冴ゆる若月



「神谷さ〜ん!」

十五.六才と見える少年が、廊下を歩むセイの背後から駆け寄った。
本来なら即戦力とならない童の入隊は許さない決まりだが、隊が大きくなるのに従い
局長や副長には小姓が必要となり、一月前に数名の少年隊士が仮入隊を許された。
「童の世話は童に任せる!」という土方の方針で、今はセイが指導係を一手に任じられている。

 「あっ!」

駆け寄る少年と振り向いたセイを副長室から眺めていた総司が声を上げた。
足を止めてくれた指導係の元へと急ごうとした少年が身体の均衡を崩し、
顔から床へと倒れこみかけたのだ。

 「っ!!」

咄嗟に細い腕が伸ばされた。
少年の身体は床に打ちつけられる事も無く、着物の襟を掴んだ腕に支えられている。


 「・・・いつの間に・・・」

溜息のような総司の呟きが土方の耳に届く。
土方にしても弟分の思いが理解できた。

細っこく頼りない体躯と、気ばかり強くて危なっかしい豆鉄砲のような童だったはずが、
今は幼い後輩に手を差し伸べて朗らかな微笑を浮かべている。
僅か数年でのセイの成長は目を見張るばかりと言えよう。

「すっかり先輩隊士の貫禄が付きましたよね、あの人」

「何言ってやがる。まだまだ小童のままだ」

隊内随一の剣技の持ち主であり、一番隊組長として猛者達を率いる目の前の男でさえ
餓鬼扱いする土方だ。
セイの成長をすんなり認めるとも思っていなかった総司が小さく笑う。

「本当に土方さんってば、神谷さんに関しては特に厳しいんですからねぇ」

「別に厳しいんじゃねえ。事実を言ってるだけだ」

「はいはい、そうですか。それでもその小童に頼るって事ですね?」

からかいめいた表情の中から向けられた、一瞬の鋭い視線に気づかぬ顔で土方が頷く。

「ああ、狙いやすい餌の方が相手も食いつくだろうよ」

入京を禁じられている長州系の武士が、ここ最近密かに大勢潜入してきていると
監察方から報告を受けた土方が詳細を調べるように指示を出した。
その過程で山崎がとんでもないものを手に入れてきたのだ。

「さすがは山崎さんですよね。過激派浪士の血判状を入手するなんて」

土方の文机の上に置かれている二つの書状に目を向けた総司が溜息を吐く。

「昨今の長州征伐の不備で幕府がぐらついていると奴らも甘く考えていたんだろう。
 こんなもんを持ったまま一人で出歩くなんざ、どうぞ奪ってくださいと
 言ってるようなもんだ。とはいえ奴らにしても取り戻そうと必死になってくる」

洛中に潜入している過激長州浪士の血判状ともなれば、捕縛対象の名簿のようなものだ。
新選組は勿論、京都守護職の会津藩にとっても有益になる。
同時に相手にとっては自分達の誓いの証明が敵の手にあるという、武士として
極めて不名誉な事態を放置する事などできないのが当然だ。

「現に隊内で怪しい動きをする連中が出ている。自分から間者だと教えてくれるような
 もんだから、今の所は放置してるがな。やつらを上手く使って馬鹿共を一網打尽にする」





「そういう訳で、神谷さんには囮になって貰いますv」

局長室に呼び出されたセイの前で一番隊の組長がにこやかな表情で口にした言葉に、
セイは勿論の事、同行を命じられた相田と山口も眼を見開いた。
上座の近藤と土方でさえ苦笑を浮かべる。

「おい、そんな言い方は無いだろう、総司」

楽しげに言う事ではないだろうと近藤が口を挟んだが、総司の表情は変わらない。

「いいんですよ。ガチガチに緊張してたら上手くいくものも上手くいかなくなります。
 本物は近藤先生が一番隊と三番隊を護衛にして黒谷へと届けます。
 神谷さんは控えの書状を持って近藤先生とは別の道筋で黒谷へと向かってください。
 そちらの護衛は永倉さんの二番隊がつきますが、浪士達に出てきて貰うには
 護衛と知られぬようにかなり離れての事となります。つまり・・・」

「応援が追いつくまで自分達で持ち堪えろ、という事ですね?」

セイの言葉に総司が頷いたが、そこへ山口が異を唱えた。

「ちょっと待ってください、沖田先生。局長と副長が書状を持って出るならどちらが
 本物かと相手を迷わせる事もできるでしょうが、神谷では相手が引っかかるはずは
 ありませんよ。本物を持っているのが局長だなんてバレバレじゃないですか」

「あたりまえだ」

それまで黙っていた土方が口を開いた。

「局長は一番隊三番隊を従えて堀川通を北上し丸太町通へ入って黒谷へと向かう。
 やつらがどれほど馬鹿だろうが、この一行を襲う事は不可能だとわかるだろう」

堀川通の途中には二条城があり、丸太町通には御所がある。
どちらの通りも各藩の藩邸や武家屋敷が点在する最も警備の厳重な領域だ。
そこを精鋭の二隊を従えて進めば、手出しのできる者などいないと相田も山口も頷いた。

「だがやつらにしても空手で解散する気になどならないはずだ。
 頭に血の上った連中が複数いるんだ。何かやらかして溜飲を下げたいと
 思っているところに、手頃な餌がいたなら・・・お前ならどうする?」

「え? あの、とりあえず斬っときます・・・って、ええっ?」

問いかけられた相田が慌てて答えたが、自分の言葉の意味に思い至って顔色を変えた。

「人数が集まって気が大きくなっている連中だ。まして当初の目的を果たせずに
 苛立ってもいる。そこにのこのこと美味そうな餌が現れるんだぜ。
 新選組の阿修羅、池田屋の英雄、って看板を背負った有名人がな」

土方がニヤリと口端を吊り上げた。

「やめてくださいよ、副長。あれは火事場の馬鹿力みたいなもので私の実力ではありません。
 妙な二つ名なんて迷惑なだけです」

不快気なセイだったが、自分が標的とされる事には不満は無いらしい。
それだけでも阿修羅の名を冠されるに値する、と周囲は感じているのだが
本人には全くそんな自覚は無いようだ。

「要するに局長が奴らの血判状を黒谷に届ける、という情報で奴らを集めるが、
 狙いを神谷に変えさせて連中をまとめて誘き出す。そこで一気に片をつける。いいな」

「「「承知」」」

土方の言葉にセイ以下の三人が強い覚悟を見せて頷いた。
信頼の眼差しを向ける近藤の傍らで総司が小さく首を傾げる。

「神谷さん? 初太刀で斬り倒されるような不様な事の無いようにお願いしますね」

「「沖田先生っ!」」

「新選組隊士の名に恥じぬよう、踏ん張らせていただきますっ!」

「はい、頑張ってくださいね」

相田と山口が気色ばみ、セイも同様に眼を吊り上げて怒鳴るように総司へと返答したが、
何を考えているのかわからない一番隊組長は相変わらず楽しげに笑っているだけだった。







「まったく沖田先生は緊張感が無いよなっ!」

前日の事を思い出したのか相田が不満気に唇を尖らせる。

「まぁ、確かになぁ。今日も激励の言葉ひとつ無かったし・・・」

近藤達よりも大回りして黒谷へと向かう関係上、セイ達の方が先に屯所を出てきた。
門を出る前に永倉が配下を整列させながら軽く手を振ってくれた。
自分達がついているから安心しろという事だろう。
けれど総司は出動準備の為か顔を見せる事は無かった。

「沖田先生には沖田先生の勤めがあります。私達も自分の勤めを果たしましょう」

気合を入れるようなセイの言葉に、男達が力強く頷こうとした時だった。
ピリリと刺すような視線を感じた。

書状を懐に収めているセイを真ん中にして、揃いの黒い隊服を着た男達が周囲の気配を探る。
ちょうど町家は途切れ、右側は商家の土蔵の裏側らしい漆喰の壁が連なり、
左手には寺院の塀が続いている。
少し先には河原が見えているが、きっとそこには浪士達が待ち構えているのだろう。
相手の人数が不明である以上、狭い路地で闘う方が人数が少ない側にとって
有利なのは明白だと、幾多の闘争を経験しているセイ達にはわかっている。
けれど今回の目的が敵を全て誘い出し、一網打尽に捕らえる事である以上、
袋小路での各個撃破では姿を見せずに逃走する者も出かねない。
ここは後ろから来ているはずの永倉達を信じて敵を全員引っ張り出すしかないだろうと、
三人の下した判断は一緒だったようだ。
ちらりと眼だけで互いの意志を確認すると同時に、揃って河原へと走り出した。






「あれ?」

鴨川にかかる丸太町橋を足早に東へ渡っていた近藤一行の中から小さな声が上がった。

「沖田先生、あれは神谷達では?」

「はい?」

隊列の先頭にいた総司が部下が指し示した方向へと視線を向けると、下流にある二条橋の
まだ向こうに見覚えのある姿が遠目にだが望見できた。
黒い隊服が三人と、それを取り巻く数倍の人数の男達。
それぞれが抜き放ったのだろう白刃が陽射しを受けて光を放っている。

「始めましたねぇ・・・まあ、あちらはあちらで頑張って貰うとして、
 私達は一刻も早く黒谷へと向かわなくてはいけません。急ぎますよ」

淡々とした上司の言葉に焦ったように部下が返す。

「で、でも、何だか相手が多すぎませんか?」

一番隊から神谷だけでなく相田と山口も外れる関係上、隊士達はおおよその話を
聞かされている。
永倉達が駆けつける事になっていると承知していても、現実に戦闘の様子を眼にすれば
落ち着いてなどいられないのだろう。

「大丈夫ですよ。すぐに二番隊が・・・」

「いや、遅いんじゃないか?」

ぼそりと背後からかけられた声は振り返るまでもなく斎藤のものだ。

「神谷達の足元を見てみろ」

そこにはすでに数人の浪士らしき者が倒れている。

「いくら連中に気づかれないように離れているとはいえ、いい加減永倉さん達の
 姿が現れないのはおかしい」

「局長っ!!」

斎藤の声にかぶって隊列の後尾から町人を連れた隊士が駆けて来た。
その町人は馬上の近藤の横に膝を着いて一息にしゃべり出す。

「手前は山崎先生の手の者でございます。二番隊は有栖川宮様がならず者達に
 襲われている所に行き合わせ、邸までの警護を命ぜられてしまいました。
 このままでは神谷様達が危険故、局長の判断を仰ぐようにと」

有栖川宮と言えば公武合体策の象徴として将軍家茂に降嫁した和宮の許婚だった皇族だ。
許婚を権力づくで奪われた悔しさからか廟堂での反幕の急先鋒であり、
新選組を毛嫌いしている存在でもある。
それが永倉達に警護を命じたという事はなまじな被害ではないのかもしれない。
だからこそ永倉にしても朝廷と幕府の関係悪化を考慮するだけでは無く、神谷達の危険を
承知しているにも関わらず宮一行を振り切る事ができなかったのだろう。

つまり、目の前で多数の浪士に取り巻かれている神谷達には応援が来ないという事だ。






周囲を浪士達に取り巻かれ、セイが瞳を厳しくした。
思っていた以上に多い相手の人数を確認して、河原に飛び出した事を悔やんだくらいだ。

「川を背にして離されない事を第一に考えましょう」

こちらに殺気をぶつけてくる相手に刃を向けながらセイが左右に囁く。

「ああ。永倉先生・・・早く来てくださいよっっっ!」

斬りつけてきた相手の刃を弾き返しながら相田が祈るように口にした。

「しかし血判状は七人だったはずだよな。なんで十人以上いるんだよ」

こちらも白刃を打ち合わせながら山口がぼやく。

「俺に聞くなよっ!」

苛立ちを乗せたような一閃で相田が一人を斬り伏せた。






このままでは目の前で仲間達が斬り殺される。
永倉達の応援が無いと知らされた隊士達に動揺が走った。

――― ざわり

周囲の隊士達からざわめきが起こり、視線が一斉に近藤へと向けられた。

「総司っ! 加勢に行こう!」

馬上から飛び降りた近藤がセイ達の方へと体の向きを変えた。

「しかし、近藤先生! 昨日とは事情が変わっています。一刻も早く書状と共に
 新しい情報を黒谷に知らせなくてはいけないはずです!」

屯所を出る寸前に山崎から新しい情報が届いた。
血判状などに振り回されている一派とは別の者達が、公武合体策を第一義として
廟堂を仕切っている中川宮の襲撃を計画しているというのだ。
長州閥の過激公卿が京から放逐されて久しいとはいえ、事ある毎に
幕府に反発しようとする者達はいまだ多い。
それらを膝下に押さえ込んでいる中川宮は孝明天皇の叔父にあたり、帝への影響力は
計り知れないのだから、その貴人に万一の事があれば取り返しがつかない。
少しでも早く黒谷の松平容保に知らせ、万全の警護体勢を敷いて貰わねばならないのだ。
それに比べればセイ達が相手をしている者達を取り逃がしたところで、
大事の前の小事とさえ言い切れてしまう。

今にも助けに駆け出したい内心を押し込めて、必死に理を説く総司の前に近藤が立った。

「宮様の警護はすでにトシが手配しているはずだ。会津が動くまでなど待っているような
 奴じゃないだろう。それに私は目の前で同志を見殺しにする気はないぞ。
 どうしても早く知らせなくてはいけないというなら、お前が名代で行ってこい」

ぽいっ、と近藤の懐から袱紗に包まれた書状が総司の胸へと投げられた。
その時にはすでに近藤は背を向けている。

「何をしてる」

斎藤に強く肩を叩かれて呆然としていた総司の頭が回りだした。

「えっ、だって、駄目ですよっ! どうして近藤先生が!」

「ああ、そうだ。行くべきは局長じゃない。コレが使いものにならなくなる前にな」

斎藤の指が総司の左手を指した。
それは硬く握り締められて血の気が失せ、白く色が変わっている。
手を開けば食い込んだ爪のせいで深い傷がついている事だろう。

「そんなになるまで何を堪えているんだか知らんが、アンタの考えなんて無駄ばかりだ。
 頭より身体が先に動くのが沖田総司じゃないのか?」

斎藤が無表情に総司の手から書状を取上げた。

「・・・そうですね、ええ、本当に。書状と宮様の件は斎藤さんにお願いします。
 一番隊っ! 局長と共に神谷さん達を助けに行き・・・って、いないっ?」

振り返って命を下そうとした場所に残っていたのは三番隊の隊士だけだった。
一番隊の隊士達は近藤の後を追ってすでに数間先を駆けている。

「ああ、もうっ! みんな勝手なんですからっ!」

言葉と同時に走り出した総司の頬には、ようやくいつもの笑みが浮かんでいた。





「ちくしょうっ、いくら何でも相手が多い」

左右から斬りかかられて幾つもの浅手を負った山口が呻いた。

「永倉先生達はまだか!」

相田もすでに傷だらけだ。
常に二、三人を同時に相手にしているのだから、致命傷を負っていないのが
不思議だと言えよう。

「・・・・・・何かっ、何か不慮の事態がっ、起きたのかもしれませんっ」

セイにしても傷の多さは他の二人と変わらない。
まして最も持久力も膂力も無いのだから、すでに息が上がり限界は見えてきていた。
今の所は相田と山口が自分達の相手の隙を縫ってセイの援護をしてくれているが、
彼らにしてもそろそろ自分の事で精一杯となりつつある。

「不慮の? って事は、応援は来ないって事かよっ!」

セイの投げた可能性に相田が悲鳴のような声を上げた。

「まさか・・・俺達を見殺しにするっていうのか」

「そ、そんなはずがあるはず無いだろう! 神谷がいるんだぜ! 沖田先生が来るさ!」

絶望的な山口の呟きに相田が一縷の希望を提示する。

「なあ、神谷っ!」

数で勝ると高をくくっていた浪士達が、予想外のセイ達の粘り強さに一度包囲の輪を広げ、
体勢を立て直そうとする僅かな空白の間がセイ達の会話を続けさせた。

「いいえっ、沖田先生はっ、来ませんっ」

刃を構えたまま肩で激しく息をするセイの面は静けさを保っている。
誰よりも身近に存在していた男に見捨てられる事を疑いもせずに言い放つ。
そこには諦めも悲嘆も無い。

「永倉先生達がいらっしゃらないという事は、余程の事があったはずです。
 そうであるなら沖田先生は、まず局長を守る事が最優先となります。
 こちらにまで手が回らない以上、自分達で何とかするしかない。
 それが出来ぬなら・・・沖田先生は『死ね』と言われるでしょう。
 ならば神谷は死ぬだけです」

理由など問わない。
隊の幹部である以上、どれほど苦しくとも口に出せない事があり、
動く事が出来ない場合もあるはずだ。
あの男がたやすく自分を見捨てなどするはずがない。
それでも敢えて危地へ送り込んだ自分に助けの手を差し伸べられないというのなら、
これ以外の術が無かったという事なのだ。


「ただ・・・お二人を巻き込んでしまって、申し訳ありません」

この一瞬だけ、セイが切なげに眉根を寄せて唇を噛み締めた。

「・・・ったく仕方がないって事か」

「・・・本当だぜ。俺達が神谷に惚れてるのを知ってて、きっと沖田先生は
 神谷につけたんだぜ?」

「だよなぁ。神谷と一緒の討ち死になら本望だってわかってての事だろうしな」

男二人が揃って溜息を吐き出した。

「あ〜あ。これも定めってもんかよ?」

「逃げてもいいぞ〜?」

山口の軽口を聞いた相田がムッとして刃を構えなおした。

「冗談じゃねぇ! 神谷と一緒に三途の川の渡し舟に乗らなかったら、
 生涯後悔するじゃねぇか!」

「違いない」

仲間達が笑い声を上げる。
絶体絶命だというのに頼もしい男達の声に、セイが唇だけで謝罪の言葉を呟いた。


だが相田達の笑声が周囲を取り巻いていた浪士達の怒りに油を注いだようだ。
多少の損害は覚悟の上とばかりに一気に包囲の輪を縮め、三人を押し包んでくる。
そのまま折り重なるように力任せの刃が振り下ろされた。
どうにかセイだけは守ろうとして、相田と山口が前に立つ。
背後に押しやられたセイも戦いに加わろうとするが、一合二合と降ってくる
刃を受け流す二人の間にセイの入り込む隙は無い。
むしろ無理に動けば危うい緊張の中で、次々と迫る刃に対応している
二人の集中を乱しかねない。

――― キィンッ!

疲労が僅かな狂いをもたらしたのだろうか。
無理な体勢で敵の刃を弾いた相田の大刀が音を立てて折れ砕けた。

「相田さんっ!」

勢いをつけて相田の袖を引き場所を入れ替わったセイが、振り下ろされてきた刃を
頭上で受け止める。
セイよりも遙かに上背のある相手はまだまだ体力的に余裕があるようで、
血走った瞳に愉悦の笑みを浮かべギリギリと刃に力を加えてくる。
セイの肘がミシリと音を立て、膝が、次いで腰が増してくる負荷に悲鳴を上げ出した。

「くっ!」

「神谷っ、横だっ!」

けれど相手は一人ではなく複数いるのだ。
セイを圧している浪士の隣にいた男が嬉々として横薙ぎに刀を振ろうとする。
あれを受ければ細いセイの胴体など瞬時に二つに断たれるだろう。
相田が慌てて脇差を抜き、セイの横へと出ようとした。


「一番隊組長、沖田総司参るっ!!」


高らかな名乗りと同時にセイの横腹に刃を叩き込もうとした男の首が飛び、
返す刀でセイを圧していた男の背が断ち割られた。

「「沖田先生っ!」」

「・・・・・・・・・・・」

歓喜というより驚きに満ちた相田と山口の呼びかけに一瞬だけ笑みを向けた総司が、
眼を見開いたまま固まっているセイにも笑いかけた。

「よく踏ん張りました。あとは私達が片付けます」

その後ろでは近藤を中心として一番隊の隊士達が戦闘を始めていた。

「ど、して、先生達が・・・」

セイの呟きに答える暇も無く総司が加わった新選組は圧倒的な強さで次々と浪士達を
戦闘不能に追い込み、当初の予定通り一網打尽の捕縛に成功したのだった。








捕縛した浪士達は血判状に記されていた人数の倍にも相当していた。
結果的に洛中に潜入していた過激派の多くを捕らえる事ができたという事で、
当初は近藤までもが戦闘に加わっていた事に文句をつけていた土方も
怒りを納めざるをえなくなった。
当然ながら黒谷へは緊急事態に対処した近藤の代理として斎藤が報告を済ませ、
土方による素早い中川宮警護体勢も評価されて万事丸く治まった。

セイや相田、山口はすぐに南部の元へと送られ、全身に刻まれた大小の傷を手当されて
先ほど屯所へ戻って来たところだ。



「沖田先生、ただいま南部先生のところから戻りました」

幹部棟の外れにある濡れ縁に座り、ぼんやりと月を見上げていた総司にセイが声をかけた。

「お帰りなさい」

ふわりと夜気に漂う答えを返しただけで総司は月から視線を外さない。

「お月見ですか?」

「ええ。今夜は何だか今にも消えてしまいそうな細い月だなぁ、って」

まるで今日の貴女の命のように・・・と、胸の中で呟いた総司の左手が
そっと小さな手に取上げられた。

「神谷さん?」

ようやく月からセイへと眼を向けた総司の前には、眉間に皺を寄せた
可愛らしい部下の顔があった。

「本当に、妙な癖をつけちゃいましたね、先生ってば」

硬く握り締めていた左手の指を一本ずつ開かれて、慌てて手を引こうとしたが
華奢な手は容易く振りほどく事ができなかった。
最後の一本まで開かせたセイが仄かな星明りの下で、くっきりと印された
四本の爪跡を眺めている。

「こんなに強く握りこんで。どれだけ力を入れたんですかね、この困った先生は。
 出血までしてるじゃないですか。剣士が手に怪我を負うなんて、どういう了見です?
 いざという時に困るってご自分が一番承知してるはずでしょうに、もう」

ぶつぶつと文句を言いながら準備していた薬箱から薬を出すと、痛まないようにと
気遣いながら傷口に塗ろうとした。

「やめてくださいよっ!」

今度は本気でセイの手を振り払った総司が顔を背ける。

「私は貴女に気遣って貰える人間じゃないんですっ! 山口さん達に聞きましたよ。
 私が死ねと言うなら死ぬだけだと貴女は覚悟を決めていたって! ええ、そうです。
 あの時私は任務を優先しようとしました。貴女を見殺しにするつもりだったんです。
 近藤先生が助けに向かわなければ、私はっ!」

再び総司の左手がセイの手の平に包まれた。

「当然です。それで良いのです。先生は武士だから、そして私の事も武士として
 認めてくださっているから。だから互いの為すべき事を為そうとされただけです。
 私は勿論、相田さんも山口さんもそれは理解してます。恨みになど思いません」

「でもっ!」

「副長に命を下された時にも、ずっと握りこんでましたよね。軽口を叩いていないと
 不安で堪らなかったんだろうと兄上が教えてくださいました」

「斎藤さんってば、また余計な事を・・・」

セイを助けに向かう時の事といい、何もかもを見透かされている気がして総司の頬が歪んだ。

「どんな時でも心を平静に保ち、武士としての勤め、主君への忠義を一番とする。
 沖田先生はそれに従っただけですし、私も先生に教わった事を守ろうとしただけです。
 けれど・・・先生はお優しいから」

セイの細い指先が総司の傷に薬を塗っていく。

「たとえ仕方の無い事であれ、同志を見捨てるのが平気なはずはありません。
 強い精神力で表情や態度には出さずとも、どこかに歪みが出てしまう。
 この傷が私には先生の悲鳴のように思えます」

薬を塗り終えた大きな手の平を持ち上げると、セイがそこに頬を寄せた。
瞼を閉じてそのまま動かない姿は、まるで表に出される事の無い総司の叫びを
傷口から聞き取ろうとしているかのようだ。

「違いますっ! 違う、違うんです!」

硬い腕が強くセイを抱き締めた。
肩に、腰に回った腕が万力のようにぎゅうぎゅうとセイの身体を締めつけてくる。

「こほっ! せ、せんせい、くるし・・・」

「貴女はすっかり武士なのに、私はそれだけじゃなく見てしまうから。
 大事な、愛しい人と思ってしまうから。だから殊更他の隊士よりも厳しく
 考えようとしたんです。助けたくても助けない。守りたくても守らない。
 他の人と同じように、特別な想いを向けないように、と。
 武士としての判断なんかでは無かったんです・・・」

最後の言葉は頼りなく消えてゆき、セイの身体を締めつけていた力も
それに応じて弱くなった。

「南部先生が呆れてました」

「え?」

「たった三人で十人を超す人数を相手に、よくもこの程度で済んだものだと
 治療の合間に呆れ混じりの溜息を何度も落としておいででした。私も同感です。
 組長格の方々ならまだしも普通の平隊士であれば、あそこまで持ち堪えるのは
 不可能だったはずです。あの二人だから、ですよね。どのような状況でも諦めず、
 沖田先生自らが力を認めて常から厳しく指導している相田さんと山口さんを、
 敢えて今回私につけてくださった。特別な想いでもあり、確実に任務を遂行させるための
 武士としての判断でもあります。違いますか?」

「・・・・・・・・・・・・」

「大事で愛しいのは私も同じです」

すりっ、と総司の肩口にセイが額を擦りつけた。

「武士としても女子としても、先生の背を守り、時には隣に並び立ちたいと願っています。
 だからこそ私は強くなりたいのです。迷いも糧にして・・・」

「迷いも糧に・・・ですか?」

「はい」

「斎藤さんに言われましたけど、私が考えると碌な事にならないそうです。今回もですね。
 すっかり貴女の方が大人になってる気がします・・・」

拗ねたような声の響きにセイがくすりと笑みを零した。

「私の兄分はどっかの鬼と違って、とても優しくとても思いやり深い方ですから。
 その薫陶の賜物かもしれませんね!」

「あっ、酷い! 土方さんをそんな風に言うなんて」

「事実を申し上げているだけです。結果は私の成長が証明してますし?」

その言葉に総司の負けず嫌いの虫が蠢き出したようだ。

「いいえ。今回は別にしても、まだまだ私は貴女に負けませんからね。
 追い越されるなんてごめんです!」

「はいはい、そう願いたいです。神谷が付き従うと定めたただ一人の方なんですから」

「・・・・・・・・・・・・」

今まで何度も言われた言葉だったが、今日の言葉は深く総司の胸の奥に沁みた。
一度は失う事を覚悟した存在が、切り捨てられようとした事を承知の上でそれを許し、
まだ自分を『ただ一人の存在』だと言ってくれるのだ。

再び総司の腕に力が篭った。

「またいつか同じ事があるかもしれません」

「はい」

「貴女を守れず、見殺しにするような事が」

「はい」

「それでも、私の心は貴女を失いたくないと叫んでいる事を信じてくれますか?」

「はい」

「世の常としての幸せは与えられない。それでも共にいてくれますか?」

「はい」

「・・・ありがとう」

「はいっ」




互いを見つめて甘やかな時を過ごす事は許されないけれど、
平穏の中であれ命の極限であれ傍らに存在する事ができる。
人の世の男女にとってあたり前の幸せを手放す代わりに得るものの貴重さは
ふたりにしか理解できないだろう。

闇に染まる朔月を翌日に控えた若月が、ふたりの間を繋ぐ糸のように
かそけくも清浄とした光を放っていた。