託されし未来



ドカドカドカと荒々しい足音が近づいてくる。

「おや? 神谷さん?」

真っ先に足音の主の気配に気づいた総司がそちらへと顔を向けたと同時に、
廊下との境の障子が開かれた。

――― すぱーん!

「近藤局長っ!」

局長室に集っていた試衛館三兄弟の視線が一斉に自分へと向けられるが、
セイは全く頓着する様子もなく敷居際に膝をついた。

「・・・神谷。てめえは礼儀ってものをどこに落としてきやがっ」

「局長っ!」

土方の言葉を遮ったセイが、畳の上に両手を揃えて頭を下げた。

「神谷清三郎をっ、天然理心流の門人にお加えくださいっ!」

「「「・・・は?」」」

驚きに眼を見開いた男達に向かってセイが言葉を重ねる。

「私は新選組への入隊以来、剣技に関しては沖田先生にご指導いただいておりますが、
 正統な流派に属しておりません。当然どの流派の基本も学ぶ機会はありませんでした。
 武士にとって剣の魂ともいえる剣流。学ぶのであれば尊敬する局長が宗家であられる
 天然理心流を学びたいと」

「まあ、お待ちなさいよ、神谷さん」

配下の弟分の勢いを削ぐというよりも、むしろセイの剣に向ける真摯さに打たれ、
瞳を潤ませかけている眼前の師匠を落ち着かせるように総司が口を挟んだ。

「あのですね。確かに貴女が入隊した時から最も剣の指導をしたのは私ですけれど、
 貴女の剣は天然理心流じゃないでしょう?」

「ですからっ!」

「落ち着きなさいってば」

勢い込んで反論しようとするセイに総司が苦笑を浮かべる。

「私のように幼い頃に入門するのとは違います。今の貴女であれば、自分にあった剣流を
 選択する事ができるはずです」

「でもっ!」

「天然理心流は、貴女に向かない。私はそう思いますけどね」

天然理心流は華麗さよりも重厚さに重きを置く。
当然の如く必要とされるのは強靭な筋力とそれなりの体躯であり、客観的に見ても
セイに向いた剣流と言い難いのは確かだ。
セイにしてもそんな事は承知の上だ。
それでも選ぶならこれ以外に無いのだと覚悟を決めてこの場にいる。

「っ! 私は沖田先生にお願いしているのではありませんっ! 近藤局長にっ!」

必死の思いで眼を向けた先では近藤が困惑したように視線を空に彷徨わせていた。
先程までは確かにあった「いいとも、神谷君!」と快諾する気配は、
すっかり潜められている。

「局長っ!」

「あ〜、神谷」

何事か考え込む近藤に助け舟を出すように土方がボソリと口を挟む。

「新選組に関しちゃ局長副長の意見が優先されるのは知ってるな?
 それと同様に天然理心流に関しちゃまずは宗家の近藤さん、次いで先代の周斎先生、
 そして次代を継ぐ総司の意見が絶対となる」

つまりは総司が反対している以上、余程の理由が無い限り近藤がセイの入門を
認める事は無いという事だ。
言外の土方の言葉にセイの表情が歪む。

「だいたい、どうして急に入門なんて言い出したんですか?」

今まで一度だって口にした事は無かったはずなのに・・・、と総司に問われて
俯いたセイが事情を語りだした。



数日前の稽古の後で中村五郎に声をかけられた。
伊東派に属してからも、いまだに何かとちょっかいを出してくる中村五郎を
セイとしては煙たく思っていようとも、剣術に関しての話ならば相手もする。

その時に言われたのだ。
流派の絆の強さは親兄弟さえも越えるものだ、と。
眼に見える剣技と精神を支える理念は生半な親愛や情愛、世情の益などを
軽々と凌駕するほどに強固なものなのだ、と。
だから伊東派などという狭い派閥で考えず、北辰一刀流という大きな流派で
共に己を磨かないか・・・そう強硬に誘いを受けた。

セイだって知っている。
近藤・沖田・井上・土方たち、天然理心流に籍を置く門人達の結束の硬さを。
同様に伊東に対して一歩の距離を置こうとしていた山南にしろ、やはり同門ともなれば
何かと係わりあわずにいられなかったのは明白だ。
水と油のように人間性が違う原田だって、やはり同流派の谷とは強い繋がりがある。

それを思えばどこかの流派に属すべきなのは確かかもしれない。
そしてどこか、というならそれは敬愛する男達の元以外考える事などできない。
だからこそこうして懇請しようと思ったのだった。



「なるほど・・・」

近藤が静かに頷く脇では土方が渋い表情をしていた。
中村の神谷に対する執着は前々から耳にしていたが、最近は伊東に傾倒していると
報告を受けていたのですっかり神谷への興味は薄れたと思い込んでいた。
けれど剣流を使って伊東派へ取り込もうとするなど、背後に誰かの意図を感じずにいられない。
まだまだ未熟で幼げな隊士なのは確かだが、神谷の潜在能力と芽吹き始めている
剣士としての才は周知の事だ。
土方にとっては価値など認められるものではないが、多くの隊士達に愛される容姿といい
素直な気性といい、伊東にしてみれば是非とも手に入れたい手駒なのだろう。

何かと騒動の元ともなるし、厄介な病も抱えている。
けれどそれを差し引いても伊東などに掻っ攫われては、いずれこちらにとって
何らかの不利が起こりかねないとも考えられた。
総合的に判断して神谷という駒を手中に置いておく事は、試衛館一派といわれる
自分達にとって不利よりも利の方が大きいはずだ。

そう結論付けた土方が総司へと視線を向ける。

「総司・・・」

「はい、土方さん」

江戸にいた時からの付き合いだ。
阿吽の呼吸でこちらの言いたい事を理解したはずの弟分が、にっこり微笑んで頷き
セイに向き直った。

「神谷さん。やはり私は貴女の天然理心流への入門は反対です」

「総司っ!」

「沖田先生のっ、馬鹿ぁぁぁっ!!」

土方の怒声を背にしたセイが部屋を飛び出して行った。


「馬鹿って、ひどいな、神谷さんってば」

拗ねたように呟いた総司を土方が怒鳴りつける前に近藤が口を開いた。

「総司。きちんと説明をしてあげなければ、神谷君も納得できないだろう?」

「う〜ん、面倒ですねぇ・・・」

「総司」

「は〜い、わかりました。近藤先生達はこれから祇園で会合でしたよね。
 そろそろ行かないと遅れてしまうんじゃないですか?」

「ちっ、神谷のせいで忘れるところだったぜ」

「ああ、支度をしたらすぐに出る」

今日は局長副長揃って、会津藩の重役と会談をする予定になっている。
外出前の一時に飛び込んできた騒ぎの元を脳裏に浮かべ、思い思いの表情になった。

「お土産を楽しみにしてますね〜」

暢気な総司の言葉に土方の眉間に皺が寄るが、近藤はいつもの事と気にもしない。

「ははは、神谷君の機嫌が直るようなものを見繕ってくるとしよう」

「ん、もう。近藤先生は神谷さんに甘いんですからねぇ」

困ったものだと首を振る弟分の様子に近藤が闊達に笑った。






――― ダンダンダンッ!

午後の鍛錬を終えた隊士達がぞろぞろと出て行くのと入れ違いに、セイが足音も荒く
道場へと入ってきた。
まだその場に残っていた者達も、その形相の凄まじさに声をかけられず遠巻きに見ている。
と、その中から一人の隊士がセイに近づいた。
今もっとも顔を見たくない中村の登場にセイの怒気が一層強まる。

「おい、神谷!」

「・・・・・・・・・・・・」

自分を呼ぶ声など聞こえないとばかりにセイは無視を決め込み、道場の壁にかけてある
木刀を手に取った。

「神谷、無視するなよ! こないだの話だけどな、考えてみたか?」

「・・・・・・・・・・・・」

セイが手にした木刀は通常のものではなく、天然理心流で使用される丸太ほどの
太さがあるものだ。
一度二度と軽く振ってから呼吸を整えた。

「伊東先生も歓迎するって言ってくださってるんだ。北辰一刀流の技の多彩さは
 藤堂先生を見てもわかるだろう? お前には天然理心流よりも北辰一刀流の方が向いてる。
 それを江戸で道場を開いていた伊東先生が、直々に指導してくださるんだぞ。
 何も迷う事なんて無いじゃないか」

背後から滔々と語りかけてくる中村の言葉を雑音と切捨て、構えたままの木刀の先に
意識を集中する。
一度瞼を閉じたセイが眼を開くと同時に、鋭い気合が唇から放たれた。

「やっ! やっ! やっ! やっ!」

ぶんっ、ぶんっ、ぶんっ、と重く風を切る音とセイの高い声が重なる。
さしもの中村もそれ以上の言葉を続けられずに口を閉ざす。

――― ぶんっ、ぶんっ

「やっ! やっ!」

何かに憑かれたようなその様子を見て、先程まで隊士達の指導をしていた斎藤が
セイに声をかけようとした。
けれどその一瞬前にセイの傍らに歩み寄った男の姿に動きを止める。

「何をしてるんですかね、貴女は・・・」

――― ぶんっ、ぶんっ

「やっ! やっ!」

敬愛する上司の声も今のセイは聞く気にならない。
意固地と言われようとも、胸の内で渦巻く憤りを発散しなくては誰に対してでも
まともに接する事などできないだろうと思うからだ。


――― ぶんっ、ぶんっ

「やっ! やっ!」

「はあ・・・。まったくもう、困った人なんですから」

盛大な溜息と同時に総司がセイの手から木刀を取上げた。

「っ! 返してください、沖田先生っ!」

「貴女の筋力でこの木刀を振るうのは、腕や肩への負担が大きすぎると
 以前私は言いませんでしたか?」

「以前は以前ですっ! 鍛えなければ筋力だってつきません!」

「鍛える前に壊れるのがオチです。そんなに鍛錬したいなら、私が相手になりますよ」

苛立たしげに睨みつけて来るセイの視線を受け流した総司が木刀を壁に掛け、
代わりに竹刀をセイへと投げた。
自分も一本を手に持ち、構える。

「北辰一刀流も神道無念流も、天然理心流だって、貴女には意味が無いって
 どうしてわからないんでしょうかねぇ」

軽く竹刀を振るった総司がチラリと中村に視線を流した。

「下がっていてくださいね、中村さん。邪魔です」

瞳の中で揺れた冷たい憤りを感知して、無意識に中村の身体が後退する。

――― やぁぁぁっっっ!

それを待っていたようにセイが激しく総司に打ち込んだ。



「中村」

唐突に背後からかけられた声に中村がぎょっと振り向くと、いつの間に近寄っていたのか
無表情な三番隊組長が背後に立っていた。

「何があった」

「お、俺は別に・・・」

「話せ」

少ない言葉の中に込められた重圧に押されて、中村が渋々と事情を語った。

「なるほど・・・それで、あれか・・・」

怒りに燃えたセイと、それを受け流しながら何事かを言い聞かせている総司の姿を
見やりながら、斎藤が呆れたように溜息を吐いた。
その眼前で徐々にセイの打ち込みが変化してゆく。

「ほう。さすがは神谷の師匠というべきか、口より剣の方が早く理解させられるらしいな」

「斎藤先生?」

感心したかの呟きに中村が怪訝な表情を浮かべると、斎藤が説明を始めた。

「あの足さばきは神道無念流だろう、永倉さんが神谷に教えたものだ」

視線の先では総司が縦横に竹刀を振るい、セイが軽やかにそれを避けている。

「今の受け流しは心形刀流、副長が教えたのかもしれんな。あの人はあの流派の
 次期宗家と昵懇にしていたし、江戸では多くの剣術道場で修業をしていたからな」

どんっ、と総司が身体ごとセイへ踏み込み鍔迫り合いへと持ち込もうとするが、
セイは流れるような動きでそれをかわし、逆に攻撃へと転じる。

「かわし身は天然理心流の体術の応用だろうな。そして返しの一撃は北辰一刀流。
 あれは山南さんが繰り返し神谷に教えていたものだ」

他にも小野派一刀流、鏡心明智流、太子流、古武道の馬庭念流や柔術・槍術の応用までと
斎藤の示す剣流は多岐に渡った。
その全てがセイの動きの中に浸潤しているのだ。
中村の背中に鳥肌が立った。

「いうまでも無いだろうが神谷のものは正統な剣技ではない。身の軽いあれが自分の
 特性を生かせるようにと、仲間達が自分の剣流の中から神谷に見合った剣技を
 教えたものだ。それを改めて沖田さんが神谷の使いやすいように工夫していったのだろう。
 だから其々の流派の欠片は残っていても、実際は別物だ」

休む気配も無く続けられるセイ達の打ち合いから眼を離さず、斎藤の言葉は続く。

「だが、どんな偉大な流派であれ、神谷にとってあれ以上のものなど無いだろう。
 自分のためだけに作られた剣流だ。それを越えるものが、どこにある?
 まして邪な理由からの誘いなど、沖田さんが許すはずが無い。二度と、するな」

冷たい言葉の響きが斎藤の怒りをも伝えてきて、中村は表情を強張らせて
道場を飛び出していった。
その姿を眼の端に映した総司の唇が緩やかにつり上がるのを見て、斎藤の眉間に皺が寄る。
結局面倒な事は自分に任せ、美味しい思いをするのはこの腹黒ヒラメなのだと思えば
それも仕方の無い事だろう。

総司とセイの組み稽古はまだ続いている。




愛弟子と孫弟子の姿を笑みを浮かべて見ていた男達がもう一組いた。

「近藤さんよ」

「なんだ、トシ」

通りに面した道場の格子窓越しに、中の様子を窺っていた近藤が朗らかに応える。

「元々あんたは神谷を養子にして、剣流を継がせるつもりだったんだろうが」

「ああ、総司がどうしても嫌だというし、一時は神谷君に任せようとも考えた」

「だったら先刻はどうして入門を認めなかったんだ? 別に今の神谷だって」

「そうだな。今の神谷君の実力なら、入門させればすぐに目録程度は与えても良いだろう」

「それなら」

「だがそれは彼にとってあまり良い事にならない気がしてな」

新選組の中核は天然理心流の人間達によって占められている、それは周知の事実だ。
隊においては実力が全てであり、身分も流派も問わない事となっているが、
やはり出身流派による結束は別のものがある。
江戸で大道場として君臨している三大流派の出身者は人数も多く、かつ矜持も高い。
実戦において力を発揮する天然理心流の実力を認めていても、どうしても多摩の田舎の
芋剣法という意識が強いだろう。
自分達はそんな事は気にしない。
殺伐としたこの動乱の京では、実力が全てだと認識しているからだ。
けれど隊内において出身流派による諍いの種は、常に芽を出す機会を狙っている。

そこに今までどれほど総司に近しいと思われていようと、天然理心流の流派に
正式に属する事の無かったセイが門下となったなら。
これまでセイのためにと心を砕いて教示していた者達にとって、裏切りとまでは思わずとも
けして良い気がしないはずだ。
隊内で慈しまれているセイの立場を思えば、そんな不和の種になどするべきではない。
まして多くの流派の垣根を越えて、最も自分に必要な事を学べる機会を失うなど、
己も剣士であらばこそ愛弟子にさせるべきではないと考える。
それこそが総司がセイに天然理心流の門戸を開けなかった理由だ。

近藤はそんな総司の心底まで過たず読んでいた。


「それにな。伊東さん達が何を言おうと神谷君は総司から離れんよ」

いやに自信満々のその言葉に土方が唇を曲げる。
目下の頭痛の元である、総司とセイの衆道疑惑を思い出したせいだ。
だが近藤はそんな事など些細な話だと笑い飛ばす。

「手塩にかけて教え込んだ愛弟子だ。総司だっておいそれと手放さんだろうしな。
 だいたいがそんな神谷君だからこそ、今は天然理心流に入門するべきじゃないだろう」

「どういう意味だ?」

ふたりの視線の先で総司の一撃を受けたセイの手から竹刀が飛ばされた。
そのまま小柄な隊士に歩み寄った総司が何事かを語りかけ、俯いたセイが小さく
何度も頷いているところを見ると不器用な兄分の説諭は成功したようだ。

そんな光景を微笑ましく眺めていた近藤が呟く。

「彼が入門すれば、即座に切り紙、目録、場合によっては免許まで取得するだろうな。
 だがそれは師によって与えられるべきもので、神谷君にそれを授けるのは
 四代目宗家の俺じゃあない。五代目の仕事だよ」

それを取上げては総司が可哀想だろう、と近藤が笑った。

「・・・・・・・・・全く、あんたは・・・」

一度、眼を見開いた土方が参ったとばかりに苦笑する。

「本当に総司に甘くて困ったもんだ」

「総司だけじゃないぞ。どうやら神谷君にも甘いようだ、俺は」

「いってろ」

呆れたような呟きを残し、先に立って歩き出した土方に近藤が続く。

「まあ、天然理心流に関しては次代に任せて安心のようだし、次の俺達の勤めは
 新選組を立派に育てる事だろうさ。頼りにしてるぞ、トシ」

「おうよ、任せろ」




西の空はすっかり朱金に染まっている。
輝きを反射する家々の瓦屋根の間を縫って、二つの影が屯所を離れる。
大きな背中はまだまだ何かと手のかかる弟分達の成長を楽しみにしつつ、
いずれは自分達の傍らに並び立つのを信じているのだろう。
それを心待ちにするかのようにゆったりと歩を進めていった。