞いてセイが花が綻ぶように笑った。
「はい。正解です。この香は“梅花”という香だと思いますよ。
よくおわかりになりましたね、沖田先生」
褒められた事に総司が素直に頬を緩めた。
「練り香というものは基本的に六種なんだそうです。尼君と仰っていたので
少し落ち着いた風情の“落葉”か黒方”だと思ったのですが、“梅花”とは・・・」
「ああ、何でも『お武家様ならこれが良いだろう』と」
「そうなんですか。でしたら香に造詣の深い尼君だったのでしょうね。
確か・・・武家ではこの“梅花”か“菊花”の香を用いられる場合が
多いらしいですから」
「なんだ、随分詳しいじゃねえか」
香りが室内に篭らぬようにと開け放った障子の向こうから土方が入ってきた。
「あれ、土方さん、どうしたんですか?」
不思議そうな総司と対照的にセイがくすくすと笑っている。
「何が可笑しいんだ、てめぇは」
「いえ。副長も香を聞きにおいでになったのでしょう? どうぞ」
総司の手元から香炉を受け取ると土方に差し出し、総司にしたのと同じように
手を添えて香の聞き方を教える。
「ほお。確かに梅に近い香りだな」
「ええ。凛として武家に相応しい香りだと思います」
セイが穏やかに微笑んだ。
「それにしても、こんな芸当をどこで教わったんだ?
そこらでやってる物じゃねぇだろうが」
不思議そうな土方にセイが軽く眼を伏せ口元だけに笑みを刻む。
「若い頃に偉い方のお邸にご奉公していたというお婆さんが家の近所に住んでいて
・・・幼い私に教えてくださったんです」
同時に今はいない家族との暮らしを思い出しているのだろう、セイの声は
どこか郷愁を感じさせた。
総司だけではなく土方も物心つく前に両親を失っている。
セイの胸の内など容易に想像がついた。
「そうか・・・」
小さく返した土方の声に自分への気遣いが含まれている事を悟り、
セイが慌てて顔を上げニッコリと微笑んだ。
自分を置き去りにしたようなその空気に総司の眉間に小さな皺が寄る。
「ああ、そうそう。これだけでは勿体無いですからね。こんな使い方もあるんですよ?」
そう言うとセイは部屋の隅に用意していた格子で作られた大きな箱のようなものを
持ってきて香炉の上に被せる。
そうしてからこちらも予め準備してあったのだろう総司の羽織をバサリと乗せた。
「これは伏籠という香を布地に焚き染める時に使う道具なんです。
こうして香を焚き染めると良い香りがつくのと一緒に虫除けにもなるんです。
時々里乃さんもやってくれますよ。こんな高級な香ではありませんけれど」
時折羽織の位置をずらしながらセイが説明する。
羽織を動かすたびに隙間から漂う香が強弱を彩り、セイの白い指先と相まって
総司に軽い眩暈を感じさせた。
この酔いに似た感覚を齎すのは慣れぬ香り故か、初めて体験する雅やかな空気故か。
ふと目をやると土方の視線もセイの指先を追っている。
忘れていた総司の眉間の皺が復活した。
理由は判らないが胸がムズムズするのだ。
「はい。この程度で良いと思いますよ」
止まった空気を動かすように明るいセイの声が響いた。
「先生にあまり強い香りは合わないと思いますので、裏地に軽く乗せた程度に
しておきました。これでしたら時折淡く漂うくらいです」
羽織を畳みながらセイが微笑む。
有難うございます、と礼を言う総司にどういたしまして、と答えると
セイは土方に向き直りその羽織を指差した。
「よろしければ副長の羽織にもいたしましょうか?」
「しなくていいですっ」
土方が答えるより先に総司の声が割り込んだ。
振り返ったセイの視線の先には火箸でくっきり線を入れたような溝を
眉間に刻んだ男の姿。
先程のセイの指先が脳裏を掠める。
香りがくゆり、指がひらめく。
細い指先が香の染み具合を確かめるかのように、
総司の羽織の上を幾度も触れていった。
優しく柔らかく、愛しいものに触れるような丁寧さで。
たとえ土方の物だとしても、他の男の羽織にあのように触れてなど欲しくない。
想像しただけでも苛立ってくる。
どうしてそれほどに不快なのか理由を考えぬままに総司は行動に出た。
「先生?」
問うセイの言葉も黙ったまま総司の様子を眺めている土方も完全に無視して、
総司は伏籠をガタリと外した。
「これは私のものですっ! 土方さんになんて使わなくてもいいです!」
そう言い捨てて香炉を抱えると部屋から飛び出してゆく。
一瞬唖然としたセイだったが、次の瞬間弾かれたように後を追う。
「沖田先生っ! そんなに走ったら灰がっ!!」
「放っておいてくださいっ! これは私だけの物なんですっ!」
「屯所中を灰だらけにするおつもりですかっ!!」
ドタバタと廊下を走る足音と怒鳴りあう声が遠ざかってゆく。
ひとり室に残された土方は喉の奥で笑っていた。
「ガキの焼き餅じゃねぇかよ、あれは」
静寂の戻った室内には土方の小さな笑いを包むように、梅花の残り香が漂っていた。
そして屯所中に灰を撒き散らして逃げ回った総司が、灰の痕跡を辿ったセイに捕獲され、
夜が明けるまで廊下の拭き掃除をする事となったのは当然の結果だろう。