道の途中



「やぁぁぁっ!」

「おおっっっ!」

男達の気合が満ちる中、一際大きな音が響いた。

――― パーンッ!

軽い体躯が弾かれて道場の壁際まで転がっていった。






「神谷?」

屯所からいくらも離れていない小川の辺で、小さく背を丸めた影に斎藤が声をかけた。
抱え込んだ膝の上に顎を乗せたままのセイは動かない。

「神谷、どうかしたのか?」

歩み寄りながら再び問いかけると、ようやく気づいたのか慌ててセイが振り返った。

「あ、兄上っ!」

パチパチと眼を瞬く姿へ小さな頷きを返し、斎藤が隣に腰を下ろした。
梅が綻びかけているとはいえ、まだ川風は冷たい。
大分前からこの場所に居たと見えてセイの頬は赤みを帯びている。

「・・・何か、あったか?」

しばらくセイが口を開くのを待っていた斎藤が、切欠を作るように問いかけた。

「・・・・・・・・・・・・」

瞳は力無く川面に向けられているのに、唇だけは硬く噛み締めている弟分の様子に
斎藤が溜息を吐いた。

「鬱屈を胸に留めておいても仕方が無いだろう。腐るだけだぞ」

自分のように己自身の中で整理して、解決する糸口を見つける事を得意とする者もいる。
けれど感情が先走り、坂道を転げ落ちるように暗い迷いの淵に
自分から飛び込んでしまう人間の方が多いのは確かだろう。
この弟分のように。
それでもほんの僅かな糸口から、驚くほど柔軟な思考と伸びやかな心で
健やかな魂を取り戻す事を知っている。
だからこそ手を差し伸べずにいられないのだ、あの男も同様に。

背後から近づいてくる気配を背中に感じ、斎藤が口端を歪めた。

「神谷?」

重ねて促されたセイがぽつりと言葉を落とした。

「一昨日、仮入隊した瀬田さん・・・」

「ああ、肥前脱藩とかいう」

表向きはそうだが、実際は新選組の内情を探ろうという勤皇過激派だと、
幹部から古参の隊士達に伝えられていた。
確証を掴むまでは特に何をする必要も無いが、それとなく瀬田の動きに
注意しておくように、と。
当然セイも知っている。

「今日、道場で相手をしました」

「一番隊に配属されたんだったな」

「はい・・・」

セイがこくりと頷いた。
剣の腕は精鋭部隊に相応しいとは到底言えなかったが、正式入隊までの仮配属であれば
誰からも異論は出ないし、不穏な気配がぷんぷんしている異分子を土方が監視するには
総司の元が最もやりやすいという判断でもあった。

「五合も打ち合えず、弾き飛ばされました・・・」

一際強く吹きつけてきた川風から逃れるように、セイが抱え込んでいた膝頭に
額を押し付けた。
華奢な肩が微かに震えている。
斎藤の脳裏に上背があり、それに見合った筋肉を備えた瀬田の姿が浮かび上がった。
道場で真っ向から打ち合ったなら、セイなど相手になるはずもなかった。

「もし、もしも副長の言うように瀬田さんが敵だったら。真剣で向き合ったなら。
 私は役に立てない! 力が足りない! 大事なモノを守れないっ!!」

袴に吸われくぐもった声だというのに、悲鳴のような叫びは
瀬音を掻き消すほどの強さで響いた。

「どれほど! どれほど鍛錬を積もうと、私などが真の力を得る事はできないのでしょうか!」

肩の震えが大きくなり、合間に嗚咽が混じる。
歯を食い縛り袴を握り締める指先も白く変色していた。

「俺には何も言えん」

剣の技量で劣りはしない、ましてほぼ間違いなく敵と思われる者に
ただ体格差だけで敗れたというなら遣りきれなさは如何ばかりか。
全身で悔しいと、悲しいと語る弟分を斎藤が見つめる。

「だが・・・己で枷をかけたなら、全てはそこで終る」

童としか見えぬ外見には不似合いな強い覚悟を抱えて入隊してきたこの弟分が、
己を磨くためにどれだけ傷だらけになり地を這ってきたかを知っている。
幾つもの季節を背後に佇む男と同様に、この若木を見守って過ごしてきたのだから。
だからこそ、幾度でも同じ迷いを抱え込む姿が愚かしいとは思えない。
そのたびに己の手が守りたいものを確認し、遙か先を歩んでいる自分達に追いつこうと
全力で走り出すのだから。

そんな愛おしい姿を普段は独占している男が、少し距離を置いた位置から様子を窺っている。
まるで自分の出番を待っているように感じられ、斎藤としては些か面白くない。
自分ばかりがセイの兄分ではない事を、たまには思い知らせてやりたいと
意地の悪い思考が頭をもたげ、微かな笑み混じりで口を開いた。

「俺は、御免だがな」

「兄上?」

斎藤には珍しい軽い調子の声音にセイが膝から顔を上げた。

「俺は御免だ。己で己に枷をかけるなど、な。今は未熟だろうと、明日は一寸でも前に進む。
 それが出来ぬ己だなどと思いたくないし、誰であろうと俺に枷を掛ける事など許さない。
 たとえそれが己自身であろうとな。・・・アンタは違うのか、神谷?」

ふっと真顔に戻った斎藤の眼差しが、厳しくセイに問いかけた。
小さな手も細い腕も華奢な体躯も嘆いたところで変わらない。
あるがままを受け入れ、それを踏み越えて前へ進むしかないのだ、と。
嘆くばかりで枷に捕われるというのなら剣を置け、と。

セイが大きく首を振った。

「嫌、ですっ! 私も立ち止まるなど、嫌ですっ! 嫌です、兄上っ!!」

ぽろぽろと透明な雫が周囲に散り、斎藤の袴にも沁みていく。
それを眼の端に見止めながら、いつものように眼を細めた。

「ああ。そうだろうな。何しろアンタは祐馬の弟だ」

そしてアノ男が誰よりも慈しんでいるのだから。
続く言葉を飲み込んで、柔らかな頬を濡らす雫を指先で拭ってやっていた斎藤の背後から、
苦笑交じりの声が投げられた。

「ずるいですねぇ、斎藤さんは。私の出番なんて無いじゃないですか」

ずるいのはどちらだ、と言いたい気持ちを抑えて斎藤が背後を振り返ると、
ようやく会話に加わる気になった男が微苦笑を浮かべていた。
総司の気配に全く気づいていなかったらしいセイは、涙の跡を隠そうというのか
赤く染まっている瞼を幾度も擦っている。


「あのね、神谷さん」

セイを挟んで斎藤とは逆側に総司が腰を下ろす。
必然的にセイに背を向けられた斎藤が眉間に皺を寄せた。
そんな男に悪戯めいた笑みを投げかけて、総司がセイの月代をふわりと撫でた。

「確かに貴女は身が軽く、今日は瀬田さんの剣に容易く弾かれた」

その瞬間の屈辱を思い返したのか、セイが悔しげに唇を噛み締める。

「でもね・・・あれは貴女の力全てではないでしょう?」

ぽんっ、と月代の上で総司の手が跳ね、セイの唇が束縛から解かれた。

「貴女には“貴女の剣”がある。私が教えた“ソレ”は、道場では使えない。
 つまり“貴女”はまだ瀬田さんに負けていないという事です」

総司と修練を重ねている“神谷流”の剣術は、大刀だけを使うものではない。
力に頼るのでも技術に依るのでもなく、臨機応変にその場で最も有効な術を用いて
相手を制する事を目的としている。
それゆえに道場では使用する事など無い。
ここ一番という時に使うための“神谷流”なのだ。

「でも・・・」

セイにしても総司の言っている事はわかる。
けれどやはり悔しさは消えない。

「ええ、貴女の気持ちは最もです」

負けず嫌いなセイの気持ちは総司にも伝わっていた。

「ですが、体躯の差は努力で埋められるものではない」

厳然とした総司の言葉にセイの体が震えた。

「得られないものを望むのは愚かです。ああ、確か会津にありましたよね、そういう言葉が」

「“ならぬものは、ならぬ”。会津では童が最初に教わる事だ」

視線を向けてきた総司に答えた斎藤の言葉に、セイが頬を膨らませた。

「沖田先生は私が童だと仰るのですかっ!」

「そう言われたくなければ、無いもの強請りなどしない事です」

言葉は厳しく、けれど面には甘やかな笑みを載せた総司がセイを覗き込んだ。

「・・・・・・はい・・・」

悔しげに、けれど反論する術も無くセイが頷いた。



「ようやく納得してくれましたか」

安堵の呟きを落とした総司が腰を上げる。

「では行きましょうか」

唐突な言葉にセイだけではなく斎藤までが怪訝な表情を向けた。

「確証が得られたそうです。瀬田さんの処分が決まりました」

総司の声が耳に届いたと同時にセイが弾かれたように立ち上がった。
引き締まった面にはすでに迷いは残っておらず、鬼神の愛弟子の姿がそこにはある。

「私が!」

「ええ、勿論です。道場と実戦の違い、しっかり私に見せてもらいます」

強い意志の満ちたセイの眼差しを確かめて、総司が満足気に口角を上げた。
それを確認したセイが一言断り小川へと走っていった。
微かに頬に残る涙の跡を洗い流し、改めて己に気合を入れるために。

「斎藤さんは?」

「アンタが一緒なんだ、俺が出向く必要は無いだろう」

斎藤が素っ気無く答える。

日頃はあの弟分が人を斬る事を厭うくせに、このような場合には躊躇わない。
小さな迷いが残ってしまえば、いずこかの場面で取り返しのつかない失態を
引き起こす事を危惧するからだろう。
道場での力と実戦で発現するはずの力の差異を、迷いを持たせた瀬田によって
セイ自身に確かめさせる。
幾万の言葉で諭すより余程効果的な迷いの解き方だった。

「相変わらず甘いことだ」

「何か言いましたか?」

掠れた音にしかならなかった呟きを耳ざとく拾った男が薄く笑う。

「・・・いや」

「お待たせいたしました!」

苦々しく視線を背けた斎藤の前でセイがペコリと頭を下げた。
そのまま歩き出そうとしたが動こうとしない斎藤の姿に首を傾げた。

「アンタ達だけで片付けて来い」

無表情に告げられた言葉にセイが二度三度と瞬きを繰り返し、しっかりと頷いた。
自分に求められている事を正しく理解しているのだろう。

「でも・・・」

たっ、と音を立ててセイが斎藤の前に立ち、大きく無骨な手を掬い上げた。

「神谷?」

何をするのかと怪訝な表情の男達の前で、両手にしっかりと握り締めた手を
白い額に押しつけたセイが強く瞼を閉じる。

「兄上の強い心を少しだけ分けてください・・・」

祈るような声音に背後の総司がピクリと眉を動かした。
けれど男が何かを告げる前にセイが斎藤から離れる。

「ありがとうございました、兄上! ご期待に背かぬように働いてまいります!」

「ああ」

言葉は短くとも確かな信頼を受け取って、しなやかな身体が背を向けた。
後を追うように歩き出した男が、一瞬向けてきた視線の中に込めていた感情を
綺麗に受け流し、斎藤が微かに笑う。

あの男にとって近藤と土方のどちらもが大切であるように、いずれ自分という存在が
セイの中で総司に並び立つ可能性がある事に気づいたのだろうか。
華奢な身で自分よりも遙かに大柄な男達と渡り合うなどという、不可能を可能にしてみせる
奇跡を体現した者が目の前に居るのだ。
絶対などは有り得ない。



「いつまでもアンタの独壇場だと思うなよ、沖田さん」

遠ざかる二つの背中の大きい方へと投げられた声は、眷属の苛立ちを感じ取ったのか
冷えた川風によって散り散りに吹き流された。
近づく春が誰にとってのものなのか未だ知る者は無いままに、
陽光だけが柔らかさを増していった。