異議あり!




「え? うそっ!」

総司に見張りをして貰い、久々にのんびりと湯船に浸かったセイの
押し殺した悲鳴が浴室に響いた。





「ねぇ、神谷さん?」

朝餉の席で総司が隣に座すセイの膳に視線を向けた。

「はい、何ですか?」

食後のお茶を啜っているセイの前には、ほとんど手をつけられたように
見えない料理が置かれたままだ。

「最近、あまり食べませんねぇ」

「そうですか?」

湯飲みを口元に充ててセイが首を傾げる。

「そうですよ。丸残りじゃないですか、これ。どこか具合でも悪いんですか?」

気遣わしげな総司の声音を聞いて、何でもない事のようにセイが笑った。

「実は・・・最近朝餉の支度を手伝う時にお腹が空いたのを我慢できなくて、
 お行儀が悪いんですけど味見を兼ねて色々つまみ食いしてしまうんですよね」

コトリと湯飲みを膳に置いて照れたように頭を掻いた。

「だからもうお腹が一杯で。よろしかったら先生召し上がりますか?」

澱みなく紡がれるその言葉に頷いてセイの食事まですっかり平らげた総司が、
大きな過ちを犯したのだと知るのは暫く後の事だった。





「神谷が倒れました!」

道場で稽古をしていた隊士が隊士部屋でくつろいでいた男の元に
駆け込んで来た。





「まったく何を考えているんですか、貴女は・・・」

呆れた色を乗せた総司の声にセイが布団の中で、つい、と横を向いた。

「ここ十日近く、ろくろく食べてなかったそうじゃないですか。賄い方で
 味見をしてたなんて嘘だったんでしょう? 聞いてきましたよ!」

「だって・・・」


あの日、風呂場でさらしがきつくなった事に気づき、太ったと思ったのだ。
屯所では毎日のように総司に付き合って甘味を食べ、
非番の日は共に甘味処巡りに出かけては薦められるままに
食べ過ぎていたのだから、太らないはずがないだろう。
剣技の未熟な自分にとって身の軽さだけが唯一の長所だというのに、
体が重くなれば必然的にそれが失せ、危険度が増す事は熟知している。
それはそのまま自分の命が危うくなる事でもあり、同時に総司を始めとする
隊の仲間に迷惑をかける事にも繋がるのだ。
それだけに太る事は許されない事だと理解していた。

だが総司と過ごす数少ない至福の時を手放す事も出来ない。
隊務の合間に甘味を頬張る男の幸せそうな顔や、甘味処への行き帰りに
たわいもない話をしながら歩く事、それらが自分の中で大きな潤いと
なっているのは確かなのだ。
それで様々に思案した結果、食事を抜いて鍛錬の時間を増やす
という方法を選んだ。


ぽつりぽつりとセイが話す事情を聞いて総司が大きな溜息を吐く。

「たとえそれでも食べずに動けば倒れるに決まってるじゃないですか!」

その叱責にセイが頬を膨らませた。

「だって身が重くなったら困るじゃないですか! 私には三木先生のような筋力も
 期待できないし、そうなったら隊士として充分な働きが望めなくなります!
 かといって私が甘味をご一緒しないと先生が寂しそうな顔をなさるでしょう?」

そんな顔を見たくなかったのだ、と呟く言葉に総司が苦笑する。

「確かにそうですけど、貴女が元気でいてくれないともっと寂しいんですよ。
 それに鍛錬だったら私が幾らでも付き合いますから。
 食べた分だけ動けば良いんです、私みたいにね」

「先生は異常ですっ!」

間髪入れずに返された反論に、あははは、と総司の笑い声が響いた。



「どうでもいいけどよ、そこの馬鹿者二人!」

セイが倒れたと呼びつけられたまま、その存在を半ば忘れられていた松本法眼が
呆れた視線を向けている。

「あ、ああ。す、すみません。お願いします!」

総司が慌てて松本に頭を下げた。
倒れた理由はわかったが、念のために診察して貰った方が良いだろう。
総司の意図を理解した松本が布団の上にセイを起き上がらせると
徐に前袷に手を掛けてそれを大きく押し開いた。

「きゃあっ!」

「な、何をっ!」

セイと総司の悲鳴が同時に上がる。

「何って診察に決まってるだろうが」

動揺の欠片も無い松本の言葉に慌てて総司が背中を向けた。
ぎゅうと固く閉じた瞼の裏にセイの胸元の真っ白なさらしが焼きついている。
耳元に心の臓が移動してきたようにドクリドクリと五月蝿い音が鳴り響き、
総司の体は固まったまま動かなくなった。

(し、しまった。私は部屋を出て行くべきだったのではないでしょうか・・・)

頭ではそう思っても一度固まってしまった体はそうそう動いてくれない。


「ま、松本先生っ!」

「動くんじゃねぇよ」

「どこを触ってるんですか〜!」

(ど、どこを触ってるんでしょう・・・)

「そ、そんな風に触ったらくすぐったいです〜」

(え? そんな風にって? どんな風に?)

「も、勘弁してくださいよ〜」

(気になる。ものすごく気になります!)

黙りこくった松本と対照的に笑いを含んだセイの声が聞こえて、
総司はそわそわと落ち着かない。
今にも振り向いて様子を確認したがる自分の体を必死に押さえていた、その時。


「何をするんですかっ!」

今までとは顕かに違うセイの悲鳴に総司が反射的に振り向いた。
そこには緩められたさらしを半ば引き下げて、そこから半分覗いた
セイの白い膨らみを鷲掴みにする男の姿があった。

「っっっっっ!! 法眼っ!」

咄嗟にその肩を引いてセイから離そうとする総司の手を松本が払う。

「診察だって言ってるだろうが。てめぇら、うるせぇんだよ」

冷たい視線を総司に向けながら松本がセイから手を離し、
着物を調えるように指示をする。
羞恥と驚きで真っ赤な顔をした娘が慌てて乱れた衣を直した。



動揺していた上司と部下が落ち着いた所を見計らって松本が静かに口を開いた。

「セイは太ってなんか無ぇ。むしろ痩せ過ぎだ。肩の薄さを見てみろ、
 少し太らねぇとそのうち刀の重さに筋肉や筋が耐えられなくなるぞ」

淡々と語るその言葉にセイが噛みついた。

「だって、さらしが!」

「阿呆! サラシがきつくなったのは太ったせいじゃ無ぇ。体の成長に伴って
 乳がデカくなっただけだ」

それを聞いた総司が赤面した。
確かに先程ちらりと覗いていた胸は、入隊した直後に不可抗力で見てしまった
時と違って柔らかな膨らみを増していたように思う。
けれどセイは蒼白になる。

「法眼! 胸って小さくできないんですか?」

「えっ? もったいないっ!」

反射的に返された総司の言葉にセイが白い目を向けた。

「・・・ああ、そうですか。先生は乳デカ女がお好きでしたよねっ!」

「いや、そうじゃなくて・・・」

考える前に飛び出してしまった自分の言葉にも焦ったが、向けられたセイの
冷たい視線に冷や汗が滲む。
目を泳がせる総司にセイが更に鋭い視線を投げかけた。

「でも私は武士なんです! ただでさえお馬っていう厄介なものがあるのに、
 こんな余計な負担まで増えたら溜まったもんじゃありませんよ! 
 それに女子だってばれる危険性が増すじゃないですか!」

ぐっと拳を握ったセイが松本に向き直った。


「法眼っ! いっそ切り取れませんか、これっ!」

「セイ・・・おめぇなぁ・・・」

呆れた松本の言葉に男の怒声が被った。

「何を馬鹿な事を言ってるんですかっ!」

「馬鹿なんかじゃありません!」

「馬鹿ですよ! それはいつの日か貴女の子供の為に必要な・・・」

「そんな“いつの日か”なんて、来ないからいいんです!」

総司の言葉を遮って、セイが布団をパシリと叩く。
けれど総司にしてもそんな暴挙を黙って見過ごす事など出来ない。
感情が激しく波立つのを抑える気にもなれずに言葉を続けた。

「判らないじゃないですか、そんな事! それに相手の人だって悲しみますよ、
 貴女が胸を切ってしまったら!」

「そんな相手なんていませんから、ご心配は無用です!」

「いないはずがないでしょう!」

「いませんよっ!」

「いるんですってば!」

「しつこいですねっ! いないものはいないんですっ!
 それにどうして沖田先生が私の胸の心配なんてするんですか?
 先生には関係無いじゃないですか!」

「関係ありますっ!」

「これは私の問題です! 胸を切ろうがどうしようが私の自由でしょう!」

「そんな大切な事を勝手に決めないでくださいっ!」

「だから先生には関係無いとっ!」

「関係あるったらあるんですっ! そんな事になったら私が悲しいんですっ!」

つるっと何やら衝撃の告白をしてしまった男が口元を押さえた。


「・・・やっぱり沖田先生は乳デカ女が好きなんですね」

けれどセイから戻ってきたのは全身から力が抜ける言葉で、
総司は深い深い溜息を吐いた。

「そういう事を言ってるんじゃないでしょう・・・」

「違うと仰るんですかっ?」

「そりゃ私だって男ですから、小さいよりは大きい方がいいかなぁ〜、
 とは思いますけどね・・・」

「だったら島原にでも行かれれば良いじゃないですか!
 たくさんいますよ、乳デカ女がっ!」

「あのねっ!」




ぎゃぁぎゃあと途切れない口論を聞きながら、笑いを抑えて松本が部屋を出る。
相変わらず不器用な野暮天同士だが、これが切欠となって
何やら進展が望めるかもしれない。
それを期待しながら屯所を後にした。



数日後、診察の礼にと手土産を持ち、ほんのり頬を染めたセイと総司が
松本の寓居を訪れた。

ふたりの間に何があったのか・・・それは二人だけが知っている。