凍てし影
秋も終わりの頃、セイが風邪をこじらせた。
ひどい高熱と咳に苦しめられ散々周囲を心配させたが、
程なく松本法眼の投薬により回復した。
「ん?」
冬将軍が京の町に我が物顔で居座り始めた時期、深夜の賄所に温かい湯を求めて
足を運んだ土方は冷え切った部屋の隅に蹲る影を見つけた。
誰何の声をかけるまでもなく、ひどく咳き込んでいるらしい小さな影の正体がわかった。
足音を立てて驚かす事にどういう訳か罪悪感を感じて、静かに灯りを燈すと
淡い光の中に賄所の壁に縋るように背を丸めたセイの姿が浮かび上がる。
「何を・・・してやがる」
「・・・コンッ、・・・ふ・・・けほっ・・・く、ちょうっ・・・」
その後は咳が止まらなくなったようで、言葉にならない。
小さなその背をより縮めるように床に爪を立てて咳を抑えようとする姿に、
思わず足早に近づいた土方がその背を摩った。
暫くしてようやく咳が治まったセイが顔を上げた。
「すみません・・・」
「いや」
呼吸の苦しさ故か潤んだ瞳が常に無い弱さを見せて、土方の毒舌を抑える。
「どういう事だ?」
セイが肩に掛けている綿入れや掛け布団が、この状態が
今日だけの事では無いと示している。
事情を聞かなければ、このままここに残して部屋に戻っても気持ちが悪いだけだろう。
説明をしろという強い土方の視線に、苦笑を浮かべたセイがぽつりぽつりと話し出した。
秋口の風邪の後遺症か、深夜に体が温まるとひどく咳き込むようになったのだという。
隊士部屋でそんな様子を見せれば、誰かが・・・特に隣に寝ている総司が
目覚めて心配するだろう。
明け方近くまで、繰り返し訪れる咳の発作を止める術も無く、仲間達の安眠を思えば、
どれほど咳き込もうと迷惑をかけない場所にいるしか無かったのだ。
「・・・それで、こんな冷え切った場所で布団を被ってたって訳か・・・」
「はい。ここならどんなに咳き込んでも、誰にも迷惑になりませんから」
それに冷え切った場所の方が発作も起き難いんです。
苦笑交じりのセイの言葉に土方は溜息を吐き出した。
確かに体が温まる事で起きる発作なら、冷えた場所にいた方が
それが起こる率も低いかもしれない。
けれどその分体を冷やし、また体調を崩す可能性も高いだろう。
この小柄な隊士が風邪をこじらせた時の総司の動揺ぶりを思い出す。
「来い」
「は?」
小さく舌打ちをした土方がセイの腕を掴みあげると副長室まで引っ張っていく。
隣室の近藤は夜になるとほとんどの場合、休息所へいって泊まる。
夜になればほぼ人の出入りの無くなる幹部棟だ。
副長室の周囲に迷惑を蒙る人間は皆無だった。
土方は押入れから布団を出して部屋の隅にそれを敷き、部屋の入り口で
ぼんやり突っ立っているセイをそこに座らせた。
「え? ええっ?」
真っ赤になったセイに、意地の悪い笑みを浮かべて言葉をかける。
「餓鬼は趣味じゃねぇし、俺は衆道に興味はねぇ。だから安心して、そこで寝ろ」
「え? で・・・ですが・・・」
自分の咳で土方の眠りを邪魔するのではないかと、セイがとまどった声で問うが、
土方はニヤリと笑っただけだ。
もとよりセイの咳がひどければ自分の睡眠を妨げられる事は土方も承知の上だ。
けれど殺気や悪意を伴わない騒音の中であるならば、意外に普通に眠れる事を
身を持って知っている。
そうでなければ試衛館にいた頃に、騒がしい仲間達と雑魚寝など
していられるはずもなかった。
繊細なようでいて、図太い精神の持ち主でもある。
「俺はこの仕事が終わったら近藤さんの部屋で休む。
無駄な気遣いなんぞしてねぇで、とっとと寝ろ」
それきり文机に向かってしまった土方の背に小さく頭を下げたセイが
布団に横たわった。
「まったく土方さんってば、神谷さんを良いように使ってばっかりで・・・」
夜番の巡察隊もとうに出て行って、屯所の中はしんと静まり返っている。
ほとんどの隊士達はすでに夢路を辿っている事だろう。
そんな刻限に足音を抑えて幹部棟へ続く渡り廊下を歩む一番隊組長の姿があった。
暫く土方の仕事を手伝うと言って一番隊の隊士部屋からセイが
自分の布団を持ち出したのは三日前の事だった。
朝方まで仕事をして部屋に戻れば眠っている仲間を起こしてしまうかもしれない、
だから暫く副長の部屋で仮眠を取る事にした、と申し訳無さそうに
頭を下げて出て行った。
きっと土方にこき使われているのだろうと小柄な弟分の苦労を思えば
差し入れの一つもしてやりたくなった。
「ふふっ。最近一緒に甘味処へも行ってませんし。
神谷さん、喜んでくれるでしょうかねぇ」
手に持った饅頭の包みをぽんっと空に放り投げ、楽しげに視線を向けた先にあった
部屋の障子に一瞬影が重なり、唐突に明かりが消えた。
「え?」
ぽとり、と足元に受け止め損ねた包みが落ちる。
けれど総司はそんな事にも気づかず、闇に沈み込んだ部屋の障子を凝視した。
(だって毎日朝方まで仕事をしているって・・・)
セイが嘘を言ったというのか、何故。
明かりが消える寸前の重なった影が瞼に刻まれている。
まるで大きな影が小さな影を押し倒したように見えた。
けれどしんと静まった室内からは何の騒ぎの気配も無い。
ほんの今さっきまでの高揚した身には感じ取る事も無かった外気の冷たさが
総司の身体を凍えさせていき、指先から感覚が鈍りだす。
のろのろと足元に落ちた包みを拾い上げた男は、自分でも理解しがたい苛立ちに
背を押されるように踵を返してその場を立ち去った。
会津藩の公用方との会合を終えて帰営した土方は、人の気配の無い
自室を見渡して首を傾げた。
賄所でセイを見つけてから副長室で休ませるようになって四日が経つ。
もちろん自分は隣の近藤の部屋で寝ている。
今日も会合で遅くなるが自分に構わず寝ているようにと、
昨夜のうちに伝えてあったはずだ。
綺麗に整えられた自分の布団を眺めながら夜着に着替えていた土方が
何かに思い当たったように賄所へと向かった。
――― くっ・・・こんこんっ! ごほっごほほっ!
布団を被っているのだろうか、くぐもった咳と苦しげな吐息が響いていた。
何を考えているんだと怒鳴りつけようと室内へと続く板戸に手をかけた時、
背後からのん気な声が掛けられた。
「あっれぇ? 土方さ〜ん、どうしたんでぇすかぁ?」
「総司?」
「はぁ〜い・・・そうじでぇぇぇっす」
くすくすと笑いながら土方の背に凭れかかってきた男の呼気から、酒の香りが漂った。
「珍しいな、呑んできたのか?」
「はい〜、ちょっとだけ〜〜〜。それより土方さ〜ん、会合の後、泊まって来ないなんて
珍しいですねぇ〜〜〜。やっぱり神谷さんがぁ、待ってるからですかぁ〜?」
にやにやとした笑みはこの男らしくない。
普段であれば酔うほど酒など口にしない男の鬱屈を、そこに垣間見た気がして
土方が溜息を吐いた。
おそらくセイが再びこんな場所に戻ったのも、この男が原因なのだろう。
「・・・おめぇ、神谷に何を言った?」
呆れたような土方の表情に総司がムッと頬を膨らませる。
「別に変な事は言ってませんよ。なんですか、神谷さんが言いつけたんですか?
副長の小姓になりたいなら私に遠慮はいりませんけど、土方さんの仕事の
邪魔はしないでくださいね、って言っただけですよ」
「おめぇなぁ・・・」
呟くように語りぷいっと顔を背けた総司の頭を掴んだ兄分が、
音を立てぬようにそれを板戸へと押しつけた。
「い、痛いっ!」
「うるせぇっ! 黙って中の音を聞けっ!」
「もぅ・・・乱暴なんだから・・・」
深夜という事もあって最初から声音を抑えていた総司が、尚小さな声で
ぶつぶつと文句を言いながら中の音に耳をそばだてた。
その表情がすうと変化する。
「・・・・・・どういう事ですか?」
板戸から耳を離し、振り向いた男の表情には酔いの欠片も残っていない。
それを確認した土方がここ数日の事を語った。
「どうしてすぐに医者へ行かせなかったんです?」
「厄介な病があるだろう、あいつは。松本法眼がちょうど大坂に出向いていて
不在だったんだよ。他の医者に見せられねぇってな」
非難じみた言葉を向けた総司がその答えに、はっと口をつぐんだ。
セイは如身遷という事になっている。
下手な医者にその身を晒す事は出来ないのだ。
板戸の向こうでは苦しげな咳が続いている。
合間に混じるひゅうひゅうという喘鳴が、冬の枯木立を吹き抜ける風のように
寂しさと哀しさを思い起こさせる。
それを聞きながら総司が強く唇を噛み締めるのを見て、土方が苦笑した。
「俺の部屋で寝させようとしても、すぐに起きだしちゃ仕事を手伝おうとしやがる。
昨夜も無理やり布団に押し込んで寝かしつけたんだぜ。
あの意地っ張りはどうしようもねぇな」
ああ、それがあの影の正体だったのかと総司は内心で頷くと共に、大きく息を吐いた。
自分の胸に澱んでいた真っ黒な泥のような澱が、音も無く消えていくのがわかる。
それと同時に自分の心無い言葉が原因で、足袋を履いていても足先から痺れるような
こんな冷気の厳しい場所にセイを再び追いやってしまった事が悔やまれた。
とっくに火の落とされた広い賄所はどれほど寒い事だろう。
そんな中でたった一人、これほど苦しげな咳を繰り返していたのだろうか。
総司の眉間に深い皺が刻まれたのを見て土方が呟く。
「明日の昼には松本法眼も大坂から戻るって話だ。
今夜も俺は近藤さんの部屋で休む・・・」
だから神谷を温かい部屋で寝させてやれ、とまで言葉にせずとも
弟分は理解する事だろうと土方は背を向ける。
そのまま自室へ戻ると火鉢に火をおこし、隣の近藤の部屋に布団を移して
その中に身を横たえた。
暫くして何かを抱えているように重みのある足音が一つ隣室へと滑り込んだ。
時折咳き込む音と何かを囁く声が微かに響いてくる。
今でも衆道なんてものには虫唾が走る。
けれどあの二人の間にはそんな陰湿な気配は感じられない。
もっと健やかで爽やかなものを振りまいている。
眠りの淵に片足をかけながら、自分が日野で生死の境を彷徨っていた時に
必死の面持ちで飛び込んできた幼馴染の顔を思い出した。
きっと自分が病だと知った時、あの情に篤い男も先程の総司のように
苦しげに唇を噛んだ事だろう。
(なぁ、かっちゃん。俺達の弟分は、妙なところばかり似ちまったようだぜ)
宥めるように、癒すように、続く囁き声を耳にしながら土方が小さく笑う。
その瞼の裏には、明日の昼前に布団でぐるぐる巻きにした小柄な隊士を
背負った男が屯所を走り出していく姿が浮かんでいた。
背景 :