もう少しだけ
するりと小さな影が京町奉行所の裏から滑り出た。
闇に紛れる様に小走りでその場を離れる影に気づかれぬ距離を開け
追いかける人影がふたつ。
さらにそこから暫く後方にもうひとつの影がついている。
この奇妙な光景はすでに三日前から続いていた。
「神谷さんは、どこにいるんです?」
苛立った声音が副長室に響く。
セイの姿が屯所から消えたのは五日前の事で、それ以来この遣り取りは
幾度と無く繰り返されていた。
以前の寺田屋内偵の時に、この男が愛弟子としている小柄な隊士に関して
異様に神経質になる事は理解した。
土方も出来る事ならセイを総司から離して使うような事は避けたかったが、
仕事上必要とあれば躊躇するはずもない。
そして予想通り、この男は日に幾度も自分の元に現れてはセイの居場所を
聞き出そうとするのだ。
土方にしてももはや限界と言える程の苛立ちが募っていた。
「何度も言わせるんじゃねぇっ!! 神谷は隊務だ、仕事だ!!
一々内容を言えねぇ事ぐらい、判っているだろう!!」
「それでもあの人は私の部下なんです。上司である私が何も知らないで
良いとも思えません!!」
「隊士を使う権限は俺にある。お前に一々報告する義務はねぇんだっ!!」
「あの未熟な人が、ひとりで仕事をするなんて無茶だと思わないんですか?」
また寺田屋の時と同じ言い合いかと土方はうんざりしてきた。
衆道疑惑は晴れたものの、相変わらず総司がセイを抱え込むように
過保護に扱う事は変わっていない。
「総司」
我慢も限界という体で土方が総司を怒鳴りつけようとしたその時、
間合いを計っていたかのように襖が開き近藤が入ってきた。
呼びかけた声音そのままで、この男にしては珍しく厳しい表情を浮かべている。
「お前は神谷君をそんなに無力だと思っているのか?」
「近藤先生・・・」
土方に対するのと違い、近藤に向かっては総司も牙を向けることができない。
「お前は何年神谷君を育ててきたんだ? そんなに信用できない鍛え方しか
してこなかったのか?」
近藤の言葉は総司の過保護を諌めるというよりも、総司の一番隊組長として、
指導者としての能力を問うていた。
「私も歳もお前をそんな男に育てた覚えは無いぞ。自分が育てた部下を
信用できないなど、神谷君にも私達にも礼を欠くと思わないか?」
「で・・・でも、まだあの人は子供で・・・」
上目遣いになりながらも必死に言い募ろうとする姿は、まるで幼子が父親に
精一杯自己主張するようだ。
「彼は確かに始めは子供だった。けれど子供の時分からお前がひとつひとつ
教え諭してきたはずだ。そのあたりの武士より余程に心も剣の腕も上だろう。
そんな事はお前が一番判っているのではないのか?」
近藤のセイに対する信頼が込められた言葉に、総司も内心とても嬉しい
思いを覚えるが、そうであっても不安は消えない。
まだ何かを口にしようとする総司の機先を制するように近藤が言葉を続けた。
「今回の隊務に関しては、私が許可を出した事だ。これ以上、歳を困らせるな。
お前が動けば神谷君の仕事に支障が出かねないんだからな」
総司はぐっと唇を噛み締める。
近藤と土方が口にする以上、確かに自分がこれ以上何を言おうと
セイの仕事は予定通りに進められるのだろう。
けれどこのまま自分が何も知らずにいる事は耐えられそうに無い。
「わかりました。私はけして神谷さんの仕事に手出しも近づきもしません。
ですから・・どんな仕事なのか、それだけ教えてください」
必死さを隠しもしないその様子に近藤が大きな溜息を吐き出し、
土方に向かって頷いた。
なるべくなら聞かせたくなかった事を、とうとう口にするはめになった土方は
小さく顔を振るとようやく口を開いた。
「最近浪士達の動きが水面下で激しくなっているらしいのは気づいているな?」
総司が小さく頷く。
以前のように押し借りをしたり乱暴を働くような事や、表立って新選組を始めとする
幕府側の人間に歯向かう行動はなりを潜めている。
けれどその分、水面下で何かが計画されているという気配が確かにするのだ。
まるで池田屋騒動の直前のような不気味な緊張感が、自分達にはピリピリと
肌を通して伝わってくる。
だからなのかもしれない。
これほどまでにセイの行方が気になってしまうのは。
あの怖いもの知らずで無鉄砲な弟分は、己の身を省みず一直線に
危険へ向かって飛び込んでしまうだろうから。
自分が傍で引き止めなくては、そのまま深い黄泉路へと走りこみかねないのだ。
「山崎が監察を動員して探っても尻尾を出さない用心深い相手だ。
尻尾を出さないなら、出させるしかねぇ。エサに食いつかせる」
「餌って・・・」
総司が土方の面を凝視する。
「どんなに用心深い奴らでも、集団になれば一人や二人は必ず跳ね返りがいるもんだ。
自分達をコソコソと嗅ぎ回る奴がいるとなれば、消そうと動く馬鹿が出てくる」
確かにそうだろうと総司も思う。
どれほど上が押さえようとしても自分の信念という名の元に動く者は必ず出る。
元々が幕府という体制に逆らって集う者達なのだから、個々の動きを
制御する事は尚更難しいだろう。
「奉行所の密偵の風情でうろつけば、必ず奴らは気づく。けれど屈強な男では
向こうも警戒して手出しをしてこないかもしれん。必要なのは柔弱そうに見えて、
奴らに自分達で始末できると思わせる事だ。それでこそ向こうは動く」
「それって・・・つまりは囮・・・ですか?」
搾り出すような声が総司の唇から漏れた。
「ああ、そうだ」
何の感情も載せない土方の答えに思わず腰を浮かしかけた総司を、
近藤の声が押し止めた。
「神谷君なら無事に仕事をこなせると思ったから任せたんだ。
斬り合う必要は無いと言ってある。彼が為す事はどんな下っ端であれ
相手を引っ張り出す事だ。そこから先はこちらが動く。捕縛さえできれば
背後や計画を吐かせる事もできる。わかるな、総司」
「今回に限っては相手の人数や状況に関わらず、危険と思った段階で
逃げるように指示してある。無駄に抵抗されて万が一相手を逃がしたり、
こちらの背後に気づかれると不味いからな」
だから心配するなとばかりの土方の言葉も総司には不安を呼ぶだけでしかない。
あのセイが・・・人一倍仕事に対する責任感が強く、負けず嫌いで、何かと
意固地になる、あの娘が、身の危険如きで逃げ出すはずが無いではないか。
他の誰にも判らずとも、自分にははっきりと見えてしまう。
ただ一人で危険に向かおうとするセイの姿が。
けれど動かぬと近藤に誓った以上、自分は何もできはしない。
これが隊にとって、自分達の誠にとって、必要な仕事である事は理解できるのだから。
強く握り締められた総司の拳は、手の平に爪を立て血を滲ませていた。
祇園に程近い白川通りは置屋が軒を連ね、華やいだ空気が漂う場所ではあるが、
どこであれ路地奥には影を内包するのは変わりが無い。
裏路地の片隅にある長屋で、セイは水瓶から柄杓で掬い上げた水を口に運んだ。
「はぁ・・・」
伊達に隊で鍛えられていた訳ではない。
若いながらもそれなりの技量を持っているセイは、家の戸口の向こうから
こちらを伺う気配を感じ取っていた。
息を殺したまま静かに内部の様子を探っているようだ。
(さっさと斬り込んできてくれればいいのに・・・)
腰の刀に触れながら、不穏ともいえる事を考える。
昼は密偵の振りをしてあちらこちらで噂を聞いて回り、夜はこの小さな長屋で
息を殺して敵を待つ。
すでにこの状態が三日だ。
敵が食いつくのが思いの他早かったから、いつ襲撃されるかと
緊張感を切らす事ができない。
襲われる時を待つというのが、これほどに精神を苛むものだとは思わなかった。
自分の読みの甘さに苦笑しながら奥の畳に上がり、壁を背にして膝を抱えた。
いつ室内に雪崩れ込まれるか判らないのだ。
無防備に身を横たえてなどいたなら咄嗟の動きが遅滞する。
立てた膝に額をつけて屯所での日々を思うと浮かぶのは、
あたりまえに隣にあった穏やかな笑顔だ。
自分はひとりで立っていたつもりだったが、いつも総司に守られていたのだと
こういう時に実感してしまう。
屯所の隊士部屋で何の不安も無い日々の眠りをもたらしていたのは、
隣の布団に休む男から与えられる絶対の安心感からだったのだと。
大きな屋根に守られている安堵感。
知らず知らずに与えられていたその恵みを知る度に、自分の小ささを認識する。
守られるだけでは駄目なのだ。
そう心を奮い立たせるが、そう思った傍から総司の元へと帰りたくなる。
寒々とした室内の空気が震え、心に隙間風を吹き込んだ。
「・・・せんせい・・・」
無意識に唇から零れ落ちた言葉にハッとして、ポカリと拳で己が頭を小突く。
きっと寺田屋の時のように、総司は心配しているのだろう。
また土方に食いついて怒鳴られているかもしれないし、勝手に任務を受けた
自分の事を怒っているかもしれない。
けれど一日でも一時でも早く総司の助けになれる実力が欲しいから。
こんな程度で弱気になっている暇など無い。
セイは辺りに神経を張り巡らせたまま、浅い眠りに落ちていった。
「神谷さんが斬られたって、本当ですか?」
副長室に血相を変えた総司が飛び込んできた。
続いて屯所にいた組長達が集まってくる。
今にも部屋を出ようとしていた土方が眉間の皺を深めて頷いた。
セイが斬られた事が真実だったと確かめた途端、総司の纏う空気が変わる。
顔色を変えて正否を問いかけた心配性の兄分の表情は滑り落ち、
冷徹な鬼の仮面を貼りつかせる。
「怪我の具合はどうです? 今、どこに?」
声音から温度が伝わるという事をその時誰もが知った。
富士の雪渓でさえこれほどの寒気をもたらさぬだろう。
怖いもの知らずの男達が、我知らず肩を竦めかけた時。
「副長」
廊下から隊士の声がかけられた。
「松本法眼が治療を終えられたそうです」
「神谷さんはどちらに?」
土方が答える前に総司が隊士の前に立ち、凍りつく視線で返事を促す。
「っ、は、離れにっ!」
身を竦ませた隊士を押しのけるように総司がセイの元へと足を向けた。
「土方さん・・・」
「怒ってるぜ? 総司の野郎・・・」
藤堂と原田が溜息を落とした。
感情を面に出さぬために、敢えて鬼の仮面を貼りつけたのだ。
仲間しかいないこの場所でそこまでするほどに、胸中では
激しい怒りが渦巻いていたのだろう。
それを向けられる相手に心底同情する。
その同情を向けられた男が小さく舌打ちした。
「うるせぇ、俺達も行くぞ」
弟分の怒りの中に飛び込む覚悟を決めた土方が足を踏み出した。
セイの病間の前に座っていた隊士を視線だけで退かせた総司が部屋に入ると
畳に延べられた布団の中でセイが大きく目を見開いている。
その枕辺に座った男が静かに問いかけた。
「怪我の具合は?」
「脇腹を少し・・・浅いですから何てことないです」
淡々と尋ねる総司の様子にセイが首を僅かに傾げる。
その動きが傷に触ったのだろう、小さく寄せられた眉根を見て
総司の中の怒りが蠢き出す。
「・・・何があったのか、話してください」
「・・・・・・・・・」
その問いに口を開きかけたセイだったが、首を振る。
「副長はどちらでしょう? まず副長に報告します」
普段より幾分弱々しい声音ではあるが、凛とした響きが含まれていた。
「っ!」
総司が怒りの声を上げる一瞬前に、聞きなれた声が背後から降り注ぐ。
「ああ、聞いてやる。報告しろ」
障子を開けて入ってきた土方がセイを見下ろして話を促した。
総司がその場を動こうとしない様子に一度視線を流し、土方がそれを許している事を
確かめたセイが、傷口を押さえながら起き上がって出来事を語りだした。
自分の後を付けていたらしい男が仲間と共にセイの隠れ家を襲撃してきた事。
打ち合わせ通りに背後の障子を蹴破り、控えていた仲間達の元へと
浪士達を誘いこんだところまでは予定通りだった。
けれど最後の最後で頭らしい男が包囲を破って逃走したのは誤算であり、
それを目ざとく見つけたセイが、その後を追う事となった。
その男の逃げ込んだ先は馴染みの女の家であり、男を逃がそうと必死にセイに
追いすがる相手を女子と侮ったせいで脇腹に傷をつけられる事となった。
幸いセイが足止めしていた間に仲間達が追いつき男を捕縛する事ができたが、
女が咄嗟に手元にあった鋏で突き刺した傷は、常時セイが身に着けている
鎖帷子を貫通し、浅くない傷を残していた。
「失態だな」
「申し訳ありません」
冷たく響いた土方の声に総司が唇を噛み、セイの謝罪の言葉が放たれた。
確かに任務は果たせた。
それに関しては誰も文句のつけようは無い。
けれど男を追い詰めた先で、目前にいるのが女子だと思った時に
どこかに気の緩みが生じたのは確かだろう。
少なくとも総司や斎藤だったなら、するはずもない失態なのだ。
腹の傷が熱を持って、自分の未熟さを責めているようだとセイが視線を伏せた。
「傷が塞がるまで五日はかかるそうだな。その間、休暇をやる。
隊内なり妾宅なり、好きな場所で療養しろ」
言うだけ言って部屋を出て行く男の背に、セイが頭を下げる。
そっけない言葉でも、それが今回の任務を完了させたセイに対する
土方からの褒美だという事は確かだったからだ。
「ふぅ・・・」
グラリとセイの体が傾き、それを支えようと布団に手を着く前に
広い胸に受け止められた。
「す、すみませんっ」
慌てて起こそうとした身体を深く抱き込まれて身動きが出来ない。
「お、沖田先生?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
総司の手が幾度も背中を撫でている。
「あ、あの・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
言葉にされずとも無事を確かめるような手の平が全てを語る。
『無事で良かった』
『貴女はここにいる』
『ちゃんと戻ってきた。私の元へ』
触れる場所から想いが流れ込んでくるようで、セイは目の前の布地に
顔を押しつけた。
そうしなければ涙がとめどなく零れてしまいそうだったからだ。
どれほど心配させたのだろう。
この優しい男に。
申し訳無いと思う。
けれど。
けれど自分が望む事は、この男の剣となり盾となる事なのだ。
男を逃がそうとセイを刺した女子の様子を思い出す。
人を傷つけるなどした事もない女子は、血に塗れた己の手の平を見て
悲鳴を上げて蹲っていた。
女子ならばそれが当然だろう。
誰が他人を傷つけて平気でいられるものか。
だが自分は女子である事を捨てて、その道を選んだ。
あの立場にいたのが自分であれば、そして逃がすべき男が総司だったなら
自分は躊躇う事無く追手を切り伏せた事だろう。
そして総司の為に血路を開こうと、家を取り巻いていた敵に斬り込んだはずだ。
たとえ我が身が白刃に切り裂かれ、地に沈む事を示していようとも。
自分の屍を越えて前へ走り出る男が、自分を一瞬たりとも振り返らずとも。
自分はその道を歩むと決めているのだから。
その為にはもっともっと強くならなければいけない。
でも、今は・・・この胸があまりに広くて温かいから。
少しだけ、もう少しだけ、と思ってしまうのは弱さなのだろうか。
「・・・いつの間にか、すっかり一人前の隊士になっていたんですね・・・」
ぽつりと耳元に落ちた囁きと同時に、セイの背を撫でていた手が止まった。
「私に秘密の任務を受けて・・・」
(土方さん以外に報告しないなんて言って・・・)
以前であれば自分が問えば素直に報告していたはずだ。
それを拒否された瞬間に自分の守り手を払われたようで、
心の中に大きな穴が開いた気がした。
その穴からそれまで渦巻いていた怒りが零れ出していき、残ったものは寂寥感。
セイの成長を喜ぶべきだと理解していても、自分から離れてしまう事は
許容できずにいるのだ。
手の中から離したくないなど、まるで駄々っ子のようではないか。
そんな己の未熟さが厭わしく情け無いと心の中で溜息を吐いた。
「もう、私が教える事なんて無いかもしれませんね」
「沖田先生?」
ひどく寂しげに響いた総司の声音に驚き、セイが表情を窺おうとするが
背に回った腕の力が強くなり身動きができない。
「寂しいなんて我侭ですかね・・・」
「え?」
「いえ、何でもありません」
何かを振り切るように首を振った総司がセイを離した。
そこにはいつもの笑みを浮かべた男の表情がある。
「さて、どうします? 里乃さんの所へ行くなら、誰かに送らせますよ?」
脇腹の怪我だというなら療養するにしてもセイの正体を知っている
里乃の所の方が色々と都合も良いだろう。
そう考えた総司の言葉にセイが首を振り、総司の袖を掴んだ。
「隊に残ります」
「でも・・・」
「すみません。緊張が続いていたので、少しだけ休みたいんです。
ここが一番安心していられるので・・・」
(先生の傍が・・・)
甘えてはいけない、強くならなくては、そう誓ったばかりではあるけれど、
セイは目の前にいる男の与えてくれる安心感に少しだけ寄りかかりたくなった。
数日に渡る緊張感からの疲労が極限近かったせいかもしれない。
「ここで、ですか?」
(私の傍で?)
自分の袖を握り締めるセイの手に視線を据えて総司が繰り返す。
その小さな手が必死に自分の事を求めているようで、心がほっと温かくなった。
「はい」
こっくりと頷いたセイの月代を撫でた総司が、小さな手を袖から外させた。
そのままゆっくり布団に横たわらせながら心の中で小さく呟く。
(いま少しだけ、私の守りを必要としていてください)
貴女が強くなった事を自分が認められるまで。
どんな危地でも貴女を信頼して見守れるぐらい、自分の心が強くなるまで。
あと少しだけ・・・。
「わかりました。とにかく少し眠りなさい。私がここにいますから」
未熟な心を隠して穏やかに告げるとセイが安堵したように目を閉じた。
その面を見つめる男の胸の内にあるのは。
――― 強くなりたい
大きな安心感の中で瞼を閉じる娘が思うのは。
――― 強くなりたい
貴女のために。貴方のために。
想いの行方が同じだとふたりが知るのは、そう先ではないかもしれない。
背景 :