花守り
「邪魔をする」
玄関からかけられた懐かしい声にセイが振り向いた。
「兄上・・・・・・」
髪を短く刈り、警官の制服に身を包んでいるその男を
忘れようとて忘れる事などできない。
「お懐かしい・・・。ご壮健で何よりです」
「十年ぶりか。変わらないな、お前は」
「兄上こそ・・・とにかくお上がりください。狭い家ですが」
促されて男が座敷に腰を下ろした。
「斎藤先生は」
「いや、藤田だ。今は藤田五郎と名乗っている」
「ああ、そうなんですか」
昔と変わらぬ澄んだ瞳でセイが笑った。
最後に会ったのは慌しく会津へ落ちる直前だった。
千駄ヶ谷にある植木屋の離れで布団に横たわる愛しい男に寄り添い、
共に同じような澄んだ瞳で自分と土方を見送った。
あの時この女子の傍に居た男も、自分と共に彼を見舞った男も
すでに泉下の住人となっている。
過ぎ去った動乱の時。
その中で精一杯に命の炎を燃やしきった男達を思い返しながら、同時に時流の
荒波の中で鮮やかに煌いていた小柄な隊士の姿が眼裏に甦る。
だからこそ己にとってただ一人の男と定めたあの武士を失った後も、
この女子が命を永らえていると知った時には驚いた。
きっと後を追った事だろうと思っていたのだから。
けれど何の疑いも持たずにそう信じていた相手が、今穏やかな笑みを湛えて
目の前に座っていた。
「あれから、お前は・・・」
「ただいま戻りましたっ!」
口を開きかけた斎藤の言葉を遮って弾けるように元気な声が玄関から響いた。
色黒で少し癖のある髪とキラキラと輝く瞳が懐かしい面影を思い起こさせた。
「っ?」
その顔を目にして反射的に振り返った斎藤の視線の先ではセイが微笑んでいる。
「お帰りなさい。お客様がいらっしゃってますよ、ご挨拶なさい?」
「はいっ」
十歳程の男児が勢いよく頷き、斎藤に向かって頭を下げた。
「はじめまして。誠司ですっ」
「あ、ああ。藤田だ。元気の良い子だな」
褒められた事が嬉しいのだろう、ニコニコと無邪気に笑みを零す。
そんな様子すら誰かとよく似ている。
「母はお客様とお話がありますから・・・」
「はいっ。裏で素振りをしてきますっ!」
言葉と同時に手習いの道具を玄関に投げ出した子供は、
竹刀を持って飛び出していった。
暫く言葉も無く子供のいた空間を見つめていた斎藤がようやく口を開いた。
「あの子は・・・沖田さんの?」
「はい」
聞くまでも無い事だろう。
この女子が魂の全てで恋い慕ったあの男以外の子を産むはずが無いのだから。
それでも最後に会った時のあの男の病を思えば俄かには信じられず、
小さく首を振りながらつい問いかけてしまった。
「だが・・・沖田さんは・・・」
「ええ。千駄ヶ谷に移ってからの子です」
あの頃の総司に女子を抱ける力が残っていたとは思えない。
その疑問が顔に出ていたのだろう。
セイが複雑な笑みを浮かべた。
「千駄ヶ谷で初めて沖田先生と結ばれました。病が発覚してから労咳を私に
うつさないようにと、近づけようともしなかった先生が急に望まれて・・・。
松本先生から伺っていたのです。労咳の男は女子を抱きたくなるものだと。
だから感染を防ぐためにも気をつけろと・・・」
木立に囲まれ時が止まったように静かなふたりきりの住処で、
総司はそれまでと一変したようにセイを求めた。
迫り来る死への不安を女子の体に溺れる事で薄れさせようとしているのかと、
セイも総司の望むままにその身を委ね続けた。
愛しい男が望むのならば、骨の一欠けらまで差し出す事に抵抗などなかった。
「春の終わり・・・でした。私に月のものが無い事に先生が気づかれて」
(ああ、良かった。これで貴女の命を守るものが出来た)
その男は随分久々に、京で見せたような晴れやかな顔で笑った。
「先生の命が潰えたなら、私が即座に後を追うとご存知だったのです。
だから私の中にご自分の命の欠片を遺された。私を守る為に・・・。
それ以外に私がこの世に留まる事は無いと思われたのでしょう」
それは正しかっただろうと斎藤も思う。
確かに感染の恐れはあったが、その危険を冒してでも
愛しい娘に生きる道を残したかったのだろう。
「それから間もなくして、全ての心残りを無くしたように逝ってしまわれました」
(いつでも共にいますからね。ややと一緒に幸せになってくださいね)
慈しみに満ちた眼差しで繰り返し繰り返し願い、乞われた言葉を
忘れた事などありはしない。
弱った体で命の欠片を幾度もセイに注ぎ込む事は、
それこそ文字通り命を削っていたのだろう。
けれど自分の命と心の全てを惜しげもなくセイに与えて、
あの誰よりも優しい鬼は風となった。
そこまでして残された唯一の光輝を自分が守らずにどうするというのか。
愛しい男の願いのままに自分へと託された命を抱えてセイは未来へと踏み出した。
そしてその命は今でもセイにとって唯一の宝となっている。
母としての落ち着きと穏やかさを身につけた女子の瞳の中に、昔と変わる事の無い
鮮烈な輝きを見て取って斎藤の口端が微かに上がった。
この女子に自分がしてやれる事はもう無いだろう。
けれどこれから広い世界に出て行くあの子供のためになら・・・。
「困った事があれば何でも言うといい。これからは俺が後ろ盾になってやる」
出会って間もない頃にも告げた言葉を置いて、斎藤はセイの前を辞した。
「あっ、おじさん!」
「藤田だ・・・」
ふいに気が向いて裏へ回ると狭い空き地で誠司が竹刀を振っている。
「父上のお友達?」
ぱたぱたと音を立てて駆け寄ってきた子供に、唐突な質問を投げられて
斎藤が首を傾げた。
「何故そう思う?」
「だって父上が嫌な顔をしていないもの」
「父上?」
「うん。母上の所に時々変なおじさん達が来るの。私に新しい父上が必要だって」
誠司が思い切り顔を顰めた。
確かにまだ若く美しいセイの事だ。
再婚の話も多いのだろうと内心で頷いた。
「そうすると父上がすごく嫌〜な顔をするの。でも今日は嬉しそうだから」
「父上とは・・・沖田さんか?」
理解し難い話に斎藤が目を瞬いた。
「うんっ。沖田総司!」
きっぱりと告げるその言葉に今度こそ斎藤の目が見開かれる。
もう十年も前に死んだはずの男が、どうしてこの子供の口から出てくるのか。
「ど・・・こに・・・」
信じられないとばかりに問い返した言葉に嬉しそうに誠司が答える。
「おじさんの後ろ。その木のところで手を振ってる」
音がするような勢いで振り返った斎藤の頬を優しい風が撫でていった。
「声は聞こえないけれど、いっつも見ていてくれるんだよ。母上を守ってるの」
その声音が、当たり前の事を告げるような響きで耳に届いた。
気のせいか一瞬立ち木の陰に懐かしい姿が浮かんだ気がする。
斎藤の目の奥がジワリと熱を持った。
言葉を失い瞳に浮かびかける水の気配を抑えるように唇を噛み締めた斎藤を、
こればかりはセイに似たらしい大きな眼が気遣わしげに見上げている。
「おじさん?」
「・・・藤田だ・・・」
人の話を都合の良い所だけ聞くのは父親譲りかもしれない。
けれど確かにあの男の命と願いを継ぐ者なのだろう。
「お前は母が好きか?」
「はいっ!」
斎藤の言葉に誠司が全身で頷いた。
その瞳の輝きは確かに懐かしいあの男の物と変わらない。
「そうか。だったら父の分も母を守ってやれ」
それだけを願ってあの男はお前という命を求めたのだから。
そしてきっと今は、お前達の幸せだけを祈っているはずだ。
「はいっ!」
再びの爽快な返答に斎藤は微笑んだ。
くしゃりと頭を撫でられて、誠司が声を立てて笑う。
命は繋がれた。
想いは紡がれた。
なぁ、沖田さん。あんたはたいしたヤツだったよ。
なぁ、沖田さん・・・。
再び頬を掠めた風は、遠く懐かしい気配を残していった。