夢のうつつ




梅の香がどこからか薫ってくる初春の夕暮れ時。
斎藤が巡察から戻ってくると屯所の門前に所在無げに佇む男がいた。

「お帰りなさい、斎藤さん・・・」

小さくかけられた声音にはいつもの能天気さは微塵も無い。
配下の隊士達に解散を告げる斎藤の後ろに、うなだれた男がとぼとぼと寄ってきた。

「この寒い中、こんな所で何をしてるんだ。アンタは」

迷子の子供のような風情を放っておく事も出来ず、問いかける。
春にはまだ早いこの時期に、ずいぶん長い事外にいたらしい男の頬は赤い。
かけられた言葉の中に非難の響きを感じて、寒そうに手の平を擦り合わせていた総司が
口の中で言い訳めいた言葉を呟いた。

「・・・いい加減、神谷さんが帰ってくるんじゃないかと思って・・・」



黒谷の会津藩士達が流行の風邪で次々倒れてしまい、看護の人手が欲しいと
南部からの要請があった。
看護に慣れた数人の隊士と共にセイが黒谷へと向かってから十日経つ。

「もう十日も顔を見てないんですよ・・・」

しょんぼりと力無い視線が足元に落ちた。


感染力の強い流行風邪は高熱と激しい咳を伴うという。
大坂で爆発的に流行し、それが拡大する形で京へも感染が広まった。
貧しい者達から病に倒れ、高熱は体力の無い子供や老人の命を脅かし、
同時に慣れぬ土地で集団生活を送る武士達にも被害が及んだ。

幸いというべきか京へ集っている各藩の重役以上や朝廷までは
病の広がりは見られないが、今後もそうだとは言い切れない。
その時に感染源が会津だと言われないためにも病人は隔離され、
早急に黒谷の病人を減らすための措置が取られていた。
そのあたりの状況は逐一セイから土方へと報告されていたが、
細かい事情は総司には必要なかった。
病人の看護をしている、とわかっていれば充分だったからだ。

危険な巡察に出るよりも余程安心だと思われて、最初の数日は
実に晴れ晴れとした表情を見せていた男だった。
けれど愛弟子の不在が五日になり七日になりと日を増すに従って、
水を与えられない草木のように萎れていく様が傍からも見て取れた。
その理由を誰もが理解していたが、あえて口に出す者は無い。
どうにも居心地が悪そうに屯所の中をうろうろする男の姿を
仲間達は憐憫を少し混ぜた呆れた眼で眺めていた。
そしてとうとう屯所内だけでは気が済まず、外出から戻る母を待つ童のように
門前に佇んでいたという事なのだろう。


「・・・神谷は仕事なんだ。仕方がないだろう」

溜息交じりの斎藤の言葉に総司が眼を上げた。
心なしか頬の赤みが強くなっている。

「斎藤さんはいいですよねっ。黒谷へは遣いで何度も行っているんですから。
 神谷さんにも会っているんでしょう?」

感染を恐れる医師達によって病人と共にいる南部やセイ達看護者は
他の者との接触が許されていない。
当然斎藤も会う事などできないのだが、それを言ってもこの男は
納得しないだろうと口を噤む。
沈黙を肯定と受け取った総司の瞳が一気に潤んだような気がして
斎藤が半歩踏み出した。
いくらセイを愛弟子だと公言していて、その不在を寂しく感じているとしても
この様子は尋常ではない。
ここまで感情を顕にするなど、どこか変だ。

「沖田さん?」

「神谷さんがいないと、寒いんですよ・・・」

斎藤の問いにかぶった言葉と同時に総司の体がグラリと揺れ、
そのまま地へと崩れ落ちた。

「おいっ! おい、沖田さんっ!」





「どうだ?」

「熱が下がらねぇな・・・」

低く問いかけられた男が首を振る。

「流行風邪だと思うか?」

「どうなんだか。熱は高いが咳の気配は無いしな・・・」

「だが・・・」

気遣わしげな男達の眼差しの先では苦しげに顔を歪めた青年が
布団に横たわっている。

「・・・う・・・ん・・・」

「総司?」

「・・・みや・・・ん・・・」

「・・・黒谷へ使いを出そう」

「かっちゃん?」

「病人を任せるのに彼以上の隊士はいないだろう? すぐに呼び戻そう」

腕組みをして眉間に深い皺を刻んだ男が口をへの字に曲げた。

「・・・・・・アンタは総司に甘すぎる・・・」

「反対か? トシ」

「・・・・・・局長命令だからだ。俺は知らん!」

使いの隊士を呼ぶ不機嫌な声に小さな笑い声が重なって響いた。






ヒヤリとした手の平の感触を額に感じる。
その優しい触れ方に一人の人を思い出し、夢の中で小さく呟く。

「・・・神谷さん・・・会いたいなぁ・・・」

ふるりと身体に走った寒気。
呼吸の苦しさと関節の痛みが自分の体調不良を教えてくる。
どうやら風邪で発熱しているようだ。

これも神谷さんがいないから・・。

冬の名残の色濃いこの時期は明け方にひどく冷える時がある。
そんな時には隣で眠る華奢な身体を抱え込んで暖を取る事が
皆に内緒の総司の楽しみだったのだ。
起床時間の少し前には柔らかな温もりを手放して自分の布団に戻っていたから
セイ本人でさえ知らない事だったけれど。
その温もりと離れて十日。

だから風邪を引いたのだ。悪いのは帰ってこない神谷さんなんだ。

高熱のせいかユラユラと纏まらない思考の波が脳裏で揺らぐ。
間断無く身体を襲う寒気に耐えかねて、小さく呟いた。

「神谷さん・・・寒い・・・」

微かな言葉に誰かが何かを答えたような気がした。
けれど朦朧とした意識の中では、するりするりと風に踊る花弁を追うように
声音も言葉も掴む事が出来ず、それが不満で眉間に皺を寄せた。

「・・・・・・・・・・・・」

再び囁く声と共に体の上に重さを感じた。
新たに布団を掛けてくれたのだと察しながら、外気の進入を防ぐために
肩の辺りを軽く押さえる手の様子が、やはり大切なかの人を思い起こさせる。
これほど一人の事しか考えられないなど、すでに高熱で脳が溶けているのかと
呆れ交じりの苦笑が浮かんだ。

首筋に感じていた不快な汗を拭われて、ほんの少し瞼を開けると
心配顔でそこにいるのは会いたかったただ一人の人。

でもこの人はまだ黒谷にいるはずで、こんな場所にいる事はありえない。
ああ、そうか。これは夢なんだ。
会いたい気持ちが強過ぎて、溶けかけた脳が夢を見せているに違いない。
だったら現実では絶対に言えない事を言ってしまえ。

熱に侵された総司の思考が出した結論は、至極単純なものだった。


「やっと会えた・・・」

「沖田先生?」

「ずっと神谷さんがいなかったから、寒くて寒くて仕方が無かったんですよ?」

「えっと、あの・・・」

「一人で食べる甘味だって美味しくないし、稽古だって物足りなくて」

「先生? 大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないです! 神谷さんが足りないんですよ・・・私・・・」

「っっっ・・・・・・・・・」

「ずっと一緒にいてくれるって約束してくれますか? もう寒いのは嫌だから、
 いつも傍にいて欲しいんです」

どうせ現実では言えっこないのだ、夢でくらい言いたい事を言っても
良いじゃないか、と総司の中に己を抑える気持ちは無い。
心のままに言葉を吐き出す男の様子をセイは呆然と見つめている。

「神谷さん?」

布団の中から手を出した総司がセイの膝をポンポンと叩いた。
たとえ夢の中であろうと、せっかく久々に見る事のできたこの人の
お日様のような笑顔が欲しい、優しく響く声が聞きたい。
頑是無い幼子のように甘えた仕草でセイを見上げた。
けれどセイは頬を染め、目を見開いたまま固まっている。

「返事は? 神谷さん?」

もう一度その名前を呼んで軽く膝を揺すると、ようやくセイが小さく頷いた。
満足のいく答えを得た事で総司の頬がふにゃりと緩む。

「神谷さん、大好・・・」

――― サラリ

言葉の途中で前触れも無くセイの背後の障子が開いた。



「総司の具合はどうだ、神谷」

「んぐっ!」

土方に総司の奇妙な発言を聞かせてはならないと、咄嗟にセイが
総司の口を押さえつけた。
その確かな手の平の感触に総司の意識も鮮明になる。

(えっ? えぇぇぇぇぇっ? 夢じゃないっ??)

とろりとしていた総司の瞳の中に確かな正気を確認したセイが、
そろりそろりと口元から手を外す。
それに反応するように総司の顔が紅潮してゆく。

セイの体を避けて総司の布団に歩み寄った土方が眉根を寄せた。

「なんだ、まだ熱が下がらねぇのか。お前が寝言で“神谷神谷”とうるせぇから
 近藤さんがわざわざ黒谷から神谷を呼び戻したんだぞ。ありがたく思え!」

土方の言葉に、寝言でまでセイを呼んでいたという自分の行動が信じられず
総司が眼を剥いた。
同時に総司が倒れたから戻って来いという知らせだけで駆け戻ってきたセイも、
そんな内幕を始めて知って驚いた。

「嘘じゃねぇぞ。ったく気色の悪ぃ野郎だ。体が戻ったら、たっぷり稽古して
 性根を入れ替えてやるから覚悟しとけ! 俺は衆道なんざ認めねぇからな!」

言いたいだけ言ってセイに視線を移した土方が首を傾げた。

「おい、何を真っ赤な顔をしてやがる。総司の風邪がうつったのか、神谷?」

己がどんな重量感のある言葉を落としたのかに気づかない男の問いにも、
熟れ過ぎた柿のように真っ赤な顔で黙り続けるふたりだった。




この後、甲斐甲斐しいセイの看病のおかげか、地の果てまで逃げていきたい程
恥ずかしい己の言葉の数々を思い出しては大汗をかいた事が功を奏したのか、
総司の風邪は早々に回復した。
けれど京中を席巻した流行風邪は、当然ながら新選組の屯所にも蔓延する事となる。

ようやく手元に戻ってきたはずの愛弟子が、またしても隔離病室に行ったきり
顔も見る事が許されない状況に逆戻りした一番隊組長が、拗ねてゴネて
大騒ぎするのは・・・また別の話。





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