月を巡りし水清く
浪士達の動きが怪しいと監察方から報告が入り、隊士達に待機の命令が出た。
それを稽古前に仲間達と共に聞いたセイは、一瞬顔を顰めた。
「神谷さん?」
午前の稽古を終えた後、知らぬ間に姿を消していたセイを探していた総司は
普段使われる事の無い空き部屋を覗き込んだ。
ぐるりと部屋を見回し、ここにもいないかと障子を閉じかけた時、
部屋の隅に広げて立てられた衝立の奥に微かな気配を感じる。
足音を消して歩み寄り覗き込んだその場には、力なく壁に寄りかかる
小さな姿があった。
慌てて衝立を回り込みセイの前に膝をついた総司だったが、その余りの
顔色の悪さに驚き、頬に手を伸ばすとすぐに離した。
普段の温もりが感じられないほどに、ひどく冷たい。
「ど、どうしたんですか? さっきの稽古でどこか怪我でもしましたか?」
「いえ・・・あの・・・」
ぼんやりとしたセイが答える。
「・・・あの・・・えぇと・・・」
言葉を濁す様子に苛立った総司だったが、ふと気づく。
いつもよりセイの纏う香が強い。
普段は里乃に貰ったという香袋から仄かに香りがこぼれる程度だ。
そして何より明確なのは、特定の時以外セイが滅多に身につけることの無い
黒の袴と臙脂の衣を着けている事。
あ、と小さく声を零した総司が、それよりも抑えた声で問いかけた。
「お馬・・・ですか?」
先程から紅を刷いたように淡く染まったままの頬を両手で押さえ、
視線を逸らしたセイがこくりと頷いた。
けれどやはりいつもに比べれば、染まった頬の色さえくすんで見えた。
「・・・つらい、ですか?」
「いえ、大丈夫です」
無理をしているのが明快な笑みでセイが答える。
それを見つめながら総司の眉根が寄せられた。
待機命令さえ出ていなければ、すぐに里乃の家に行かせてやれるものを。
それでも自分に何か出来る事は無いかと、以前里乃に聞いた事を
必死に思い出そうとする。
まだ里乃が明里という名で店に出ていた頃だ。
顔から火が出そうな思いをしながらも、万が一、月に三日の居続けが出来なかった
時のためにと、屯所内で自分が出来そうな事を尋ねた事がある。
真っ赤な顔で必死に話を聞こうとする総司の様子に明里はコロコロと声を立てて
笑いながら、出来る限り動かさずに休ませてあげるようにと言った。
もちろん屯所から離れられない以上、何らかの緊急事態であろうから完全に休ませる
事は不可能だろうけれど、それでも激しい動きをさせない事はできるだろうと。
「そうだ。風邪気味だという事にして、ここで休んでいなさい。
今、布団を持ってきます!」
勢い込んで告げた総司が立ち上がる前に、小さな手が必死にその袖を掴んだ。
「やっ、やめてください! そんな事をして、みんなに余計に気遣われて
注目されては困りますっ!」
その言葉に総司の立ち上がりかけた動きが止まる。
確かにそうだ。
セイが不調だと知ったなら、一番隊の仲間だけでなく原田達幹部も何くれとなく
様子を見に現れるだろう。
そんな状況ではむしろお馬だとばれないかと落ち着けるはずもない。
「うっ・・・」
急に動いたせいか襲ってきた痛みの波にセイが下腹部に手を当て、顔を歪める。
「・・・・・・っっっ・・・・・・」
必死に唇を噛んで声を押し殺すが、子宮を強く絞られるような痛みは
白い額に首筋にと冷たい汗を滲ませる。
「神谷さんっ!」
慌ててにじり寄った総司がセイの肩に手をかけるが、上体を丸めるように
小さくなっているその身に何もできようはずはない。
長い長い時間のような数瞬が過ぎた。
「・・・はぁっ・・・・・」
息を詰めて痛みに耐えていたセイが短く呼気を吐き出し額の汗を拭った。
顔一杯に“心配です”と書いているような総司を見上げて苦笑する。
「すみません。もう大丈夫ですから」
「大丈夫という様子ではありませんでしたよ・・・」
「毎月の事ですから、本当に大丈夫なんです」
抜けるような白さとはこういうものを言うのだろうかと思えるほど、血の気の薄い頬に
笑みを浮かべるセイの姿は総司の胸に不安を齎す。
過去の自分がこれほど近い位置に女子を置いた事は無い。
幼い頃は姉達と共にあったけれど、月の障りの事など感じた事は無かった。
人によって辛さの程度は違うのだと明里も言っていたが、セイは特に苦しそうだ。
華奢な肩から離した手の平に汗が滲んでいる。
それを握り締めて総司は自分に苛立った。
確かにこれは女子として当然の事なのだろう。
だからこそ女子は守られるべき存在で、その理を自分から破り、
弱いその身を男所帯に置いているこの子がこうして一人
痛みに耐えるのは仕方のない事なのかもしれない。
けれど・・・セイが女子と知っている自分が何も出来ない事が腹立たしい。
ほんの少し、針の先ほどでも力になる事ができない事に苛立ちは増す。
何か・・・何か、できないだろうか。
「とにかく、しばらくでも横になりなさい。少し眠れば痛みも和らぐかもしれない」
ようやく口から出た声は、この男にしてはひどく弱い響きだった。
「平気です。それに横になるより、こうして凭れかかって座っていた方が楽なんですよ」
「本当に?」
疑うような総司の視線にセイが淡く微笑む。
確かに自分はいつもやせ我慢をするけれど、こればかりは真実なのだ。
「はい、本当です」
そう答えながらもセイの手が下腹部を抱えたままなのを見て、総司の脳裏に
里乃の言葉が甦った。
『お腹と腰を温めると少ぅし楽になるんえ?』
思い出すと同時に纏っていた羽織をバサリと脱ぎ、セイと並んで壁に背を預けた。
そのまま軽い身体の膝裏と背に手を回して掬い上げる様に自分の足の間に下ろす。
後ろから抱えた状態で正面からその身体に羽織を被せ、羽織の下に隠された
小さな両手を退けるとその下腹部を包み込むように両手の平を重ねた。
あまりの早業に目を瞬くだけだったセイが、ようやく反応する。
「な、な、なっ、何をしてるんですかっ!」
耳まで真っ赤になっているのが後ろからでも良くわかり、総司がセイの耳元で囁いた。
「以前、里乃さんに教えていただいたんです。こういう時は腰とお腹を温めると
少しは楽になると。まさか昼日中から温石(おんじゃく・カイロ)を用意するのも
誰かに知れたら言い訳に困りますしね。これで我慢してください」
「い、いえっ。いいですからっ!」
こんな状態では落ち着かないと言い募ろうとするが、総司の手が離れる様子はない。
「冷たい壁よりは少しは温かいはずです。これくらいさせてくださいよ」
切なげとも言える声音に、先程の心配そうな総司の表情を思い出して
セイもこれ以上強く言えなくなった。
時折聞こえてくる隊士達の声以外には何の物音もしない静かな空間に
セイと総司は居る。
重ねられた総司の手の平はピクリとも動かず、じんわりとした温もりだけを与えてくる。
背から伝わる温かさも落ち着かなさ以上に穏やかな安心感を齎してきて、
セイの瞼がゆるやかに閉じられた。
徐々に徐々にセイの動悸が静まってゆき、強張っていた身体から力が抜けてゆく。
緊張していた背筋が弛緩して柔らかく総司に背を預ける。
耳元で総司の小さな溜息が聞こえた。
「こんな思いをしてまで、ここにいる価値があるんですかねぇ」
呆れるような小さな声がセイの耳朶を擽る。
答えるのもだるいというようにセイは口を開かない。
「本来であれば、貴女は守られる側の人だというのに・・・」
囁く声は止まらない。
「貴女にとっては、辛い事ばかりじゃないですか・・・」
総司の声と共に再び痛みの波が襲ってくる。
「っっっ!!」
声に出来ない呻きを唇を噛んで堪えたセイが、総司の手の上から
自分の腹部を強く抑えた。
ぎゅうと絞られる痛みと共に、血の臭いが強くなる気がする。
気のせいだとわかっていても痛みに乱される思考の中でそればかりが気になり、
総司から身を離そうと身体を捩る。
けれど腹部に当てられた男の手の平は吸い付いたかの如く
セイから離れようとせず、むしろ背にあった総司の身体が
かぶさるように小さく身を丸めたセイの背に寄り添ってくる。
「は、離してっ、くださいっ」
苦しい息の中でセイが呻く。
「大丈夫。大丈夫ですから・・・」
総司の声が耳元に落ちる。
「ほら、ゆっくり息を吸って・・・吐いて・・・大丈夫です・・・」
強張った小さな身体を抱き締めたまま、上からセイの手に押さえられた
総司の片手が抜かれ、そっとセイの手ごと再び腹部を包み込む。
大きな手の平が痛みさえも抱え込んでくれるようだ。
伝わる温もりが痛みを和らげる。
静まりゆく波に小さく吐息を零したセイの様子を察し、総司も身体の力を抜いた。
再び落ちた沈黙の中、今度はセイが口を開いた。
「・・・嫌じゃないんですか?」
「何が、です?」
そっと答える総司の声は、どこまでも優しい。
「これって、穢れって言われるんですよ? こんなに近く居て・・・」
確かに遠い昔に高位の者達は月の穢れの間は精進潔斎し、塗籠と言われる
暗い部屋に篭ったまま過ごしたと聞いている。
庶民だとてやはりそれなりに周囲との間に距離を保ち、血の穢れを憚ったものだ。
それは今でも女子の身を一段下に見る理由の一つとされている。
「何が穢れなんです。それは人として当然の営みじゃないですか。
確かに動きが制限される場合もあるでしょうけれど・・・
私はそんなことを気にしませんよ」
馬鹿な事を聞いたとばかりに、どこか不機嫌そうな声で総司が答える。
「ただ・・・」
セイにしか聞こえないほどの微かな声が続く。
「貴女が苦しい思いをしているのは、見ていて辛いです。それだけが辛いです」
余程総司の方が苦しいのではないかと思えるような声音だった。
きっと眉間に皺を刻んでいるのだろう。
その表情がセイには見えるようだった。
「・・・平気です。先生の手が温かいから・・・普段より楽なんです」
こそりと返したセイの言葉に総司が小さく笑みを浮かべた。
助けとも言えない自分の力でも、この娘のためになれるならそれが嬉しい。
「だったら・・・少し眠りなさい。私がここにいますから」
貧血のせいでいつもよりも冷えたその身を包み込んだまま、総司が囁く。
言葉の裏に滲む嬉しげな響きに安堵して、セイはゆるゆると眠りの淵に足をかけた。
「そんなに、甘やかさないでください・・・」
想う相手に優しくされる事は嬉しいが、女子として扱われた挙句に
隊から離されるなど、望まない。
「私は貴女がここに残るなら特別扱いせず武士として扱うと言いましたけれど、
その時に“お馬の事は別として”とも言ったはずですよ?」
囁く声は柔らかい。
「だからね。今は特別なんです。気にしないでお休みなさい」
常ならば許されるはずもない感情。
今だけは貴女は女子で、自分も女子の貴女を守る事が許される。
特別扱いしても良いはずだ。
「・・・・・・でも・・・・・・」
半分意識を落としながらも、まだ言葉を紡ごうとするセイの様子に総司が首を傾げた。
「・・・・・・ま、だ・・・隊務・・・が・・・」
徐々に弱くなる言葉を聞いて、今度こそ総司が笑みを零す。
「大丈夫。急ぎのものは何もありません。何かあったら誰かが呼びにきますから。
ほら・・・眠って・・・」
優しい腕は揺りかごの如く、そっとそっとセイを揺らす。
コトリと音がするようにセイの首から力が抜け、男の肩に寄りかかった。
目の前に現れた真白い首筋にトクリと鼓動が動いたが、総司も静かに眼を閉じる。
頑固で意地っ張りで、けれど真っ直ぐなこの娘に休息を。
例えそれが刹那の事であれ、己が腕の中で休ませる事の出来る満足感に
不器用な男は笑みを滲ませ、共に夢路を辿っていった。