悪縁退散



「お?」

珍しく一人で呑みに出た中村五郎の目に、思いもよらない僥倖が映りこんだ。
焦がれて止まない隊士の姿が辻の角から現れたのだ。

「神谷っ!」

弾むような声音と共に走り寄った中村が、反射的に眉間に皺を寄せた
セイの腕を握り締める。

「いいところで会ったな。これから呑みに行こうと思ってたんだ。
 一緒に行こうぜ?」

「いや、私は約束があるので・・・」

あからさまに迷惑そうなその言葉も中村の耳には届かないらしく、
掴んだ腕を離す気配が無い。

「いいじゃんかよ。俺が奢ってやるからさ」

セイの約束の相手が誰なのかなど知らないが、あの昼行灯に遠慮して思いを
押さえつけている一番隊の隊士達なら自分が負けるはずもないと内心で嗤う。

「良い店を知ってるんだ。美味い酒と食い物を出す料理屋なんだぜ。
 雰囲気が良くて静かに呑める店なだけあってちょっとばかり値は張るが、
 何、大丈夫だ。給金も出たばかりだし俺に任せておけよ!
 たまには誰かに驕りたい気分だったんだ。遠慮なんてしないでいいぜ!」

ここぞとばかりに捲くし立てる言葉の端々に無意識に下心が透けている事に
気づかないのは若さ故の事か、千載一遇の機会を手にしている興奮故か。
ぐいぐいと握り締めた細い腕を引っ張って歩き出そうとする足取りも、
地に着いていないほど軽やかに見えた。
けれど中村の高揚は一瞬の後に粉砕される事となる。


「ほぅ・・・では馳走になろうか」

「いやぁ、悪いですね。中村さん」

セイが出てきた辻から現れた男達が小柄な隊士を挟むように背後に立った。

「・・・・・・さ、斎藤先生と沖田先生!」

隊の中でも一二を争う剣豪たちだ。
しかも揃ってセイを溺愛している。

慌ててセイの腕を離した中村だったが、時すでに遅し。

「では、行きましょうかね」

「ああ。それで、アンタの目当ての店はどこだ?」

楽しそうな総司と無表情だが逃げを許す気配の無い斎藤の視線に射抜かれた
若輩者は、心の中で滂沱の涙を流しながら店へと皆を案内する事になった。
その姿は刑場に曳かれてゆく罪人のようにも見えたという。





「ふむ、なるほど。言うだけあって良い店だな」

斎藤が通された小座敷で小さく頷いた。

『松露亭』
祇園の外れ、東山の一角に位置する石畳の路地の先にその店は佇んでいた。
重厚感や高級感は大藩の重役達の接待に使われる一力亭には及ばないものの、
典雅な風情と隠れ家めいた慎ましさが程よく交じり合い、しっとりと空間を満たす
空気には都女に通じる落ち着いた優美さが漂っている。

「どうしてお前なんかが、こんな店を知ってるんだ?」

「い、いや・・・。伊東先生が・・・。ええと・・・」

相変わらず眉間に皺を寄せたままのセイに問われ、中村がもごもごと口ごもる。
その様子から斎藤はおおよその事情を察した。
中村との秘密めいた逢瀬の場として伊東はこの店を使ったのだろう。
だからこそその事実に触れずに説明する事が出来ない男は、
はっきりとした答えを返せないという訳だ。

「まぁ、いいじゃないか。まずは一献」

くっ、と喉の奥で笑いを殺した斎藤が総司に酒を注ぎ、続いてセイ、
そして中村の盃に酒を満たした。
平隊士のふたりは幹部である斎藤に酒を注がれる事に恐縮しきりだったが、
中村の奢りに対する礼の気持ちだと言われれば断る事も出来ない。
薦められるままに盃を重ねていった。




暮れ始めた日輪から放たれる淡い明かりの中に、密やかな音曲が漂ってきた。

「あれ? 琴じゃないですか?」

総司が意外そうに耳を澄ませた。
酒席と言えば鼓か三味線の賑やかな音に慣れきった耳には不思議に感じたのだろう。
琴を追うように聞こえてきた笛の音に感心したように溜息を吐く。

「さすがは中村さんお薦めの店ですね。都の雅さを感じさせてくれます」

「なぁ〜にをいってるんですかぁ」

総司の言葉に被って大きな声が響いた。

「コイツが雅ですってぇ? そんな事言ったら、鼻が茶を沸かしますって!」

「鼻じゃない。臍だ・・・」

あっと言う間に酔っ払ったセイの言葉をさりげなく斎藤が訂正する。

「きゃははは! 臍っ! 臍踊りっ!」

「腹踊りだ・・・」

「兄上の腹踊りっ! 腹〜〜〜!」

「腹踊りは原田さんだ。今度教わっておこう。だから暴れるな、神谷・・・」


――― ぶぅぅぅっっ!

こらえきれずに噴き出した総司が畳を叩きながら笑い転げる。

「か、勘弁してくださいっ! 面白すぎますよ、斎藤さんっ!」

あはははっ、と響く総司の笑い声を聞きながら中村は唖然としている。
無表情なままの斎藤は、何が冗談で何が本気なのか判別できない。
まして中村には斎藤が冗談を言うような男だとは思えなかったのだから。



「おい・・・」

斎藤の声に中村が立ち上がり廊下に出て店の者を呼ぶと、いくらも経たぬうちに
部屋の外に人の気配がした。

「へぇ、お待っとぉさんどす」

静やかに座敷に入ってきた仲居が畳に膝をつく前に、抑揚の無い声がかけられる。

「酒を・・・五本、頼もうか」

「へぇ・・・」

四人の武士がいればその程度の酒量は普通の事だと年嵩の仲居が頷いた。

「あ、私達はお酒よりも何か甘い物はありませんかね?」

片手を若い武士に預けて何やら指遊びをしているらしい男が陽気に聞いて来る。
仲居が申し訳なさそうに首を振った。

「うちは料理屋よって、甘味の用意は・・・。あ・・・」

言葉の途中で何事かを思い出したように小さく頷いた。

「明日の茶会の為に用意した生菓子が届いたはずどす。それでよろしおしたら」

「斎藤さんは?」

仲居の言葉を最後まで聞かずに総司が嬉しげに斎藤に問いかけた。

「いらんっ!」

にべもない返事を気にもせず、中村へ視線を向ける。

「中村さんは?」

ぶんぶんと中村が首を振った。
酒席で甘味など考えるのも嫌だという態度は斎藤と共通している。

「ふぅん・・・美味しいでしょうに、ねぇ。でも神谷さんは食べますよね?」

総司の左手を相手に指相撲をしているらしいセイがコックリと頷いた。
それに微笑み返すと仲居に向かって口を開く。

「では私と神谷さんに十個ずつ、合計二十個をお願いしますね」

斎藤の手から猪口が転がり落ち、中村があんぐりと口を開いている。
セイは相変わらず総司の指に夢中だ。
両手を使っても総司の左手一本に勝てないのが悔しいらしい。

「に、二十個どすか?」

「ええ。後で追加するかもしれませんけど・・・っていうか、絶対にしますけど
 取りあえずはそれだけで」

仲居の視線が忙しなく動き回った。
翌日の茶席はそれなりに格のある人間が招かれている。
当然菓子も最上級のものを揃えている。
それを二十個も無造作に食べられてはたまらない。

中村にしても同様の事を考えていた。
むしろ自分が奢ると言った手前、心境はもっと切実でもある。
茶席に供される菓子の値段など知りもしないが、自分が知るものとは
遥かに隔たりがある事など考えるまでもないだろう。
そんなものをそこらの団子並みに食べられてはたまらない。

「お、沖田先生! 先生のお好きな大福や薯蕷饅頭を俺が見繕って買ってきます。
 色々と取り揃えた方が楽しいでしょう?」

必死に仲居に目配せしながら中村の腰が浮き上がっている。
今にも店の外へと走り出していきそうだ。

「う〜〜〜ん、でもこんな立派なお店の茶会用のお菓子というのも・・・」

「すんまへん。とても二十個なんてあらしまへんよって、堪忍しとくれやす」

中村の目配せに応えるように仲居が頭を下げた。
その言葉も嘘ではない。
茶会に招かれる人数など三.四人だ。
菓子にしても念の為にと倍程度揃えているに過ぎない。
最初から二十個など無理だったのだから。

「ふぅ・・・。仕方ありませんねぇ、では中村さん買ってきてください。
 ただし、二十個ではなく四十個お願いしますねv」

「よ、四十個ですかっ!!」

中村が目を剥いた。
けれど総司は当然とばかりに頷いている。

「ええ、だって何度も買いに行って貰うのも申し訳無いですしね。
 だったら最初からいつもの数をお願いした方が良いでしょう?
 ねぇ、神谷さんv」

フワリと目の前の月代を撫でると、総司の手を握ったままのセイがこくりと頷いた。
いつもの数・・・中村と仲居は固まったままになり、斎藤は顔を背けている。

「ほ、ほなただいまお酒を・・・」

「お、俺も菓子を買ってきますっ!」

中村よりも一瞬早く立ち直った仲居を追って、青ざめた若者が部屋を飛び出して行った。






「せんせぇ〜、たべすぎですぅ〜」

酔いのせいで自分の体を支える事の出来なくなっているセイが、並んで座った
総司の肩に凭れながら目の前の折敷に積まれた菓子を指差した。
二つの折敷に二十個ずつ綺麗に並べられていたはずの菓子は、
すでに半分に減っている。

「だって美味しいんですよ? このカステイラのような蒸し菓子なんて
 口の中でほろほろと溶けてしまうんですから」

「で〜も〜」

「はい、あ〜ん」

小さく千切った菓子を目の前に出されたセイが反射的に口を開けた。

「お、いしい・・・」

「ほらね?」

満面の笑みを浮かべてもう一口と総司がセイの口内に、またしても菓子を押し込んだ。

「おい、中村」

相変わらず表情を変えない斎藤が空になった酒器を中村に指し示す。
総司とセイの様子を唖然と見つめていた男がハッと我に返り、店の者を呼びつける。

「あ〜に〜う〜え〜も〜、のみすぎ〜〜〜」

今度は総司と反対の隣に座っている斎藤の肩に凭れかかったセイが、
斎藤の手の中の猪口を目を細めて見つめる。

「アンタほどは酔ってないさ」

「わたしは〜、よってません〜!」

「嘘ですよ、神谷さんってば酔っ払いなんですから〜」

「おきたせんせいまで〜、ひどいです〜」

斎藤の肩口にコシコシと額を擦りつけるセイの姿は、まるで子猫が親猫に
甘えつくように可愛らしい。
すっかり輪の外に置かれた中村の目が潤んでくる。
最初は幹部二人と相対するように自分の隣に座っていたセイが、気づけば
男達の間に席を移して時には腕を絡め、時には膝に寄りかかって甘えている。
自分には終ぞ向けられることの無い気を許しきった表情で、
他の男に微笑みかけてはじゃれついているのだ。
そんな姿を延々と見せつけられるのは拷問にも等しかった。
居たたまれなさを紛らわすように乱暴に酒を呷るしかない。


折敷に乗った菓子の残りが二つ三つになった頃、酔いが回りきったのか
セイがこくりこくりと船を漕ぎ始めた。

「うにゃ〜〜〜・・・」

「もう、しょうがないですね、神谷さんってば。
 こんな所で寝たら風邪を引いちゃいますよ?」

苦笑を浮かべながら総司がセイを自分の膝に抱き上げた。
横抱きにされたセイの体に斎藤が自らの羽織を脱いでかけてやる。
その仕草は自然に見えて、今日だけが特別なのではなく、こんな事は
常の事なのだと突きつけられた中村は唇を噛む。

「ぷくぷくのほっぺvvv」

総司がツンツンとセイの頬を突付くと、眠ったままで子供のように嫌々と首を振る。

「食いつくなよ?」

斎藤の言葉に顔を上げた総司が慌てて折敷に残った菓子を口に放り込んだ。

「本気で齧るつもりだったのか・・・」

呆れた声に苦笑を返しながらモグモグと口を動かしている。

「んくっ。だって美味しそうに見えませんか? このほっぺv」

「美味いわけがなかろう」

「え〜? そうかなぁ・・・柔らかいし、何だか甘い香りもするし、
 絶対に美味しいと思うんですけどねぇ」

しきりに首を捻っている総司から視線をはずした斎藤が中村を見た。

「中村・・・」

その手にはまたしても空の酒器が下げられている。


延々と総司とセイのいちゃいちゃを見せ付けられていた中村は、
すでに限界を超えていた。
せっかく恋しい相手と僅かなりとも心満ちる時間を過ごせるかと思っていたのに。
際限なく菓子を食べ続ける黒ヒラメと、すでに二升は飲んでいるだろうに
顔色一つ変えず、まだ飲み続けようという化け物の相手をこれ以上
できるはずが無いではないか。

何よりこのままでは一月分の自分の棒給が二人の腹の中に消えてしまう!

「すみませんでしたっ! もう二度と神谷には近づきませんから、
 ここまでで勘弁してくださいっ!」

泣きながら店を飛び出す中村の後姿に、男達が口端だけで嘲笑った。




「そろそろ芝居はいいんじゃないか?」

斎藤の指摘に総司がクスクスと笑い、抱き締めていたセイの月代を撫でた。

「やっぱりバレてました?」

「当然だろう」

にこやかに笑っていようとも、時折中村に向けて放たれる苛立ちを乗せた
強い視線に気づかないはずがない。
常からセイには甘い男だが、今日の態度は過剰な程にこの弟分との睦まじさを
見せつけていた。
中村でなくともいたたまれなかった事だろう。

「だって中村さん、しつこいじゃないですか。神谷さんが嫌がっているのに」

酔ったセイが無防備に投げ出した手に、幾度も触れようとしていたのだ。
もちろんその度に総司と斎藤がセイの注意を自分達に向けては、
中村の野望を寸前で払い除けていたのだが。

「ん・・・。・・・きた・・・んせ・・・」

「はいはい。ここにいますよ」

すりっ、と総司の胸元に頬を擦りつけるセイの仕草に斎藤が苦笑する。

「いつもの事ながら、平和なものだ」

「いいじゃないですか。この人が平和だって事は、皆が平和だという事なんですから」

「・・・・・・そうだな」

きゅっとセイの華奢な体を抱き締めた総司が、滲むような笑みを浮かべた。





「ところで中村さん、ここの支払いはしていったんですかね」

「さあな。してなければ後で伊東先生に請求書を回せば良いだけだ」

「そうですね。誰と行ったのかって問い詰められる中村さんは大変でしょうけど」

――― ふふっ

可愛い弟分に近づく虫には、欠片ほどの慈悲心も持たない男達だった。




              背景 : 小山奈鳩様