天に向かって 〜三万打お礼フリー文〜
自分を庇って怪我をした相田の看護をしながら、セイは幾度も
隠れて涙をぬぐっていた。
自分が未熟だったから。
もっと周囲を冷静に見る事ができたなら。
自分のせいで相田に怪我をさせる事も無かっただろうに。
未熟だから・・・。
夕餉もそこそこに怪我人の元に戻ろうとするセイを呼び止め、総司は裏庭に向かった。
「今夜も相田さんに付き添うつもりなんですか?」
隊士達の夕餉の喧騒から離れ、静かな宵闇の中で投げられた総司の声に
セイは俯いたまま小さく頷いた。
「昨日も一昨日もほとんど眠っていないでしょう。危険な状態は脱したと南部医師も
おっしゃったのですから、もう貴女がついていなくても大丈夫でしょう?」
「でも・・・私のせいですし・・・私にはこんな事しか出来ませんから・・・」
途切れ途切れのセイの声は今にも風に消えそうなほどに弱い。
それを見下ろす大きな影から溜息が落ちた。
「はぁ・・・貴女がそこまで責任を感じる必要も無いんですよ。自分の力も省みず、
貴女を庇って怪我をしたのはあの人の勝手なんですから」
「そんなっ!」
「事実です。冷静な判断力を失った彼は結果として傷を負った。
それは他の誰でもない、彼自身の責任です」
「でも、私がもっとしっかりしていたなら、こんな事にはならなかったんです。
私が未熟だったから、私のせいで・・・」
自分のせいで怪我をさせてしまった事の衝撃と連夜の看護は
セイの心を弱くしていた。
「私なんかを庇わなければ怪我なんてしなかったのに・・・。
せめて看護ぐらいしなければ申し訳ありません。そんな事しか
できませんが、剣でお役に立てないのですから・・・」
――― パシン!
セイの頬を総司が強く叩いた。
「それを卑屈と言うんです。そんなに自信が無いなら、武士など辞めてしまいなさい」
叩かれた頬を手で押さえセイが総司を見上げる。
その面は背後の月に沈んで表情を伺わせない。
けれど冷たい声音は途切れる事無く続いてゆく。
「未熟であれ、前に進もうという意思を持てないなら、隊にいられても迷惑です。
刃を振るう側ではなく、傷を癒す立場に立ちたいならすぐに隊を出なさい」
それだけ言い捨てると総司は背中を向けた。
背後で押し殺した泣き声が聞こえたが足を止めない。
セイが責任を感じる気持ちは理解できるが、かといって己を痛めつけるように
寝食をおざなりに看護に明け暮れる事は見過ごせない。
日々の巡察には参加しているのだ。
弱った心と疲労した身体では、再び不慮の事態を招きかねないと
どうして気づかないのか。
総司の苛立ちは増すばかりだった。
けれどその夜も、隊士部屋にセイが戻ってくる事は無かった。
――― だだんっ!!
また一人、道場の壁に隊士の体が打ちつけられる。
起き上がれずにいる様子を一瞥すると息も乱さぬままの声が飛んだ。
「次っ!」
防具をつけた隊士がまた一人、同じ行程を辿るために立ち上がろうとした瞬間、
今まで黙って稽古の様子を見ていた井上が歩み寄り、総司の鋭い視線を遮った。
「総司。話があるから来なさい」
「今は稽古の最中です。終ってからにして貰えませんか?」
井上は首を振ると隊士達にそのまま稽古を続けるように言い残し、
総司の腕を引いて道場を後にした。
「なぁ、総司。お前のとこ(一番隊)の隊士達と同じように鍛錬したら
うちの六番隊のやつらは壊れちまうぞ」
井上がぼそぼそと語りかけた。
元々試衛館の仲間内でも剣の腕の立つ方ではなかった井上の隊は
後方支援を専らとする。
むしろ戦闘よりも人柄に重点を置かれた者達だった。
その相手に対しての容赦無い稽古の様子は、さすがに井上も
放置出来なかったのだろう。
精鋭部隊の一番隊やそれに続く二、三番隊ならまだしも、他の隊の者達に
本気になった総司の稽古は厳しすぎる。
「確かにあまり腕の立つ人は多くないですし、体力の無い人もいますけど、
それだったらうちの神谷さんだって同じです。
あの人は私の稽古についてきますよ?」
不満そうに首を傾げる総司の様子に井上が苦笑した。
「神谷は特別だよ。あいつは上へ上へと真っ直ぐに伸びようとする。若竹と同じだ。
お前のところへ追いつこうと精一杯に成長しようとしている」
その言葉を総司は珍しく神妙に聞いている。
「普通はな、そんなに上ばかり見て一杯一杯に張り詰めていたら
どこかで折れちまうもんだ。だが神谷はしなやかな若竹だ。
時にはよじれたわむ事もある。でもすぐに戻ってまた真っ直ぐ上を望む」
穏やかな笑みを浮かべて井上が続ける。
「それにな。もしもあいつが周囲の木の枝に引っかかってたわんだまま戻れなく
なったなら、お前や近藤さん、斎藤達が寄ってたかって戻すだろう?」
その言葉には総司も苦笑するしかない。
自分がセイに甘いのはさすがに自覚するようになったが、セイが女子と知るはずも無い
近藤や斎藤、最近は土方までもが何かとあの子に眼を配っていると感じていたからだ。
「それでいいんだ。人を動かす。それが神谷の力でもある。神谷が真っ直ぐ
上に伸びようと思っているから、周囲もそのために動くんだ」
里乃や松本法眼はもちろん、事情を松本から聞いているだろう南部医師までも
最近はセイに肩入れしている事を思って総司の笑みが深くなる。
あぁ、確かにあの子の“誠を貫きたい”という一途な思いの為に誰もが動く。
「でもな、だからこそ神谷を基準にしたらいかんのだ。あいつは特殊だ。
誰もがあれ程の強さとしなやかさを持つもんじゃない」
「私は神谷さんを基準にしていますか? あの人にしている稽古は普通の隊士では
壊れてしまうほど厳しいものだという事でしょうか?」
幾分不安そうな総司の言葉に井上が笑う。
「稽古だったら神谷は堪えないだろうよ。体の苦痛など撥ね飛ばす強い意志を
持っているからな。だが・・・あの子はまだ幼いとも言えるほどに若い。
時には迷うし心も弱くなるだろう。まして自分のせいで仲間に何かあればな。
目の前で知り人が傷つく事は苦しい事だよ、総司」
日頃は意見めいた事など滅多に口にしない井上が、珍しく自分に語る意味が
ようやく総司にも理解できた。
朴訥とした表情の中、幼い頃から自分を見守ってくれていた瞳が
お前にも覚えがあるだろう、と語りかけている。
まだ試衛館にいた頃、目の前で娘が傷つき倒れた時・・・
その衝撃を今でも忘れる事は無い。
状況も立場も全く違うとはいえ、心に受ける痛みは比較するべきではないだろう。
まして優しい子なのだから、一時心が弱るのも仕方がない。
けれどそんな状態で命の遣り取りの現場へ出る事は危険なのだ。
だから苛立つ。
セイを庇って隊士が斬られた時、総司もその瞬間を離れた場所から見ていた。
セイの上に刃が振り下ろされた時、自分の鼓動が止まるかと思うほどの
恐怖に襲われた。
無事を確認した途端、その小さな身をとっさに守ったのが自分で無かった事に
激しい怒りを感じた。
幼子を慈しむような井上の眼差しが総司の中の苛立ちという靄を
一枚一枚晴らしてゆく。
最後に残ったものは総司の肩から力を抜けさせるものだった。
何の事はない。
守れなかった自分に腹を立てていただけの事だ。
セイに対する苛立ちも、怪我をした相田への厳しい言葉も、
すべてはそこから派生した八つ当たりでしかない。
未熟なのはどちらなのだか。
苦い笑いが総司の口元に浮かんだ。
最前までその身を取り巻いていたささくれ立った空気が霧散した事を感じた井上が、
力の抜けた肩を叩いて道場へと戻って行く。
総司はしばらくその場に佇み続けた。
その夜、土方の用で他出していた総司が屯所に戻ると、道場から聞きなれた
気合の声が聞こえていた。
「神谷さん?」
ひょいと入り口から顔を覗かせた総司に向かって、額の汗を拭いながら
セイが振り返った。
「こんな時間に何をしてるんです、貴女は・・・」
とうに夕餉の時間も過ぎて、ほとんどの隊士達が眠りに落ちる時刻だ。
しかも最近のセイであれば件の隊士の所で介護についている頃だろう。
総司の怪訝そうな口調に気づいたのだろう、セイが困ったように頭を掻いた。
「え、へへ。南部医師と副長に、病間への出入り禁止をくらってしまいました」
夕餉が済んだ刻限に黒谷での仕事を終えた南部が、怪我人の様子を見に現れた。
こんな遅い時間に足を運んでくれた事に対して礼を尽くそうと、自ら案内をして
傷病者の療養部屋を訪れた土方がそこにいたセイの顔色の悪さに気づいた。
幾ら言っても休む時間を削って看護する事をやめようとしないのだ、と
怪我をした相田に泣きつかれ、南部と土方が揃って病間への出入り禁止を
言い渡したという顛末だった。
「“そんなにヨレヨレで次の怪我人を出したいのか、てめぇは!”と、
副長に怒鳴られてしまいました・・・」
「土方さんらしい」
素直に心配だと言えない兄貴分の気持ちが総司には伝わってくる。
「南部医師にも“必要な事を見誤ってはいけませんよ”と、諭されました」
セイの苦しい胸の内を承知していて、立ち止まってしまった小さな背を押す
幾つもの手が見えるようだ。
“もしもあいつが周囲の木の枝に引っかかってたわんだまま
戻れなくなったなら、お前や皆が寄ってたかって戻すだろう?”
井上の言葉が耳朶に響く。
未熟な師と未熟な弟子を取り巻き見守ってくれる人々の優しさが伝わってきた。
改めて己の至らなさが身に沁みる。
つまらない悋気じみた思いでセイを責め立て、己の本心さえ
井上に指摘されなければ気づかなかったなど。
――― はぁぁぁぁ・・・
胸の内で大きな溜息を吐きながらセイへと視線を戻した。
随分長い間素振りをしていたのだろうか、白い頬を伝って汗が流れ落ちていく。
「それで、早速稽古ですか?」
「はいっ! もう誰も私のせいで傷つく事などないように。
少しずつでも精進しなくてはいけませんから!」
きらきらと輝く瞳に道場に燈された蝋燭の光が映りこんだ。
「それに・・・沖田先生の言葉もずっと考えていたんです。己の未熟を嘆いて
俯いているだけでは何も変わらないと。まして“看護しかできない”など
医事に携わる方々を侮辱する言葉なのだと・・・」
だから・・・と、セイの力強い言葉が続く。
「私は己の目指す“守るべき者”になるために、今後一層励むべきだと
気づきました。“癒す者”となる事を望んでいるのではないのですから!」
瞳の中に宿した明かりが輝きを増して煌いている。
萎れていた若木が力を取り戻し、再び上へと伸び始めていた。
相田の怪我が快方に向かった事も大きい要素なのだろう。
様々に気遣い背を押してくれた幾つもの手も力を添えたのだろう。
けれど一歩を前へと歩み出したのは、他の誰でも無いこの子の意志だ。
健やかなその姿は総司にとって喜びでしかない。
「では久々に私が相手をしましょうか。一人で素振りをしていても
物足りないでしょう?」
「え? 良いのですか? お疲れなのでは?」
他出から戻ったばかりの身を気遣うセイの言葉に、総司は軽く手を振った。
「別に疲れてなんていませんよ。稽古着に着替えてきますから、
少し待っていてくださいね」
一言を残して隊士部屋へと駆け出してゆく。
今、伸び盛りのしなやかな若竹。
無駄な枝葉を取り払い、強く逞しく天へと伸びる手助けに力を尽くす事が
自分達の勤めなのだろう。
その役目に言葉に出来ぬ程の満足感が広がってくる。
そしてあの子と共にある事で、己の未熟にも打ち克つ事ができるのだろう。
愛弟子同様に自分もまた天を貫く事を欲する若竹だと青年は気づかない。
けれど頭上に広がる蒼天を想い、その瞳が楽しげに細められた。