金銀花



「っつ〜〜〜!!」

一番隊の隊士部屋から押し殺した唸り声が漏れていた。
中では巡察中に石段で転び、べろりと脛の皮を擦りむいたセイが
時折悲鳴を上げながら傷の手当てをしている。

「っひ〜〜〜!!」

薬が沁みるのだろう。
その呻き声は土方に巡察後の報告を終え、隊士部屋へと戻る
総司の耳にも届いてきた。

初夏の陽射しに眼を焼かれたセイが石段で足を踏み外した時、
手を出すのが一瞬遅れた。
最近隊務が立て込んでいたせいで疲れが溜まり、立ちくらみを起こしたのかもしれない。
あの時自分がもう少し早く反応していれば、今頃あの子はこんな悲鳴を
上げずに済んだ事だろう。
けれど真っ赤な顔をしながら、涙目で沁みる傷に薬を塗っている
幼げな姿を想像すると可愛らしさに頬が緩む。
不謹慎と思いつつ、半ベソ顔をからかいたい衝動を抱えて隊士部屋へと入った。


「っ・・・・・・・・・・・・」

強い外の光に慣れた目には室内はひどく薄暗く感じる。
その中に鮮やかに浮かびあがる白い素足。
他に隊士がいないのは、痛みに耐えかねたセイの八つ当たりで追い出されたのか、
この華奢な素足を見ていられずに場を外したのか。
どちらにしても、室内にはセイ一人がいるだけだった。

「うう・・・沖田先生、副長への報告、ご苦労様です・・・」

部屋の入り口で立ち尽くしていた総司にセイが声をかけた。
大きな瞳に涙を滲ませながら、それでもどうにか微笑を浮かべている。
瞼を数度開け閉めして外との明るさの違いに眼を慣れさせながら、
どうにか自分を取り戻した総司がセイの前に座った。

「全く、思い切り良く擦りむいたものですねぇ」

深いわけでは無いが、傷ついた表面積は小さなものではない。
所々が赤くなっているのは、未だ血が止まらないせいだろう。

「はぁ・・・申し訳ありませ・・・っ!」

自分の不注意のせいだと怪我をした直後から何度も繰り返している詫びの言葉を
再び口に上らせながら、セイの手は傷口に薬をすり込んでいた。
けれどやはり沁みたのか、最後の言葉は悲鳴と共に飲み込まれる。

咄嗟に目の前に投げ出されていた足を持ち上げた総司が、傷口に息を吹きかけた。

「お、沖田先生っ! 何をっ!」

セイが顔面を紅潮させて今度は確かに悲鳴を上げた。

「ふ〜、ふ〜。だってこうすれば少しは痛みが治まるでしょう? ふ〜、ふ〜」

「そ、そんなっ!」

「子供の頃に姉が良くやってくれたんですよ」

息を吹きかけながら上目遣いで語る総司の言葉に、セイの肩からガクリと力が抜けた。
要するに自分はこの男にとって、まだまだ子供なのだ、と。

「も、もう大丈夫ですから・・・」

痛みよりも脱力感に支配されながら、セイは溜め息混じりに総司の手から
自分の足を取り戻し、くるくると包帯を巻いていった。
その様子を見ていた総司が小さな息を吐き出した。

どう言い繕っても男だなどと思えぬ細い足。
先程入室した時に鮮やかに眼に飛び込んできたその白さ。
それらがこんな場所に置かれる事への違和感が、胸に苛立ちを呼び起こす。
本来ならば柔らく華やかな衣に包まれているべきものが、次から次へと生傷を負い
汚されていくような気がして切ないのだ。

「こんな生っ白い手足で無茶ばっかりするんですものねぇ・・・」

無意識に口をついて出た言葉にセイがむっと顔を上げた。

「生っ白くてすみませんねっ! 先生が地黒のように、私は白いんですっ!」

「細いし・・・」

「うるさいですねっ! まだ成長途中なだけです! そのうち筋肉もついて、
 それなりに逞しくなりますよ!」

包帯を巻き終えたセイは、ぷりぷりと怒りながら道具を片付けると部屋を出て行った。
その後姿を眺めていた総司がぽつりと呟く。

「・・・逞しくなんて、ならなくて良い・・・って言ったら、また怒られますかね」





それから数日後。
西本願寺の裏庭に面した濡れ縁で、はためく洗濯物を眺めながら
セイが日向ぼっこをしていた。
朝早くから冷たい井戸水と戦いながら片付けた洗濯物達は、強い日差しの中で
さも気持ち良さそうにたなびいている。

「う〜〜〜ん・・・」

ちらりと袴をめくる。
覗いた白い足には先日こさえた擦り傷の跡が瘡蓋になって残っている。

「う〜〜〜ん・・・」

すりすりとその周囲を指先で撫でて、眉間に皺を寄せた。

「うんっ!」

一つ頷くと同時にきょろきょろと周囲を確認してから、袴を膝上まで盛大に捲り上げる。
次いで着物の袖も両肩が出るようにたくし上げ、そのまま陽光降り注ぐ中に
大の字で転がった。

「見てろ〜。もう『生っ白い』なんて言わせないんだからっ!」

総司に言われた言葉が悔しくて仕方がなかったセイは、少しでも黒く焼こうと考えたのだ。
この場所はセイ以外には滅多に人の訪れる事が無い。
多少非常識な恰好をしていても人目につくことはないだろう。

ちりちりと肌を焼く日差しの熱は、ほんのり冷たい床が中和してくれる。
遠くから時折響くのは道場で鍛錬している隊士の気合だろうか。
小鳥の鳴声が微かに耳朶をかすめていく。
洗濯物の水気を含んだ風が心地良く身体の表面を撫でて去る。

そのままセイの意識は拡散していった。





「あれ? 何の騒ぎですか?」

昼餉の席に現れなかった弟分を探していた総司は、ざわざわとした人の気配に
ひょっこり顔を覗かせた。
総司の声に濡れ縁の角から向こうを覗き込んでいた男達が一斉に振り返った。
その中には原田や永倉の姿もある。

「あの?」

自分を見つめる男達の何人かが顔を赤くして逃げるようにその場を去っていき、
残った者達が一様に奇妙な表情を浮かべているのに総司は首を捻った。

「永倉さん?」

奇妙な表情を浮かべていた一人を名指しで呼ぶと、永倉が角の向こうを指差した。

「何か面白い物があるんですか?」

男達が開けた場所からひょい、と向こうを覗いた総司の表情が固まった。


寝ている。
初夏の陽光を照り返して輝くばかりに白い手足を惜しげもなく投げ出して。
隊内で一、二を争うほどの人気を誇る華奢な少年が。
無防備に。
幸せそうな笑みを浮かべて。
寝ている。

総司の眉間に皺が寄った。


「あれだけ安心しきって平和そうに寝てられると、悪戯しようって気にもならねぇよなぁ」

原田が呵呵と笑い、他の隊士達も苦笑交じりに頷いている。
けれどそんな言葉を後ろに総司はセイの元へと歩み寄った。

「あ、おい、総司!」

永倉が慌てて止めようとしたが、すでに総司はセイの胸元を握って吊り上げるように
上半身を引き起こしていた。

「え?」

突然眠りを破られたセイは自分の状況が理解できずに目を瞬いた。

「何をしているんですか、貴女は!」

「おい、総司。乱暴は・・・」

「永倉さんは黙っていてください!」

追って来た永倉が総司の手を押さえようとするのを振り払ってセイへと視線を戻す。

「屯所の中とはいえ、何人もの人間が貴女の様子を窺っていたのに気づかないなど、
 警戒心が足りないと思いませんか?」

「え? あの?」

総司の手に引き起こされ中腰状態のセイは、何故この男がこんなにも怒気を放って
いるのかがわからず、困惑したまま助けを求めるように周囲へ視線を走らせた。
その眼に庭の洗濯物が映り、自分があのまま寝てしまった事を思い出す。
同時に肩も太腿も顕な自分の姿にも。

「っっっ!!」

一気に赤面して慌てて見回した中にこちらを覗いている男達の姿が飛び込んできて、
ようやく総司の怒りの理由に思い至った。

「も、申し訳ありませんっ!」

不安定な体勢ながら袖と袴を引き下ろして露出していた肌を隠す。
たとえ仲間であれども女子の身を隠さねばならない自分は、一瞬でも隙を見せる事が
許されないと承知していたものを、信じられないような失態だった。

「本当に不注意でしたっ。申し訳ありませんっ!」

自分の正体が万が一露見すれば、総司にも多大な迷惑をかける事になるだろう。
それをわかっていながら気を緩めた自分が情けない。
総司から向けられる冷ややかな視線が、厳しい叱責の言葉より何倍もセイの胸をえぐる。
ぐっと噛み締めた唇が今にも血を滲ませそうに色を失っていた。

「そのあたりでいいんじゃねぇか?」

張り詰めた緊張感の中に底抜けに明るい声が割って入った。

「俺達は目の保養になったし、神谷はここんとこ厳しい隊務が続いて溜まっていた
 疲れも取れた事だろうしよ。そんなに目くじらを立てるほどの事じゃねぇだろう」

カラッと笑いながら原田が歩み寄ってきた。
その背後には騒ぎを聞いて来たのだろう斎藤の姿もある。

「ですが武士としてあのように無防備であっては困ります」

ようやくセイの胸元を掴んでいた手を離しながら、吐き捨てるように言葉を放った
総司に向かって原田がニヤニヤと笑いかけた。

「なぁ、パッつぁん。こないだ土方さんに報告に行った時、俺達の存在にも気づかず
 涎を垂らして寝ていたヤツがいたよなぁ」

「ああ。確か寝言まで言ってたな。『お団子食べに行きましょう、神谷さん』とか」

どうなる事かと様子を窺っていた隊士達からどっと笑い声が上がった。

「ちょ、ちょっと永倉さん、何を言い出すんですか。それは私が土方さんや永倉さん達を
 信用しているからじゃないですか。だから安心して寝てたってだけで」

「同じ事だろう」

黙って話を聞いていた斎藤が、しょんぼり肩を落として俯いている
セイに視線を向けて口を開いた。

「神谷も仲間達を信用している。だから安心して寝られたという事だ」

「でも!」

セイはただの隊士ではないのだ。
今までも屯所の内外で危険な目に合っている。
たとえ仲間とはいえ一瞬の気の緩みも許されはしない。
けれどそれを口にする事が出来ずに総司が言葉を飲み込んだ。

「それに害意のある者が近づけば神谷は気づくだろう。その程度にはアンタが
 鍛えてるんじゃないのか? 沖田さん」

「そうだそうだ。神谷ときたら、俺が背後から忍び寄っても最近は気づいて逃げやがる」

「それはサノが怪しい気配を振り撒いてるからじゃねぇのか」

「ひでぇよ、パッつぁん。俺は親愛の情をだな!」

「はいはい、わかりましたよっ!」

ここぞとばかりに勢いを増した仲間達の遣り取りを、総司の声が断ち切った。
このまま放っておけば話はとんでもない方向へと向かい、収拾がつかなくなりかねない。
セイに対する自分の怒りを逸らしてしまおうと、気のいい男達は舌の滑りを増すだろう。
よく知った仲間の事だけに総司も見極め所を心得ていた。

「今後は気をつけてくださいね、神谷さん」

「はい、重々留意いたします。本当に申し訳・・・」

「ああ、もう良いですから」

しゅんとしょげ返っているセイの月代をポンと叩いた総司が、それ以上の言葉を押し留めた。

「貴女、昼餉を食べてないでしょう? 賄い方で何かいただいてきなさい」

「はい・・・」

「睡眠と栄養。たっぷり取ったら午後は稽古ですよ。寝ていても他人の気配に気づく程度に
 しっかり鍛えてあげますから、覚悟なさい」

常と変わらぬ男の声音を聞いたセイが顔を上げると、そこには怒りの気配など消え去った
いつも通りの笑顔があった。

「ほら、早く食べてきなさいよ」

「はいっ!」

ようやく聞けた威勢の良い隊士の声に、周囲の男達の顔にも安堵が浮かんだ。






ぱたぱたとその場を去ってゆく華奢な背中を見送りながら、原田がぽつりと呟いた。

「俺よぉ、今日ばかりは総司が凄いって感じたわ」

「はい?」

怪訝そうに総司が首を捻った。

「いやさ、壬生に居た頃はよく皆で雑魚寝したじゃねぇか。俺もそうだけど神谷も
 寝相が良くなくて、手足が夜着から零れてるなんてよくあっただろう?」

原田の言葉に永倉も斎藤までも頷いている。

「でもあの頃は神谷もまだまだ餓鬼だったじゃねぇか。確かに色は白かったけどよぉ。
 木の枝みたいに細っこくて痩せっぽちでさぁ」

「ああ、そうだな」

永倉の返答に原田が勢い込んで言葉を続けた。

「今も細っこいのも白いのも変わら無ぇが、いつの間にか艶が出たって言うか。
 あれも如身遷のせいだとしたら・・・」

自分がその病になった事を想像したのか、原田がブルッと身体を震わせた。

「ま、まぁ病の事は置いといてよ。あの艶を持ったヤツが毎晩隣に寝てるんだぜ〜。
 それで平気でいる総司は凄いと思ったわけよ」

さっきだって怒りはしても動揺のカケラも見せやがらねぇ、とんでも無いヤツだ、と
原田が感心しきりという顔で幾度も頷き、永倉も同感だと言葉を添える。

「確かにそうだな。まるで金銀花みてぇに甘い香りが・・・」

金銀花、別名スイカズラは細い樹木にツルを絡ませ初夏に白と黄の花を咲かせる。
甘い蜜の香りを放つその植物を皆が同時に連想し、もの言いたげに総司を眺めた。
ツルに絡め取られている若木は、いつその事実に気づくのだろうか、と。

「あれを夜毎見ていながら、平気でいられるなんざ並みの男じゃねぇだろうな」

「だよな、パッつぁん。健全な男としては、あんなものを見ちまったら・・・なぁ」

原田が何かを含んだ眼で永倉を見やった。

「おお、勿論だっ、サノッ!」

したり顔で同意した永倉が原田の肩をバシバシ叩くと勢い良く片手を上げる。

「「今夜は島原だぁぁぁ!!」」

「「「「「先生方っ、お供しますっ!」」」」」

うぉぉぉ・・・とその場に居た隊士達と共に原田と永倉は走り去っていった。

「・・・私だって健全な男ですよぅ・・・」

小さな溜め息と共に零された呟きを聞いていたのは、無表情な三番隊組長だけだった。





その夜。

「土方さ〜ん、今夜は一緒に寝ましょうよ〜」

「うるせぇ、総司っ! てめぇの寝床で寝やがれっ!」

「お願いですっ、今夜だけっ! 土方さぁぁぁんっ!」

副長室から聞こえてきた情けない声に、男の唇が吊り上がった。

「なるほど、確かに健全な男らしいな」


明日の朝は井戸端で頭から水をかぶるヒラメの姿が見られる事を確信して、
男は眠りについた。
襖を隔てた向こうからは、原因である隊士の穏やかな寝息が聞こえている。

一部の者達を除いて、西本願寺の夜は静かに更けていった。