風の刻印    (史実バレ・十万打お礼フリー文)



梅雨の気配が濃厚になり、大気が身体に纏わり付くようになった頃、
副長の特命に専念する為にと総司が幹部棟で寝起きし始めた。
三月に伊東一派が御陵衛士として隊を離れるなど何かと落ち着かない中で
一番隊の組頭たる総司が隊士部屋を不在にする事はセイだけではなく
仲間達皆の不安を煽る。
ましてここ数日は難しい顔をして松本法眼が局長室に通ってきているのだから、
セイの胸の内を不安の嵐が吹き荒れるのも最もだった。


「神谷さん。局長がお呼びです」

局長付きの小姓に呼ばれ、セイの表情が厳しく引き締められた。



「神谷です」

部屋の前に座り声を掛け、障子を引き開けた。
そこには予想通りに近藤と土方、そして松本法眼が待ち受けている。

「こっちに座りなさい」

近藤の固い声と強張った表情にセイの足が一瞬すくんだ。

脛に傷を持つがゆえに新選組の屯所として間借りを許していた西本願寺が、
いよいよ我慢も限界に至り、全ての費用を負担して不動堂村に建設を始めた
新屯所も間もなく完成するという。
まるで大名屋敷のようなその絵図面を見て以来、「ようやく西本願寺も自分達の誠を
理解してくれたのだ」と生来の人の良さを発揮して満面の笑みを浮かべていた近藤が、
今は見る影もなく憔悴している。
これから聞かされるだろう事を薄々承知していようとも、やはり屠殺場に引かれていく
力無き生き物の心境になるのは仕方が無いだろう。



「神谷君。いや、富永セイ、君の事については全て松本先生と総司から聞いた」

滑るように下座に身を置いたセイをじっと見つめて近藤が口を開いた。
膝に置かれた両の拳がきつく握り締められているのが内心の懊悩を表していて、
セイにしても胸が痛い。
一度は我が息子にとまで望んでくれた心優しい局長は、信頼していた部下が
自分を騙していたという事を、どんな思いで聞いたのだろう。
近藤の隣にいる土方は腕を組んだまま、眉間に皺を寄せてそっぽを向いている。
誰より怒り心頭なはずの男が黙っているという事は、すでに局長副長の間で
話は済んでいて、決定事項を局長が通告するばかりと思われた。

「女子の身でよくも厳しい隊務をこなせたものだと感心するべきなのか、
 無茶な事をすると叱責するべきなのか私も迷うところだが・・・」

「阿呆なだけに決まってる」

ボソリと土方の声が割り込んだ。

「トシ・・・」

嗜める近藤の言葉に改めて腕を組み代えて、土方が唇を歪ませた。

「誰が何を言おうが君がどれほどの努力をして技を磨き、隊士としての力を得たかを
 私達は知っている。どこに出しても恥かしくない武士として成長したという事も、だ。
 だが・・・」

近藤の拳が一層きつく握り締められた。

土方や松本、それに総司を含めた面々で決定した事が正しいとわかっていても、
セイを目の前にすると次の言葉を告げるのが躊躇われた。
少年と信じた入隊直後から未熟な剣の腕を磨こうと、この小さな身体でどれほど必死に
鍛錬を重ねてきたのかを知っているからだ。
大の男でも逃げ出そうとする総司の稽古にも音を上げず、それどころか暇さえあれば
他の幹部達に乞うて稽古を重ねていた。
それだけではなく隊の細々とした雑用も骨身を惜しむ事無く、くるくると働いて
いた姿を知らない者などいないだろう。
それを女子だからという事だけで否定するのは遣る瀬無い。

江戸において道場主だった頃には百姓上がりという事で散々辛酸を舐めた近藤だからこそ、
性別という自分ではどうにもならない事でセイを切り捨てる事が苦しかった。
可愛らしい外見をエサとして周囲に甘えていたというならば、冷たく突き放す事も容易い。
けれど女子である事を気取らせる事無く、常に武士であろうと己を律してきた
この隊士を知るだけに、この先に告げるべき言葉が喉を塞ぐ。
そんな近藤の心情を嫌というほど理解している土方が代わって口を開いた。

「富永セイ。性別詐称の罪は士道不覚悟に値する。本来ならば切腹のところだが、
 女子に腹を切らせたとなれば隊の恥になる。表向きは如身遷が悪化したため
 江戸の松本法眼の所で治療する事として、このまま除隊とする。
 今日中に荷物を纏めて屯所を出ろ」

怒りも哀れみも無い事務的な土方の声が響く。
微動だにせず最後まで黙って聞いていたセイが、松本へと視線を向けた。
セイが納得しない限りは女子である事を口にするとは思えなかった松本が
近藤達に全てを語ったという事は、松本にとってセイやその父との繋がり以上の
何らかの事態が起こったのだと思えたからだ。
隊を出されるにしても、セイはそれを確かめたかった。
裏切られたという腹立ちは微塵も無い。
責めるでも無く憤るでも無く、ただ何故だという問いかけに満ちた視線を受けた松本が
重い溜息を吐いた。

「上様のお声掛りで、間もなく新選組の幕臣取立てが決まる」

その話は少し前から噂として流れていた。
喜び漂う隊の中で一人抱えていた不安が現実になったのだと、セイが強く瞼を閉じた。

「俺はお前の覚悟を知っていた。ただ面白がるためだけに妙な病をこしらえて、
 お前をこんな場所に置いていたんじゃねぇ。できる事ならお前が望むように
 生きさせてやるのが大恩ある玄さんへの恩返しだとも思い、
 お前への罪滅ぼしだとも思っていたが・・・」

今までのように会津藩預かりであれば万が一セイの性別が発覚しようと、
隊内でどうとでも揉み消す事が可能だった。
隊内においての隊士の処遇は近藤土方ら幹部に一任されているからだ。
だが幕臣となればそうはいかない。
女が武士として隊にいたなどと外部に知られれば近藤土方の管理不行き届きは勿論、
場合によれば後見をしていた会津藩にまで責めが及びかねない。
事はセイや松本個人の問題ではなくなるのだ。

「ましてお前の父が元幕臣だった事は知られている。どこから露見するかわからねぇ。
 ここらが潮時ってことだ」

懇々と諭すように語っていた松本の声が途切れたと同時にセイが畳に両手を据え、
深く頭を下げた。

「松本法眼には多大なご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありません。
 また局長副長をはじめ、隊の同志達を謀っていた事、お許しいただける事では
 ありませんが、神谷清三郎心よりお詫び申し上げます」

「納得してくれたか?」

強張っていた表情を僅かに緩めた松本の問いに、顔を上げたセイが頷いた。

「幕臣取立てという隊にとって名誉な事に、私如きの不始末で傷をつける事など
 許されようも無い事。局長達のお言葉に従う事に否やはございません」

「そうか」

今度こそ顕かに安堵の表情を見せた松本とは対照的に土方の目が細められた。

「では神谷君。君も色々と思うところはあるだろうが、ここでの事は忘れて女子に戻り
 良い所へ嫁すといい。松本法眼の知る辺に似合いの人がいると聞いた。
 君の肩身が狭くならぬように、私もできる限りの事をさせて貰うよ。
 そうだ多摩の身内に君の後見になってくれるよう文を送って・・・」

「いえ、局長」

情愛を滲ませた近藤の言葉にセイが頭を振った。

「お気持ちは大変ありがたい事ですが、私も心の整理や縁あって世話をしていた人の今後など、
 すぐに始末がつくものではありませんので、この先の事は 今少し落ち着いてから
 ゆっくり考えたいと思います」

「あ、ああ。そうだな。確かに君にも色々と整理する事柄があるだろう」

「はい。それからこの件に関して沖田先生に罪が及ぶような事は」

「黙っていた事に関しては叱ったが、事情を聞けば総司の気持ちも判らぬでも無い。
 君を処罰しない以上、総司に関しても不問に処す事となっているから安心しなさい」

近藤の返答にセイが心底から安堵の溜息を吐いた。
理由が知れれば自分が隊を出ざるをえない事は納得がいくが、自分の事などよりも余程
気がかりだったのが優しさゆえに巻き込まれた形になっていた総司の処遇なのだから。

「で、お前は囲っていた事になってた女の今後を見定めたら、腹を切るつもりか?」

土方の問いにセイの顔色が変わる。
総司の処遇に安堵した一瞬の気の緩みを突いたその問いが、幾重にも重ねていた
セイの心の鎧に隙間を作った。
だが僅かな隙間でも、その場にいた男達にはセイの心底を察する事ができた。

「セイ!」

「神谷君!」

女子のセイが血に塗れた修羅の生き様から本来の暮らしに戻る事は幸いなばかりだと、
信じて疑わなかった男達は驚いて声を上げる。
けれど折に触れセイの本質である“愚直なまでの武士の魂”を見てきた土方は、
セイのあまりに静かな様子に違和感を感じていたのだ。
たとえその身が女子だとしても武士である己に誇りを持って生きていたこの隊士が、
隊を出され女子へ戻る事を、ここまで無抵抗に受け入れるなどありえない。
土方の鋭い眼力はセイの瞳の奥に隠された、動かぬ決意を見抜いていた。

「女に腹を切らせるなんざ隊の恥になる、と言ったのを聞いてなかったのか」

冷たく響く土方の声音にも、もうセイは動揺を見せない。

「人の目に触れない場所など幾らでもあります。心配はご無用です」

ひとたび心の綻びを見せた以上、この男を誤魔化すのは不可能だと
セイも正面から土方を見据えた。
けれどセイの覚悟に驚愕したのは室内の者だけでは無かった。

――― パシッ

「何を馬鹿な事を言うんです、貴女はっ!」

副長室との間の襖が音を立てて開かれ、隣で話を聞いていたらしい総司が飛び込んできた。
そのままセイの両肩を握り締め、揺さぶりながら責め立てる。

「貴女は女子なんですよ? ようやく血の臭いのしない暮らしへと戻れるというのに、
 どうしてそれを受け入れようとしないんです!」

「おい、沖田」

昂ぶる感情と共に激しくなっていく総司の口調に、松本が眉根を寄せた。
必死に総司が翻意を迫ってもセイは黙って首を振るばかりだ。
心を定めた時のこの娘の頑固さを、誰よりも熟知している総司は焦りが増していく。

「だいたい、貴女は・・・っコホッ。どうしてっ、そう・・・けほっ、頑固・・・」

「沖田っ、興奮するなっ!」

咳き込み出した総司の様子に慌てて松本が腰を上げた時、
セイの膝に深紅の飛沫が散り咲いた。






副長の密命で他出する事が多いため寝るだけの部屋なのだ、と周囲に語っていた
最近の総司の部屋は、幹部棟の最も奥にある狭い一間だった。
昼日中から敷かれたままの布団が部屋の主の暮らしぶりを物語る。

庭に面した障子を開け放った部屋には運び込まれた総司が力なく横たわり、
傍らでは松本が脈を確かめ胸に耳を当てて呼吸音を確認している。
近藤と土方も枕辺で気遣わしげにその様子を見つめていた。

「・・・大丈夫だ。ちっと興奮しすぎただけらしい」

セイが運んできた水桶で手を洗った松本が、濡れた手を拭いながら呟いた。
その言葉に近藤達の肩から力が抜けた。

「にしても、何でお前はそう落ち着いていやがるんだ?」

松本に向けられた胡乱な視線を避けるようにセイが俯く。

「もしや・・・と、思っていたので・・・」

総司の身の回りの事は全てセイがしていた。
着物も襦袢も下帯さえも全て洗濯し、管理していたのだ。
いつからか、その中に手拭いが混じらなくなった。
襟元や袖口に小さな血の染みを見つけた。
巡察へは共に出ているのだから斬り合いの有無はセイも知っているし、もしも自分が
いない時に何かがあろうと返り血を浴びるような武士で無いはずだ。

胸の内に沸き起こる疑心を幾度も否定しながら、密かに総司の様子を窺った。

しつこい風邪が治らない、と零しながら繰り返される乾いた咳。
夜中から明け方に出ている微熱と冷たい寝汗。
隠そうとしていても、あきらかに細くなった食。
そして何よりセイは勿論、他の誰にも近く接しようとしなくなった事。

幼かったセイに父や兄が近づけまいとしていた一部の患者によく似た症状の数々が、
医者の娘として過ごした過去を持つセイの中に確かな回答を示していた。
それを裏付けるような総司の幹部棟移動と頻繁な松本の来訪。

必死に不安を打ち消そうとしていたセイだったが、現実を目の当たりにした時、
やはり・・・という思いに感情が麻痺したように動かなくなった。
今も何故もっと早く気づかなかったのか、という嘆きや悔しさは訪れない。
そんな思いは疑わしいと感じていた日々の中で、散々自分を苛んできたのだから。

今までであればそれとなく察して手を差し伸べてくれた兄たる三番隊組長も、
既に道を違えた者達と共に東山へと移っている。
頼る者も無くひとりきりで不安に怯え、心を食んでゆく恐怖に耐え切れず、
人目を忍んでどれほど苦悶の涙を流したか。
万が一自分が想像している通りなら、我が身にその病を移し代えて欲しいと寺社詣でもした。
けれど恐ろしさに幾度も目を逸らそうとしても、脳裏を離れる事が無かった不安が
とうとう現実として目の前にさらされた時、セイの中で荒れ狂っていたものが静まり、
ただ真っ直ぐに伸びる道だけが見えていた。


「やはり・・・貴女は気づいてましたか・・・」

瞼を閉じたまま、総司がぽつりと呟いた。

貴女にだけは気取らせたく無かったんだけどなぁ、と吐息混じりに部屋を漂った言葉は
切なげにも哀しげにも響いた。

「無理ですよ。沖田先生の事はよく存じあげているんです。多少の違和は隠せても、
 完全に私の目を欺くことなどできません」

「では、私の願いも貴女には判るでしょう?」

閉ざされた瞳はセイを映さず、けれど唇だけを吊り上げて総司が答えを促した。

「はい。先生が私の覚悟をご承知なのと同様に」

「神谷さんっ!」

「総司っ!」

再び激しかけた言葉を留めるように、それまで黙って二人の会話を聞いていた土方が
総司の口元に手を当てた。
呼気をかけないようにという気遣いか、反射的に総司が口を閉ざす。
それを確認した土方がセイを見据えて問いかけた。

「総司にとっての主君が近藤さんであるように、お前は総司を主君と定めていると
 松本法眼に聞いている」

その言葉に総司が大きく目を見開き、セイは黙って頷いた。

「主君である総司が命じているんだ。それでもお前は聞けないと言うのか?」

病の身である総司にこれ以上の心労をかけるつもりかと、土方が鋭く切り込んでくる。
それでもセイは首を縦に振る事ができない。

「・・・主君としてだけじゃねぇ。総司はお前がたった一人、惚れた男なんじゃねぇのか。
 そいつを苦しませるのがお前の本意か?」

繰り返し責められ、セイの表情が苦渋に歪む。
思ってもいなかったセイの恋情を聞かされた総司が、そろりと身を起こした。
けれど何を言えば良いのかわからぬように、幾度も口を開きかけては閉ざす。
自分の惑いだけに捕われて、セイの想いが向かう先など気づきもしなかった
男を見つめる兄分達の眼差しは痛ましげだ。
病などに冒されていなければ、どうにかして想い合っている二人を
結びつける術もあっただろうに。
近藤も土方も叶わぬ繰言と知りながら、それを考えずにはいられなかった。

セイにしても今更自分の想いを隠す気は毛頭無い。
総司を誰よりも何よりも愛しいと思っているのは事実であり、どれほど押し殺そうとも
自分の身の内にいる女子は総司を恋い続けてきたのだから。
けれど武士であった自分もまた真実。
愛しい男に骨の髄まで叩き込まれた武士の誇りは捨てられないのだ。



「副長。この手で・・・」

セイがすぅと差し出した手に男達の視線が集まった。
華奢な手首の先にある小さな手の平は幾度もできては潰れた肉刺のせいで、
所々が盛り上がっている。
細い指の皮膚も固くなっているのが見て取れて、セイが重ねてきた修練を語った。
女子らしいとは言えないそれが、総司の胸を苛んでくる。

「この手で、幾人斬ったかご存知ですか?」

総司がはっとセイの顔を見つめた。

「池田屋で、町筋で、この手は幾人もの“志”を持った武士の命を絶ったのです」

自分の手の平を見つめたまま、淡々とセイの言葉は続く。

「私はそれを悔いてはおりません。互いに武士として己の守りたいもののために、
 命を賭して刃を交わしたのです。向こうも武士で、私も武士でした」

セイが手の平から視線を外し、ひたと土方を見据えた。

「今更私が女子に戻るなど、その者達が許しません。いえ、何よりも私が許せません」

「それは私が貴女を隊に置いていたせいですっ! 貴女の咎は全て私が引き受けます!」

セイの膝に手を伸ばしながら総司が必死に訴える。

「咎などと言われるのは心外です。それに・・・」

セイが首を振り、総司へと視線を移した。

「隊に居る事を選んだのも、刃を揮ったのも、私の意志で私が決めた事です。
 沖田先生が背負うべき事ではありません」

淡々と告げられる言葉の中の真理は男達を圧倒し、誰も口を挟む事ができずにいる。

「“己の信じる誠の為”に刃を揮うからこそ、その剣に悔いは無い。私はそれを全うしたい。
 いいえ、せねばならぬのです。この手の中には幾人もの武士の魂が握られている。
 私が女子に戻るという事は、その武士達を辱める事になるのです。そのような事など
 できるはずもない。だからこそ、この身の性が原因で隊を抜ける時が訪れたなら、
 武士として潔く最後を迎えると、ずっと先から決めておりました」

セイにしても幕臣取立ての話が出た時に様々に考えていた。
このまま己を偽り如身遷として幕臣になれるものか。
けれど富永の家系を調べられれば元が幕臣だった以上、己の素性も即座に
判明してしまうだろう。
そうなれば真っ先に罪に問われるのは総司に決まっている。
好意で力を貸してくれていた松本や南部にも責めが負わされる可能性も否めない。
そうなる前に、己の身の処し方については覚悟を定めていたのだ。

「私の我侭で沖田先生にはご心労をおかけした事、本当に申し訳なく思っております」

総司の眼を見つめたままセイが硬く礼を取る。

「如身遷が悪化したという形で隊を脱ける事に否やはございません。なれど、その先の
 事について皆様方にはご放念いただきたく、重ねてお願いいたします」

つまりは形として隊を抜け、その後に腹を切ろうとも知らぬ振りでいてくれという事だ。

「神谷さんっ! 貴女は女子なんですよっ! 優しくて美しい女子なんです!
 そして何より健やかだ! 身も心も健やかな貴女は修羅の世界の事など忘れ、
 良い人に愛しまれて、穏やかな暮らしの中で可愛い子を授かり慈しんで
 生きていくべきなんです! 誰よりも幸せになるべき人なんです!
 お願いです、お願いですから、貴女だけは幸せになってください・・・」

頑是無い童のようにセイの膝を揺すりながら総司が言葉を重ねる。
徐々に涙が混じる声音に胸を抉られながらセイは微笑んだ。

「私も幸せになりたいと願っています。だからこそ自分の信念を曲げられないのです」


ただ、ひとつだけ捨てられない憂いがあると、胸の奥でそっと呟いた。
血を吐く程になれば病の快癒はほとんど望めない。
土方の例は奇跡と言って良いほど特殊な事だと医者の娘であるセイは知っていた。
それでも傍にいられるなら、その奇跡を信じて力を尽くしもするが、隊に残る事は
許されないのだからこの先セイに出来る事は何も無い。
近藤達が心を砕いて療養のための環境を整えてくれたとしても、一人で病と闘う男を思えば
心が千々に引き裂かれ止め処なく悲鳴が漏れ出ていく。
そんな男にこれ以上苦しみを与えるのかと先程の言葉を翻したくもなる。

けれど知っているから。
誰よりも武士である男の本質を知っているから。
たとえセイが自刃する事で一時自責の念に苛まれようとも、共に過ごした日々を
思い返す中で、師として教えた事を違わず受け取り魂に刻み込んで逝った弟子の事を
誇りに感じてくれるはずだから。
様々に教え諭し、成長を見守ってくれた時を悔やんで欲しくない。
セイには重ねた時間を無かった事になどできないし、総司にもして欲しくない。
四年と少しの時間で、本来ならば在るはずも無い女子の身の内に
武士の魂を育て上げたのだ。
それがどれほど稀有な事か、この誇り高い武士が気づかぬはずもないだろう。
気づいて欲しい。
後には何も残さぬはずの風が、確固たる痕跡を刻みつけたのだという事を。

それだけを信じて、誰よりも慕わしい男を置いて、逝く。


「神谷さん・・・」

どれだけ言葉を尽くそうと覚悟を変えようがないと理解した総司の表情が、
涙に滲むセイの視界の中で歪んで崩れた。

「お体をお労いください、沖田先生。松本法眼の言う事を聞いて、局長や副長を
 困らせないように・・・。不肖の弟子の最後のお願いとお聞き入れください」

膝に置かれたままの総司の手の平を両手で包み込んだセイが、深く深く頭を垂れた。


「はぁ・・・」

その頭上を掠めた溜息には呆れと共に、愚かな弟分達を包み込む気配が含まれていた。











「沖田先生」

障子の向こうからかけられた声に入室を許すと、見慣れた姿が現れた。


「行きますか?」

「はい」

「くれぐれも皆さんのお邪魔にならないように」

聞き飽きるほどに繰り返された言葉にセイが目元だけで笑う。



新選組隊士の幕臣取立てが決まった事でセイが隊を離れ、武士としての自分の末を
決めた時から半年余りが経っていた。
密かに隊を出て腹を切る覚悟を定めていたセイに、呆れ交じりな溜息と共に
隊に残る道を与えてくれたのは土方だった。

「幕臣取立てともなれば幹部は其々何人扶持かの禄を与えられる。つまり自分の家臣、
 小者を雇えるって事だ。近藤さんは妾宅の方で何かと入用だろうし、俺が神谷を
 引き取ってやる」

唐突な土方の言葉に総司もセイもぽかんと口を開いたままとなった。

幸いというべきかセイの如身遷の話は密やかに会津藩は勿論、京の町筋にまで知れている。
その病が進行している状況では幕臣として真っ当な勤めが果たせるとも思えないため、
ひとまず土方個人の雇い人とし、いずれ病平癒の上で改めて新選組隊士とする。

・・・それが土方の筋書きだった。


「まさか土方さんが神谷さんを武士として残すとは思いもしませんでしたけど・・・」

苦笑交じりの総司の言葉にセイも頷いた。
セイが女子だと知らされた時に誰よりも怒り狂い、真っ先に隊から叩き出そうとするのが
土方だろうと誰もが考えていただけに、その男が救いの手を差し伸べた事を
意外に感じない者はいなかった。

けれど事ある毎に対立し何かとぶつかりながらも、それだけ身近に接する機会が多く、
セイの本質を察していた土方だからこそ、隊を出された後のセイの行動など
掌を指すように見えていたのだろう。
武士の魂を持つ娘と、それを心から慈しむ弟分。
どちらを失っても残った方は呼吸をするだけの屍になりかねない。
それを防ぐ方策は一つしか無かった。
結果、セイは土方個人の雇い小姓として隊に残り、実質総司の看護人となった。

それから半年が経った今、近藤の妾宅に療養中の総司を残して
新選組は伏見奉行所へ布陣している。


「先生の事はお孝さんによくお願いしておきましたから」

こちらも何度目になるかわからない言葉を繰り返すセイに、総司が唇を尖らせた。

「そんなに心配なら、ここに残ればいいのに・・・」

「まだ、そんな事を」

セイが困ったように総司の布団の端を叩いた。

「正規の隊士では無くとも私は副長の小姓です。同志は戦場にいる。私が行かずにどうします」

沖田先生の分まで働いて参ります・・・言葉にならない思いは確かに師へと伝わる。

「はぁ・・・もう・・・貴女は本当に頑固で頑固で」

大きな大きな溜息と同時に額に当てられた手の平は薄く骨ばっていた。

「いいですか、神谷さん。私の看護を第一に命じられていた貴女は、満足な稽古が
 出来ていない。貴女の剣技は落ちています。だからけして前線に出ないように」

「はい。劣る腕の私が飛び出せば、仲間達の邪魔になります」

「ええ、貴女がするべき事は」

「怪我をした仲間の手当て、そしていざという時に局長副長の盾となる事」

指揮を執る近藤と土方は最前線に出る事は無いだろうが、それでも敵にとって
最も狙う対象なのは確かだ。
どんな不慮の事象が起きるか予想がつかない以上、もしも総司がその場にいれば
何よりも優先して守るはずだった。
だからこそ、セイにとってもそれが最重要となる。

「無駄に命を捨ててはいけません」

眉根を寄せた総司が痩せた手を差し出した。

「はい」

その上に手の平を重ね、セイが頷く。

「けれど、もしも、もしもどうにもならなくなったとしても」

重ねられた小さな手の平を総司が強く握り締めた。

「必ず戻ってきなさい。私のところへ」

たとえ肉体を置き去りにしようとも絶対に自分の下へ戻って来い、と
繰り返す男の手から伝わる温もりにセイが力強く頷く。

「承知!」

その言葉に満足気な笑みを浮かべた男が握り締めていた手を離した。

「武運を。神谷さん」

「行って参ります。沖田先生」



激動の慶応四年を目前にした初冬の朝。
風の志を魂に刻んだ若い武士が、長く長く続く戦場へと旅立って行った。