闇をも貫き 〜五万打お礼フリー文〜
「いたかっ?」
「どこに消えたっ?」
頭上で響く荒々しい足音と怒声にセイが首をすくめる。
徐々に遠ざかるそれに安堵しながら、腕の中の体に注意を向けた。
「沖田先生?」
先程から幾度も呼びかけているが応えは無い。
腕の中の温もりを抱き締めたセイの体が不安に震えた。
非番の今日、いつものように甘味処へ出かけた帰り道で手配書にあった
浪士の姿を偶然見つけ、後をつけたのは当然の事。
古く朽ちかけた公家の別邸らしき廃墟へと入っていった男の後に続いて
その邸に足を踏み込んだが、予想以上に集まっていた男達の数を確認した
総司が静かにその場から離れようとした。
十人を越える浪士達の中にたった二人で飛び込むのは得策ではない。
総司の腕を持ってすれば全てを斬り捨てる事は不可能ではないだろうが、
それでは情報を引き出せない。
これだけの浪士が集うからには何らかの計画があるはずなのだ。
それを知るためにはせめて何人かを捕縛する必要がある。
そんな総司の思惑はすぐにセイに伝わる。
そっとその場を後にしようとした時、気配に鋭い浪士が存在に気づいた。
「何者だっ!」
声と同時に走り出した総司にセイも続いたが、バタバタと後を追って来る
浪士を避けようと邸の中を走り回るうち、突然足元が失せたのだ。
――― ドサッ
重い物が地に打ちつけられる音と共に男の呻きが一度響き、次の瞬間頭上で
何かが閉じる音が聞こえた。
「沖田先生?」
頭上の気配が遠ざかった事を確認したセイが再び総司に呼びかけるが
やはり何の反応も返ってこない。
閉ざされた場所には一切の光源は無く、その場を支配するのは真の闇だ。
信頼する男の温もりが傍らに無ければ、セイにしてもこれほど落ち着いては
いられなかった事だろう。
けれど不安もあった。
懐から手探りで火打石と懐紙を取り出し、どうにか小さな灯りを作り出す。
紙は僅かの間しか保たずに灰になってしまう。
何か火を移すものは無いかとあたりを見回したセイの目に、折り重なって
放り出されている木の板らしき残骸が映る。
慌てて近づいたそれは下になった部分はじっとり湿って使い物にならなかったが、
上の一部はどうにか使用に耐えるようだった。
苦労しながら何とか小さな灯火を確保したセイが、自分の声に応えない
男の身を案じ、急くような思いで振り返った。
「おき、っっっっっっ!」
叫びかけた声を必死に飲み込んだ。
まだ頭上の浪士達が去ったとは決まっていないのだから。
けれどセイの面は蒼白になっている。
ぐったりと横たわる誰よりも頼りになるはずの男の面は、セイとは対照的に
真っ赤に染まっているのだ。
セイが震える指を伸ばし、投げ出されたままの腕から脈を取る。
確かな脈動を伝えるそれと、安定した呼吸が大事ではない事をセイに伝えてくる。
深紅の雫のせいで額にべったりと張り付いた前髪を丁寧に剥がすと、
額の生え際付近に細く長い亀裂が見えた。
セイを庇って落ちる途中で、抜けた床板の縁か壁に打ちつけて
切れたのかもしれない。
(落ち着いて! 落ち着け、清三郎っ!)
必死に胸の中で自分を叱咤する。
池田屋で藤堂が負傷した時に自分も見たはずだ。
頭の怪我は出血の多さが即座に命の危険に繋がるわけではないと。
むしろ出血もせずに腫れあがる方が恐ろしいと南部も言っていたではないか。
そっと触れた総司の頭部には他に傷も腫れも感じ取れない。
(大丈夫。沖田先生は絶対に大丈夫!)
言い聞かせるように何度も繰り返しながら単の袖を裂き傷口にあて、
上から手拭いで押さえて止血する。
まずは止血。
そして無闇に揺らさず、早々に医師に診てもらう事。
南部に言われた事をひとつひとつ思い出す。
(医師・・・)
そのためには一刻も早くこの場所を脱出しなくてはいけない。
セイは厳しい視線で周囲を見回した。
三畳にも満たない広さのこの場所は、自分達が落ちてきた
細い穴の底に当たるらしい。
むき出しの地面も壁も土くれのままだが、平らに削られた壁が
かろうじてこの場所が何らかの目的を持って作られた事を示している。
以前どこかで聞いた話がセイの記憶に引っかかった。
未だ徳川の世が定まる前。
戦国と呼ばれた時代にはこの土地で幾度も戦乱が起こり、有名寺社や
公家の邸では抜け穴を掘って有事に備えていたのだと。
その後は安定した世の中になり、そんなものは無用の長物として
ほとんどが埋められてしまったと聞いたが、この朽ち果てた別邸までは
その手が回らなかったのかもしれない。
(だとしたら・・・)
セイはそっと灯火を持ち上げると壁に沿ってゆっくりと歩き出した。
小さく上がっている焔が時折ゆらゆらと揺れる。
その度にセイは足を止め、その揺れ具合を確認する。
――― フッ
突然焔が消えかかった。
咄嗟に手の平で覆いをしてそれを防ぎ、しばらくその場所でじっと立ち止まる。
――― ふぅっ
(ここだ!)
確かな風の流れが土壁の隙間から感じられ、セイの面に明るい色が浮かんだ。
ここが遠い時代の抜け穴だとしたなら、間違いなくどこかに外へと続く道が
作られているはずなのだ。
勿論それが埋められている事も考えられたが、現在自分達がいる場所が
手付かずである以上、おそらくそちらも忘れ去られたままだと一縷の希望を
持っていた所に風の知らせだ。
セイは腰から鞘ごと脇差を抜くと壁を掘り始めた。
追われる者が逃げる為に作ったとしたならば、表面上は堅固な土壁に
見えていたとしても、厚く作られているはずは無い。
――― がつっ、がつっ
数度脇差を叩きつけるとあっけない程の脆さで壁が崩れた。
けれどその向こうの光景にセイは息を飲んだ。
(狭い・・・)
入り口だけは人一人が立って入れる程度だが、その向こうは華奢なセイが
這って進むのが精一杯という広さでしかない。
抜け道として作られたなら、こんなに細く作るはずがないと思いながら
穴の中へと手を入れたセイの頬が強張った。
一面にごろりとした土くれが敷き詰められている状態は、穴が崩落して
埋まりつつあるという事を示している。
だからこんなに狭くなってしまったのだろう。
強く瞼を閉じてセイは息を整えた。
そして次に眼を開いた時には確かな覚悟をその面に浮かべている。
素早く総司の元に戻り、万が一、上に居る浪士達がこの場所に気づいて
覗き込んできたとしても、たやすく見つける事のできない死角へと
総司の体を引き摺っていく。
セイの小さな体では意識の無い男を運ぶ事は不可能だ。
ましてこの狭い穴を大きな総司が通るなどできるはずも無い。
総司はこの場に残し、自分が助けを呼んでこなくてはならない。
懐紙に簡単な事情を書きつけ自分の大刀に結びつける。
それを壁に凭れさせた総司の手に握らせて、自分の羽織をその身にかけた。
これでもしも自分が助けを連れてくる前に総司の意識が戻ったとしても
無用な心配はさせずに済むはずだ。
そして灯火を少し離れた場所に置く。
叶う事ならこの明りが尽きる前に戻って来られる事を願いながら。
「沖田先生。待っていてくださいね」
小さく男に向かって呟くとくるりと背中を向ける。
――― パンッ!
一度強く自分の両頬を叩いたセイが先に脇差を穴へと放り投げ、
真っ暗なその場所へと身体をねじ込んだ。
――― ぱらぱら
狭い抜け穴の中は緩い上りの傾斜が続き、時折上から土が降ってくる。
細いセイの体であっても腕を前に突き出した姿勢でしか進む事が出来なかった。
「くっ・・・狭いな・・・」
口にした所で意味の無い事だとわかっていても、声を出さなくては
不安に押し潰されそうになる。
前へ伸ばした肘で這うしか進む術が無いのだ。
闇の中で。
両手は進むため以外に使う事は出来ない。
だから灯りを持って来ることなど出来なかった。
けれど真の闇の中、今にも体がつかえてしまいそうな閉所を進む事は
これほど恐怖が増大するものなのかとセイは唇を噛んだ。
指先さえ見えない。
確かに時折空気の揺らぎは感じるが、それが自分が動いたためなのか
外から吹き込んでくるものなのかはっきりするはずもない。
「つっ・・・」
背中が穴の上に擦りつけられたらい。
一瞬前に進めなくなり改めて恐れを感じてしまう。
つかえている体を前に押し出そうと地に爪を立てようとした。
「っっっ!」
指の下で何かが動く感触を感じ、咄嗟に手の平を持ち上げる。
周囲がザワリと蠢いた気がして全身に鳥肌が立った。
虫か、何らかの生き物がこの場所を住処としているのかもしれない。
今も自分の体の下で押し潰されているのかもしれない。
それらが一気に自分に向かってきたところで、この状況では為す術など
何も無いのだ。
それだけではない。
狭い空間で天井と地面に挟まれた体は今も動かない。
こんな状況で前方の穴が崩落して埋まってしまったなら、もはや自分は
総司の元へ戻る事もできないではないか。
闇の中で進むも退くも出来ぬまま、この訳のわからない生き物達の
餌になるしかなくなるのだ。
背から胸へと圧迫感が伝わって、尚もセイの心を乱そうとする。
呼吸もままならなくなり、息を吸う事も出来なくなる。
増幅し続ける恐怖に耐え切れず、叫び声を上げようとした瞬間。
『・・・神谷さん』
耳元で聞き慣れた男の囁きが聞こえた気がした。
空耳だとわかっていても、セイにとっては鎮静剤となり、活力となる声音だ。
瞬く間に恐慌状態が醒め、同時に瞳に闇をも貫く苛烈な輝きが灯る。
――― がりっ!
再び地面に爪を立て、つかえていた体を前に引きずり出した。
そのままじりじりと腹這いで進んでゆく。
肘が壁に擦れて血が滲み、必死に地を蹴る爪先は既に草履が脱げ
足袋の先も破れている。
けれど。
風が呼んでいるのだ。
泥と汗に汚れた頬が、前方から流れてくる涼やかな風の感触を感じている。
こちらに来なさいと自分を導くあの武士の声音のような風を。
――― がりっ!
爪の隙間に小石が入ったのか、感じた鋭い痛みを意識の外に弾き出した。
周囲で波打つ生き物の気配ももはや気にはならない。
今は背後にいるはずの愛しい男を助けられるのは自分だけなのだ。
こんな場で気弱になっている暇はない。
少しでも、ほんの少しでも早く誰かを連れてこなければいけないのだから。
「沖田先生・・・沖田先生・・・」
無意識の行為なのだろう、セイの唇からは間断無く同じ言葉が紡がれ続ける。
どれほどの時間が経ったのか。
ふいにセイの目に小さな白い点が映った。
地上の、光だ。
――― ぽちゃん
微かな音を聞きつけて総司が目を開いた。
足首まで浸る水の中に立っている。
(あれ?)
今の自分の状況が理解できずに首を傾げた。
(確か私は甘味を食べていたはずで・・・)
誰と、なのかは勿論、その後の事も思い出せない。
――― ぽちゃん
再び音が響いた。
霧の中にいるように何もかもがあやふやな空間だというのに、
その音だけは酷く鮮明に響く。
(こんな事、以前もあったような・・・)
首を捻ったまま腕を組み周囲の気配を探ってみるが、自分以外の
何者の気配も感じられなかった。
――― ぽちゃん
ふと足元に向けた視線の先に小さな波紋が伝わってきた。
雫が落ちた場所から水輪が広がっているのだろう。
幾つも幾つも押し寄せてくるその漣が総司の中の何かに訴えかけている。
(・・・・・?)
――― ぽちゃん
雫の元へ向かおうと総司が一歩、足を踏み出した時。
『・・・沖田・・・せんせい・・・』
水面に映った忘れられるはずもない人の面は、涙に濡れていた。
「神谷さんっ!!」
叫びと同時に穏やかだった水面が理(ことわり)に逆らって天へ向かって降り始め、
総司の意識も共に押し流していった。
「・・・みや・・・さん・・・」
自分の声で覚醒が促されたらしく、総司がゆっくりと瞼を上げた。
目に映るのは見慣れた屯所の天井だ。
「・・・なぜ・・・ここに・・・?」
「ようやく気づいたか」
平板な声にそちらへ視線を向けると無表情な三番隊組長が座っていた。
その面には微かに安堵の色がある。
「あ、れ・・・? 確か、私は・・・甘味を食べていて・・・」
「アンタの頭の中はそれだけなのか」
掠れた声を遮るように深い溜息を落として斎藤が説明を始めた。
「アンタが甘味屋の帰路に浪士を発見して後をつける前に、屯所へと知らせを
寄越しただろう」
その言葉を聞いてようやく総司の中でその後の事が甦った。
思ったよりも多かった浪士達の人数にその場を脱出しようとしたのだ。
自分ひとりではなくセイも一緒である以上、安全策を選ぶつもりだった。
いずれは屯所からの応援が来る事は判っていたのだから、適当に浪士達を
引っぱり回して時間を稼ぐつもりだったものを思わぬ仕掛けに足元を掬われた。
穴に落ちていくセイに手を伸ばした時、開いた穴の縁でしたたかに
額を打ちつけたまでしか記憶に無い。
「神谷さんが?」
自分の左手が何か温かなものに包まれている事に今更ながら気づいた総司が
そこへ視線を向けた。
両手で総司の手を握り締めたセイが、頬に涙の跡を残したままで突っ伏している。
「ああ。必死に抜け穴を這って、外へ出てきた。ちょうど俺達が邸に踏み込もうと
している背後にな」
総司からの知らせを受けた土方が念のためにと三番隊を向かわせたのだ。
その場に辿り着くと中で何らかの騒ぎが起こっていた。
さては総司達が斬り合いを始めているのかと表と裏に隊士を分け、
いざ踏み込もうとした時に裏手に回っていた斎藤の背後の地面が崩れた。
そこから顔を出した真っ黒な物体に咄嗟に刃を突きつけた斎藤の視線の先では
セイが大きな目を見開き、次いで大声で泣き出した。
後で事情を聞けば安堵のためだったと知れたが、その時は実に焦ったものだ。
「まずは浪士達を捕縛してから神谷の案内でアンタを穴から引き上げたはいいが、
外傷はたいした事が無いというのに意識が戻らず医者も首を傾げていたんだ」
「私はどれくらい寝てました?」
「丸二日だ」
「はぁ・・・そうですか・・・」
ではさぞかし近藤や土方にも心配をさせたのだろう。
そして何よりこの人に・・・。
総司の視線の先に気づいて斎藤が苦笑した。
「いくら休めと言っても離れなくてな。そのくせ巡察には出ると言い張る。
アンタだったら何があろうと絶対に、仕事に支障をきたしたりは
しないはずだ、とな」
さすがは新選組の鬼神の秘蔵っ子と言うべきか・・・、斎藤が呆れ交じりの
声音で続けた。
「結局は局長命令でここでアンタの看護をさせる事になった訳だ」
「そう・・・ですか・・・」
のそのそと起き上がった総司が頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「いや。礼は神谷に言うんだな。俺は局長達にアンタが目覚めた事を報告してくる」
淡々と言葉を告げて斎藤が部屋を出て行った。
「はぁ・・・いつもいつも、私は・・・」
大きな溜息と共にがくりと項垂れた男の声には力が無い。
セイを守ろうと思っているのに、結局大切な場面で助けられるのは自分なのだ。
日常の細々とした部分でもセイの気遣いに包まれているのに、いざという時にも
守られていては男としての立場など無いではないか。
微かな記憶が残っている。
セイの悲鳴が聞こえたような気がして、重い瞼をどうにか押し開けた先には
暗い土の壁が見えていた。
それを認識したのも一瞬の事で、再び遠のく意識の中で
セイを呼んだ事だけは覚えている。
囁くように、小さな小さな声音でしかなかったけれど。
あの時、セイは自分を助けようと必死になっていたという事か。
「はぁ・・・」
再び大きな溜息が落ちる。
セイに握られた左手を引こうとしたが、強く握られた手は離れる気配も無かった。
それをじっと見つめる総司の眉根が寄せられる。
細い指先は皮が剥け血が黒く固まっていた。
いっそ剥がれていない事が不思議なほどにボロボロになった爪は、
途中までが白く変色している。
どれだけの力を込めてこの指先で地を掻いたというのか。
ふっくらと白い頬にも無数のかすり傷が出来ていた。
「女子の頬に、こんな傷をつけて・・・」
囁くような声音には沈痛な響きが混じる。
そっと触れた頬はいつもの滑らかさではなく、涙のせいと傷のせいで
総司の指先にざらりとした感触をもたらした。
もう一度、そろりと頬を撫でると、その動きに反応したように
セイの瞼がパチリと開いた。
「・・・・・・・・・・・・」
自分を覗き込む男の姿を凝視している大きな瞳は、
今にも転がり落ちてしまいそうだ。
「・・・せ・・・ん、せい?」
「おはようございます、神谷さん」
普段と変わる様子の無い総司の返答を聞いたセイが音を立てて起き上がった。
「頭が痛いとか無いですか? 気持ち悪いとかは? 眩暈とか、あ、記憶は
しっかりしてます? 私の事はわかってるみたいですけど、他の事は?
ここが何処だかわかります?」
返答の間さえ与えようとしないセイの問いかけに言葉を失っていた総司だったが、
ペタペタと自分の頭や体に触れて異常を探そうとするその様子に笑い出した。
「あ、あははっ! あははははっ! 大丈夫ですよ。どこも何ともありませんっ」
笑いの納まらないその様子にセイの瞳がみるみる涙を湛え始めた。
「そっ、そんなっ、笑わなくてもっ! どんなに心配したか、先生はわかってない!」
叫びかけた言葉の途中で華奢な体を抱きこんだ男が小さく囁いた。
「心配かけて、すみません。でも本当に大丈夫ですから」
ひくりひくりとしゃくり上げる音が着物越しの胸に響く。
「私の、せいです。私を抱えていたから先生は受身も取れなくてっ!
私なんかを庇ったから!」
「では、落ちた時には貴女は怪我なんてしなかったんですか?」
「はい。どこも何とも・・・全然平気でした」
「だったら良かった・・・」
小さな溜息がセイの耳朶をくすぐった。
少なくともあの闇深い穴の底にセイの体が叩きつけられる事だけは防げたのだ、
という総司の安堵の溜息だった。
もっともその後自分が意識を無くしたせいで、その身のあちこちに
傷を作らせた事は確かだけれど。
「怪我を・・・させてしまいましたね・・・」
セイの小さな手を掴み上げて総司が呟いた。
傷だらけの指先に注がれる視線に気づき、セイが首を振った。
「先生がご無事なら、こんな事は何でもありません。すぐに治ります」
「頬にも・・・」
「平気ですったら! 名誉の負傷だって原田先生も笑ってました」
「でも・・・」
続く総司の言葉を遮るようにセイが声を上げた。
「いいんですっ! 先生に何事も無ければ! それだけでっ!」
声と同時にぎゅっと胸元を握り締められて総司は言葉を飲み込んだ。
震えているセイの体から言葉よりも雄弁に自分の意識が戻らぬ間の
不安と恐怖が伝わってきたからだ。
きっとそれは自分がこの人の立場でも同じ事だったのだろう。
そうであれば今、感謝の気持ちを込めて伝えるべき言葉は決まっている。
「神谷さん、ありがとう。でもね、心配しないでも良いんですよ。
私は貴女を置いてどこにも行ったりはしませんから」
「・・・本当ですか?」
胸の中からくぐもった声が聞こえた。
「ええ、絶対に。貴女より先にいったりしません」
その言葉に、ようやく顔を上げたセイが輝くような笑顔を見せた。
――― 貴女より先にいったりしない
それは願いであり誓い。
未来に絶対は無いけれど、それでも唯一つのセイの願いであり
総司の誓いの言霊だった。
闇をも駆逐した鋭い輝きが、ようやく穏やかな光を放った。