一番と言って




総司は拗ねていた。
これ以上ないという程、拗ねていた。


大大大好きな近藤が呼んでも、大大好きな斎藤に酒を注がれても、
最近大好きな人として認識するようになった松本法眼に菓子を勧められても、
絶対に振り向くものか、と頑なに皆に背を向け、ひとり壁と対峙していた。


「総司、いい加減松本先生にも失礼だろう」

溜息交じりの近藤の声にも振り向かず、ブンブンと音がする程首を振る。


(だってだって神谷さんが悪いんですっ)

取り付く島無しという総司の様子に困った顔の三人に揃って視線を投げられたセイは、
心の中で深く嘆息しつつ視線を泳がせた。





たまには美味い物でも食おうと近藤を誘い、ついでに如心遷の
治療をしているうちに妙に気に入った(と表向き語った)神谷と
その上司を連れて来るように言ったのは松本法眼。
大トラ神谷の世話を総司ひとりにさせるのは不安だと、セイが兄と慕う斎藤を
護衛を兼ねてつけようと言い出したのは土方。

セイの話によく出てくる斎藤に興味を持っていた松本が同行を快諾し、
ここ祇園の茶屋で五人揃っての酒宴となった。
そこまでは何も問題ない。
それぞれが多少の秘密を抱えたままではあったが、互いに好意を持っているもの同士、
気持ちの良いひと時を過ごしていた。

・・・はずだったのだが・・・


ほど良く酒も回りだし、セイがほんのり頬を染めた小トラになりかけた頃、
松本がふと総司に尋ねた。
お前は子供の頃から近藤が大好きだったらしいな、と。
それに機嫌良く総司が返した事が始まりだった。

「えぇ、もちろん近藤先生は大大大好きですし、土方さんも大大好きなんです。
 斎藤さんも永倉さんも原田さんも井上さんだって大好きですし、神谷さんも
 もちろん大好きです。もう私ってば大好きな人達の傍にいられて、
 すっごく幸せ者ですよねぇ」

「ははっ、そりゃ確かに幸せ者だな」

ほくほくと幸せそうな総司の言葉に松本が笑った。


「ねぇ、神谷さん? 神谷さんの大好きな人って誰です?」

ほんの些細な好奇心だったのだ。
自分は大好きな人達の話をした。
そしたら何となくセイの大好きな人というのが気になった。
だから聞いてみたいと思った。

そんな総司の問いに、セイが仄かに頬を染めて口を開いた。

「私の大好きな人は・・・」



セイの言葉の途中から総司の表情が強張り出し、終いには壁を向いてしまった。
多少なりとも酔っているセイや総司の微妙な感情を知らない近藤には
理解できない事だったが、斎藤と松本にはこの駄々っ子じみた
仕草の理由が手に取るように見えていた。
けれどどちらも助け舟を出す気は早々に投げ捨てた。
野暮天同士のじゃれ合いなど放って置けば良いとばかりに傍観者に徹している。


「総司・・・お前は帰りなさい」

拗ねたままでどうにも態度を変えようとしない総司に呆れた近藤が松本を気遣い、
とうとう匙を投げた。
幼少の頃から常に自分の味方でいてくれた敬愛する男の言葉に、
傷ついた瞳で総司が振り返る。
そこでは斎藤は勿論、セイまでもが呆れたように自分を見ている。
松本の面白い玩具を観察するような視線が癇に障って総司は茶屋を飛び出した。






それでもひとりぽっちで屯所に帰る事などできない駄々っ子は、
店の近くの河原の土手に座り込んでいた。
ぷちりぷちりと手元の草を千切っては捨てる。
まるで童がぐずっているようではないかと自覚してても、
この感情を沈める術が見つからない。

「・・・私だって落ち込む事はあるんですよぅ・・・」

聞く者が誰も居ないと判っていても、呟かずにはいられない。

近藤先生も土方さんも斎藤さんだって大好きだけれど、
神谷さんは少ぅし違う意味で大大大好きなのに・・・。
あの子の大好きな人に自分が入っていないなんて思わなかった。

あの小さな唇から自分以外の男達の名前が零れ落ちるたびに
胸がちくちくと痛くなったのだ。
それでも必ず私の名前も告げてくれると思ったのに。


「・・・・・・神谷さんの意地悪・・・・・・」

ポツリと言葉が漏れる。
それは少しひんやりとした河原の風に吹き散らされていく。

「・・・・・・神谷さんのいけず・・・・・・」

「・・・・・・神谷さんのいじめっ子・・・・・・」

「・・・・・・神谷さんの鬼婆ぁ・・・・・・」

思い浮かぶ限りの言葉に乗せて苛立ちを解き放とうとするが、
それは唇から零れた瞬間に自分でも制御できない寂しさに変わる。
徐々に視線が下がり、顔が俯いてゆく。

「・・・・・・神谷さんなんて・・・・・・」

「私が、なんですか?」

ふいに背後から聞こえた声に総司の肩が僅かに震えたが、そちらを向こうとはしない。

「・・・・・・神谷さんの意地悪・・・・・・」

小さな小さな声ではあれど、セイの耳に確かに届いた。
「大好きな人は?」と問われて真っ先に上げたい男が誰であったかなど、
松本達には判り過ぎるほど判っていた事だろう。
けれど肝心の相手はそれを理解せず、親に厭われた子供のように背を丸めている。


――― ふう・・・

セイの落とした微かな溜息に総司の背中がピクリと強張った。
それを視界に入れたセイが苦笑交じりに語りかけた。

「刃は柄の好き嫌いを言いますか?」

優しい重さが総司の右肩に乗った。

「裏地は表地を大好きだと言いますか?」

触れた手の平から温もりが伝わってくる。

「従うべき者の一部であるものが、その対象を好き嫌いなどの言葉にするはずも
 ありません。そんな事はできません。そうは思われませんか?」

総司の耳朶を優しい声音が通り過ぎてゆく。

己は総司の一部なのだから、好き嫌い以前の問題なのだと言うのだ、この子は。
刃と柄の如く、常に一体であるという。
それは全てを超越した絶対の表現。
自分が求めていた以上の想いの伝達。

男の頬が、耳が、首筋が紅色に染まってゆく。
それを至近で眼にしたセイも同様に頬を染め、照れくさそうに言葉を続けた。

「だって沖田先生が仰ったんですよ? 声の聞こえる場所に
 いつもついていなさいって。だったら配下の私は先生の一部であるぐらいに、
 いつもお傍にいるしかないじゃないですか」

「私が・・・組長が言ったから、命令に従うという事ですか?」

それでも先程落ち込んでいた名残があるのか、総司が不安そうに問いかけた。

「そんなはずがありますか!」

きっぱりとしたセイの声が河原に響く。
次の瞬間、再び呆れたように溜息を吐いたセイが総司の手を引いて立たせると、
その背後に回ってピタリと背をつけた。

「こうして。先生の背を守るのが私の役目です。命令などではなく、私自身が
 誓った誠です。私は何があろうと、この場所を退く事などありません。
 私がこの場を退く時は、先生の盾となって命を散らせた時だけです。
 この誓い、・・・まだお疑いになりますか?」

僅かに触れる背中を通してセイの声音が凛と響く。
きっと同じように涼やかな瞳で前を見据えているのだろう。
そして背から伝わる生の息吹。
どんな状況であろうとも、この位置にいる限り、常に確かめられるこの子の存在。

胸に凝っていた寂しさが、跡形も無く溶け消えていく。


「いつでも返事の聞こえる距離にいてくれるんですよね・・・」

「はいっ!」

セイの遅滞無い返答に総司の頬が綻ぶ。

「神谷さん」

「はい」

「神谷さん」

「はい」

「神谷さん」

「は・・・」

「大好きですよ」

一瞬背に触れているセイの身体が震えたのが総司に伝わった。
けれどすぐさま返された言葉は。

「・・・私も、先生が大好きです」


背を通して確かな言葉と振動が伝わってくる。
自分の内に染み込んでいくその言葉に、総司の面が幸せそうに溶け崩れる。
“大好き”なんて言葉にしないと言っていた少女が、それを言葉にしてくれた。
胸の中に湧き出す激しい感情を抑える事ができない男が、くるりと振り返り
セイの華奢な体を背中から強く抱き締めた。

「うっ、えっ? うぇっ? な、なな、何をっ!」

慌てたような声を上げながら総司の手を振り払おうとする可愛い人の耳元で小さく囁く。

「だって前から抱き締めたら、貴女逃げてしまうでしょう?」

「そ、それはっ・・・」

真っ赤な耳がその言葉を肯定している。

「あんなに私を寂しい気持ちにさせた罰です。少しだけ、こうしていてください。
 その後で松本法眼と近藤先生の所へ戻って、一緒に謝ってくださいね?」

「な、どうして私までっ!」

「組長の咎は部下の咎です〜。貴女も同罪なんです〜」

先程までの拗ねきった風情はどこにも残っていない。
朗らかで楽しげな声がセイの耳元を通り抜けていく。
何度目になるのか判らない溜息を零すと同時に体の力を抜いたセイが、
しょうがないなぁ・・・と、自分の腹の前で強く組まれた腕を軽く抓った。

「いたっ!」

「一緒にお詫びして差し上げます。代わりに・・・」

「次の非番の日には甘味をご馳走しますからっ!」

子供のように瞳を輝かせて総司が答えた。

「よしっ、そうと決まればさっさとお詫びして、今日は松本法眼に
 うんと美味しい物をご馳走になりましょう!」

「きゃあっ!!」

シダバタと暴れるセイを子供抱きに抱え上げると総司が店に向かって走り出す。

「や、やめてください! 下ろしてぇぇぇ!!」

セイの慌てた声が河原の瀬音と重なって響く。




“一番大好き”

いつか貴女からこの言葉を受け取る、ただ一人になりたい・・・。

その願いは、いまだ無自覚のまま。
けれど確かに青年の心の中で根を張り、成長を始めていた。





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