さらさらに




「神谷さん! 隠しても無駄だと何度言ったら判るんです?」

「先生こそ、何も隠してなどおりません、と何度言ったらお判りになるのですか?」

いつものようなじゃれあいとは違う緊迫した空気が流れていた。

「ここ数日、貴女宛の文が何度も届いているのを私が知らないとでも思っているんですか?
 その文が届く度に貴女の気が塞いでくる事も」

「あれは里乃さんからです。先生が気になさるような事ではありません」

何やら抱え込んでいるような愛弟子の口をどうにか割らせ、少しでも力になろうという
総司の言葉を感情を抑えた声音が撥ね返す。

「神谷さん・・・」

滲む痛みを抑えた呼びかけも、心に重石を抱えたセイは気付く事が出来ずに背を向ける。

「本当に、ご心配いただくような事はありませんので」

「そうですか」

今度は総司がセイの言葉を冷たく断ち切った。

「だったら貴女は勝手にすればいい」

まるで仇敵に向けるような硬い声音を耳にして驚いたように振り返ったセイの前には、
凍える残り音を乗せた一陣の風が吹きつけてきただけだった。







桜の花も散り果てて、すっかり若葉が出揃った春も終わりの頃。
空が薄っすら藍から群青に、そして徐々に日輪の光を映して白みを強くする中、
西本願寺屯所の隊士部屋からこそりと抜け出す姿があった。

とんとん、と軽く足を踏み鳴らして紐を結んだ草鞋の具合を確かめ、
その影は玄関を出て行こうとする。


「どこへ行くんですか?」

玄関脇からかかった声に小さな影がびくりと動きを止めた。
そろりと振り向いた先には昨夜から隊務で他出していたはずの上司の姿があった。

「沖田先生・・・どうして、ここに?」

事態を理解できぬまま、どうにか思いついた事を尋ねてみる。

「そんな事はどうでも良いです。どこに行くんですか、と私が聞いたんです」

総司の声音は突き放した響きを纏っていて、セイの背筋に冷たいものが滑っていく。
答えようとしないセイに向かって総司は言葉を続ける。

「確かに今日一番隊は非番ですが、だからといって誰にも何も言わずに
 出かけて良いはずはない。今、単独で行動する事を控えるようにと
 通達が出ているはずです。それは貴女も承知している事ですね」

非番の日の外出や外泊は自由だが、緊急時に連絡が取れないのでは
不都合が起こりかねない。
それゆえ幹部も隊士も外出先はなるべく周囲の者に伝える事となっているし、
セイにしてもそんな事は知っている。
その上ここ数日、夜遊びの帰路だけでなく昼間の他出の時にまで、
一人で出歩いた隊士が襲われる事件が続いていたのだ。
幸い死者や後ろ傷を受ける者は出ていなかったが、事態を案じた幹部から
隊士の単独行動に対する規制が伝えられていた。

改めてセイの姿を上から下まで見直して総司が口を開く。

「最近の貴女の様子がおかしい事は私だけで無く、皆が気づいています。
 その格好。まさか脱走なんて考えているわけじゃないでしょうね」

「っ! 私がそんな事をすると思われるのですかっ!」

それまで俯いて黙していたセイだが、音が立つ勢いで顔を上げ総司に噛み付いた。
この男の言葉は自分が今まで新選組隊士として歩んできた道を否定しているも
同然なのだから。

もちろんセイがそんな事をするはずが無い事など総司が一番理解している。
隊を抜けたいのであれば、女子である事を局長副長に告げれば良いだけなのだ。
情の篤いあの壮士達の事だ。
今までのセイの働きを認めた上で穏やかに離隊させてくれる事だろう。
それらを全て承知の上で、総司はセイを傷つける言葉を投げていた。

「旅支度・・・とまでは言えませんが、それに近い拵えをしてこそこそと
 屯所を抜け出そうとしている。そう思われても仕方が無いと思いませんか?」

紅潮していたセイの頬から血の気が引き始め、瞳一杯に涙が浮かんでくる。
それを零すまいと唇を噛み締めた時、もうひとりの声が間に入った。

「いい加減にしろよ、総司。そんなに神谷を苛めなくてもいいじゃねぇか」

フラリと外から入って来た永倉が苦笑を浮かべ、続いて夜間の巡察だった
二番隊の隊士達が帰営してきた。
おそらく二人の会話を聞いていたのだろう。
セイを気遣わしげに見るもの、総司に非難めいた視線を向ける者など
すれ違い様に数多の感情が投げられていく。
隊士達がすっかり姿を消すのを待って永倉がセイの月代にポンと手を置いた。

「お前がそんな事を考えるやつじゃない事は、ここにいる誰もが知ってるさ。
 総司のやつはお前が何事かを抱え込んだまま、自分にも言ってくれない事を
 拗ねてるだけだろうよ」

「永倉さんっ!」

心外だとばかりに総司が言葉を挟んだ。

「違うってのかよ、総司。お前は本気で神谷が脱走するなんぞと
 思ってるっていうのか?」

「それは・・・」

斜めに自分を見据えられて総司が言葉に詰まる。
実際そんな事は欠片ほども疑ってなどいないのだから。
だからと言って拗ねている、などという永倉の言葉に頷けるはずもない。
言葉を濁したまま黙り込んでしまった。

「おら、神谷。一体どういう事なんだか洗いざらい吐いちまえ。
 心配してる兄分は総司だけじゃ無ぇんだぜ」

潤んだ瞳のままのセイの頭上で永倉の手が軽く弾んだ。
それはまるで遠い日に感じた兄の優しい手のようで、セイの心に少しだけ
温もりが戻ってくる。


「本当に・・・心配していただくほどの事では無いのです。そんなに気遣って
 くださってたなんて申し訳無いとしか・・・」

「いいからよ。そのたいした事じゃない事を聞かせてみろ」

いつもふらふらしてるようでも、いざという時には懐の深さを見せる、
それが試衛館一派だと改めてセイは実感した。


「まぁ坊が・・・里乃さんが面倒を見ている子供なんですが、風邪をこじらせて
 寝付いてしまったんです」

俯いたままぽつりぽつりとセイが話し始めた。
総司も永倉も黙って聞いている。


里乃に心配をかけないようにとギリギリまで具合が悪いのを耐えていたせいで
正一の風邪は悪化してしまったらしい。
幼い体は高熱と微熱を繰り返し、少しずつ弱っていく。
医術に詳しいセイに知恵を借りたいと里乃からの文が届き、松本法眼に
診て貰えればとセイも連絡を取ったが、生憎松本は大坂に行っていて
診療してもらう事が出来ない。

南部に依頼しようにも会津のお抱え医師である者に、里乃程度では
簡単に会う事も出来ない。
セイにしても松本を介して一、二度顔を合わせただけの相手だ。
セイ個人としての依頼で診療を願うには、セイが直接出向く必要があるだろうし
同時に会津の藩医に新選組の一隊士が私事で診療を依頼する事が
許されるのかと、セイの中に迷いもあった。
松本と近藤のように個人同士の繋がりがあれば別として、やはり大藩の身内に
平隊士のセイが無理を願うのは憚りがある。
それでも山南の遺した子のように正一を慈しんでいる里乃を思えば躊躇う事は出来ず、
待ち望んでいた非番の今日ようやく南部の元へと足を運ぼうとしていたのだ。


「それでこんなに早くから朝駆けって事か?」

呆れた声音で口を挟んできた永倉にセイが首を振った。

「いいえ。南部先生の所へお邪魔する前に行きたい場所があったのです」


二条城のずっと北。
紫野を上がった場所に今宮という地がある。
そこにこの京の地に政の中心があった時代から尊崇される今宮神社があった。
疫病を祓う為、疫神を祀った事から始まったその神社は今でも疫神に勝つと
言い伝えられ参詣者が後を絶たない。
そこに参ってから南部の所へ行こうと思っていたのだ。

「己の誠と剣だけを信じて生きる私が今更神頼みも無いとは思いますが、
 京の地で生まれ育ったまぁ坊にはご利益があるのではないかと思って・・・」

実際どれほどの効果があるかなど蘭医の子であった自分には信ずる事など
出来ないけれど、叶う事ならまぁ坊や何よりその子を思って胸を痛めている
里乃の支えになってくれはしないだろうかと。
神でも仏でも縋れるものであれば縋りたいのだと小さな声で呟いた。
ただそれでも隊の仲間達に私事のこんな話を聞かせて、
無用の気遣いをさせたくなかったのだ、と。


はぁ・・・と大きな溜息が落ちた。

「あれだろ? その正一ってガキは八木さんとこに暫くいた小僧だろう?」

養父母との折り合いが悪く、虐待を受けて一時声を失った正一は八木家に
少しの間預けられていた。
隊の幹部たちはその姿を目にしていたし、山南がひどく可愛がっていた事も覚えている。
知らない者では無し、話を聞けば力にもなってやるだろうに。
隊務を休んで南部の所へ行く事もできず、非番が回ってくるのをじりじりと
待ちながら一人で鬱々と悩んでいたのだ、この不器用な隊士は。


「って事だとよ、聞こえたかい?」

突然永倉が声を掛けた方向にセイが慌てて振り返った。
廊下の暗がりから見慣れた姿が歩み出てくる。

「・・・副長・・・」

憮然とした表情で自分を厳しく見据えてくるその視線に、セイの肩が小さく震えた。
隊には神仏など不要だと言いきり盆や正月さえ無視するこの男に、
どれほど冷たい言葉を投げられる事かと。

「・・・総司」

けれど土方の言葉はセイに向けられなかった。

「・・・はい・・・」

「今日は近藤さんも俺も出かけねぇからな」

それだけを言い残すと土方はさっさと奥へ戻っていった。
同時に永倉が大きく吹き出す。
声を上げて笑いながらセイの背中をバンバンと叩いた。

「不器用だ不器用だとは思っちゃいたが、あれも筋金入りだよなぁ」

目の端に涙を浮かべながら永倉が言葉を続けた。

「今宮へ行ってから木屋町の南部さんの所まで行ったら昼近くなっちまうだろう?
 だから馬を使えって事だよ。自分達は出かけ無ぇからってな」

しかもあの様子だと今夜は門限も大目に見るつもりだろうよ、と言葉を続けた。

「近藤さんの意向もあるだろうが、土方さんの気遣いだ。ほれ、とっとと行って来い」

笑い混じりに背中を押されてセイがペコリと頭を下げた。
そのまま玄関を出ようとした途端、強く腕を掴まれ厩に引き摺られる。

「お、沖田先生?」

自分の腕を握る男を見上げてセイが焦ったように声を上げた。

「単独行動は控えるようにと何度言えばわかるんです」

そっけなく言葉を投げると総司は素早く馬に跨り、セイを後ろに引き上げた。

「だ、大丈夫です。歩いていけますからっ」

下ろしてくださいと言う前に馬が走り出し、セイは唇を閉ざした。





二条城の近くを馬で走り抜けるのも障りがあろうと、西に大きく迂回しながら
ふたりは今宮を目指す。
無言のまま馬を操る総司の背に掴まりながらセイは困惑していた。

永倉や土方の気遣いはとてもありがたい。
けれど里乃や正一の事は私事なのだから、このように手を貸して貰う事が
ひどく申し訳なく感じてしまうのだ。

それと同時に今も熱に苦しんでいるかもしれない正一の事を思うと胸が痛み、
看護に疲れているだろう里乃の憔悴振りが気になる。
ここ数日繰り返してきた懊悩が甦り、無意識に総司の着物を握る手に力が込められた。


「・・・着きましたよ」

いつの間にか馬の足が止まっていた事に総司の言葉で気付かされたセイが
慌てて鞍から飛び降りた。

「す、すみません。あの・・・後は大丈夫ですから、先生は屯所に・・・」

「行きますよ」

セイの言葉を聞き流しながら手綱を近くの木に括りつけていた総司が
先に立って境内へと足を踏み入れている。

「沖田先生?」

日頃は口数の多いこの男が無駄口の一つも叩かない事がセイを不安にする。
黙って屯所を抜け出そうとした事をそんなに怒っているのだろうか。
本当に自分が脱走するなどと思っていたのだろうか。
そして今もその疑いを晴らす事が出来ずに、自分の話が真実だと確認する為に
こうして一緒にいるのだろうか。
そんなはずは無い、そんな男では無いと思いながらもセイの心が翳ってゆく。

すでに夜の気配などどこにも残っていない清冽な朝日の中、歩を進める。
朱に塗られた楼門を通り抜けた先にある桧皮葺の本殿で一心に正一の快癒を祈り、
境内を掃き清めていた宮司から病平癒のお札をいただいた。

無言で歩く総司の後を追って再び馬上の人となったセイは、目の前にある
いつも自分を守ってくれた背中がとてつもなく冷たく固い壁に思えてきた。
何を思っているのかがわからない。
いつも優しく微笑んでいた表情が、ただの一つも感情を見せてはくれない。
何が総司をここまで頑なにさせているのかがセイには理解できなかった。




町が完全に動き出す頃に木屋町に辿り着いたセイが南部の家を訪ねると
松本の対極にいるように繊細な医師は穏やかに迎えてくれ、セイの話を聞いて
すぐに同行する事を申し出てくれた。

急いで呼んだ駕籠に南部を乗せ、総司とセイは馬を曳いて付き従う。

不安げな里乃を宥めながら診せた正一の具合は、心配するほどに酷くはないと
南部が告げた。

「咳がひどいので胸に少し炎症が起きていますが、大丈夫ですよ。
 子供は悪化するのも早いが治癒も早い。薬を飲んで安静にしていれば
 すぐに回復します」

手際良く薬を調合しながら南部が微笑み、セイも里乃も一様に胸を撫で下ろした。


このまま黒谷に向かうという南部を送っていこうとセイが立ち上がる前に、
総司に止められた。
やはりその表情は硬いが正一の病状が思ったよりも軽そうな事に
安堵の気配が滲んでいる。

「南部医師は私がお送りします。貴女はまぁ坊達についていてあげなさい」

「でも・・・」

「私もそのまま隊に戻りますから構いません。里乃さんもお疲れの様子ですし、
 少し看病を代わってあげるといい」

薬が効いているのか昏々と眠る正一と、その様子を見守る里乃を見やりながら
告げた総司の言葉にセイが頷いた。

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えさせていただきます。門限までには
 帰営いたしますので、副長や永倉先生に宜しくお伝えください」

深々と頭を下げたセイに一瞬だけ物言いたげな視線を投げて、
総司は南部と共に出て行った。




夕刻になる頃、南部の薬の効果か正一の咳も治まった。
ここ数日下がる事の無かった熱もすっかり下がり、昨日までは食べたくないと
ぐずり続けていた食事もようやく喉を通るようになった姿に里乃が涙を浮かべる。
まるで本当の親子のようなその様子にセイの頬にも笑みが浮かんだ。

「清三郎はん。ほんまに何てお礼を言うたらええんか・・・」

正一の前でもあり、いつものように「おセイちゃん」とは呼べないながらも
精一杯の感謝を込めて里乃がセイの手を握ってくる。

「ううん。私は何もしてないよ。全て隊の方々や南部医師のご好意だから」

里乃に微笑みかけた後で正一に向き直る。

「だからね、まぁ坊も早く元気になるんだよ。皆心配してくれたんだからね」

セイの言葉に布団から目だけを出して正一がこっくりと頷いた。
里乃を守ると宣言している身としては、恋敵であるはずの相手に
助力して貰った事が悔しいのだろう。
小さな恋敵の内心を思ってセイの笑みが深くなった。


「ほんになぁ・・・、こんなに酷くなる前に、具合が悪い言うてくれればええのに、
 この子は・・・」

「心配かけたくなかったんや!」

「一番近くにいるうちが何も知らんやて、寂しいやないの。心配するんはまぁ坊が
 大好きやからやて、なんで判らんのかなぁ。一人で我慢しとったなんて・・・
 うちが頼りないって思うのんかと寂しなるんえ」

「・・・寂しなるんか?」

「それは寂しいえ。・・・信じて貰えてないんやろかって悲しぃ気もするし」

「里姉ちゃん、堪忍」

ふたりの会話を聞くともなく聞いていたセイの脳裏に今朝からの総司の様子が
浮かび上がる。

日頃には有り得ない程の苛立ちを顕にした言葉を屯所の玄関で投げた後、
無表情の中に隠されていた感情は寂しさ。
今宮神社で、南部の家で、時折何か言いたげにちらちらとセイに向けていた
瞳の中に浮かんでいたのは悲しさ。
そして南部を送って行こうと里乃の家を出る時、一瞬投げられた視線の中に
漂ったのは諦め。

自分を頼りにできないのだろうと悟ったような感情があったのだ。


ざっ、と音を立ててセイが立ち上がった。
驚いて見上げる里乃と正一に「そろそろ門限ですから」と断り、快癒を願う
言葉と共に今宮神社のお札を押しつけると慌しく家を後にした。






町はすっかり夜の帳が降りている。
門限まではまだ少しの余裕があったが、里乃の家を出たセイは
足早に屯所への道を歩んでいた。
今夜は大きな月が空にかかっていて足元を明るく照らしている。
提灯も借りずに飛び出してきたけれど、これなら屯所までの夜道も
不都合は無さそうだと改めて視線を先へと向けた。

ふと、数間先を歩む人影が目に留まる。
セイとほぼ同じ速度で歩むその後姿は明るい月夜といっても影に沈んでいて
はっきりとは見定める事ができない。
けれど背が高く、肩幅の広い男である事は見て取れた。

同じ距離を保ったまま、しばらく歩んだ所でセイが気付いた。
自分が足早に歩を進めればその男の歩幅は大きくなり、自分が少し疲れて
歩みを緩めればその男の歩みもゆったりになる。
提灯をつけていないその姿は相変わらず影にしか見えないけれど、
セイの胸に明かりが灯った。


――― ぱたぱたぱた

軽い足音を立ててセイが走り寄る。
その気配に気付いたのか前を歩いていた影が足を止めた。
そのまま振り返ろうとしない影に、セイが背後から抱きついた。

ぎゅうと腹に回した腕に力を込める。
心からの謝罪と感謝を全て伝えたいと願うように。

「ごめんなさい・・・」

涙を滲ませた声音に、セイにされるがままだった男が小さく溜息を零し
体の前で組まれた腕をポンポンと優しく叩く。

「黙っていてごめんなさい。心配かけてごめんなさい」

セイの涙声が続く。
そのたびに細い腕を宥めるように軽く叩く。

「沖田先生・・・ごめんなさい・・・」

とうとうしゃくりあげ始めたセイの腕を優しく解くと、ようやく向き直った男が
困ったように微笑んだ。

「私も・・・ひどい事を言ってすみませんでした」

セイが必死に首を振る。
総司の気持ちが理解できないはずはない。
身近な存在と思っている者が一人で悩んでいたなら、そしてそれを
隠し通そうとされたなら。
もしも自分だとて、きっとひどく傷つき苛立った事だろう。
それでも優しいこの男はセイの気持ちを思いやって全てを包み込み、
許してくれようとしているのだろう。

「・・・ごめんなさい」

セイはそれ以外の言葉が浮かばなかった。

「もういいですよ」

泣きじゃくる小さな身体を腕に収めて総司が囁いた。
震える背を柔らかく何度も撫でる。

「まぁ坊もすぐに回復するようですし、良かったですね」

耳元に落とされる声音の優しさにセイの涙がいっそう零れ落ちた。

「ごめんなさい・・・」

幾度も繰り返されるその言葉に、小さな溜息を再び落とした総司が
悪戯めいた笑みを浮かべる。

「ではお詫びに次の非番の日、今宮神社につきあってください。
 あそこってあぶり餅が有名なんですよね。今日、どれほど食べたかった事か!」

いつもと変わらぬその様子に、ようやくセイの頬に笑みが戻り力強く頷いた。
それを確認した総司が小さな手を引いて歩き出す。




月が中天に近づく頃、手を繋いで歩くふたつの影が
ほのかな月明かりの中に浮かんでいた。