神遊びの夜




「神谷さ〜ん、そんなに怒らないでくださいよぉ」

最前から幾度も繰り返されている言葉を飽きる事無く呟きながら、
木々に覆われた山道を男が歩む。
その数歩前には背後からでもわかるほどの怒気を撒き散らす、小柄な武士の姿があった。

「神谷さんってば〜。あんまり怒ってばかりいると土方さんみたいに
 眉間の皺が消えなくなっちゃいますよ?」

「怒ってるのは、誰のせいですかっ!」

振り向いたセイの顔は急な山道を歩んでいたからだけではなく、
内心から沸々と湧き出る怒りに染まって真っ赤だ。

「あ、赤鬼v」

「沖田先生っ!」

鳥の声しか聞こえない静かな山中に響き渡る怒声にも総司は恐れる様子はなく、
むしろようやく自分を振り向いてくれた事が嬉しいとばかりに笑みを浮かべた。

「だいたいですねっ! どうして私達がっ、こんな山中をっ、歩いていると思ってるんです!」

「ああ、それは道に迷ったからですねぇ」

暢気な返答にセイの肩がぷるぷると震える。

「ど・う・し・て、迷ったんでしょうかね・・・」

「それは勿論!」

自信満々に総司が指を一本立てた。

「秋! だから、ですよねっ」

「違うでしょうがっ!!」



隊の機密を抱えて一人の隊士が脱走したのは一昨日の事だった。
けれど前々から行動を怪しまれていたその隊士には監視がついており、
すぐさま追っ手がかけられた。
今回その役を買って出たのが総司であり、同行を申し出たセイと一番隊の隊士三名が
共にその日のうちに後を追った。

それほど時間を取らずに捕捉できるはずだった脱走者は前もって周到な準備をしていたのか、
あるいは切れ者の協力者がついていたのか、予想以上の早さで京から大和の国へ向かっていた。
大和の国は古から天皇家の父祖の地として尊王の意識が高い。
特に南大和の吉野や十津川郷からは多くの尊王派浪士が輩出されている。
そんな場所に逃げ込まれては厄介だと総司達の気も急いた。

大和街道を南下し、伏見から宇治川を渡り巨椋池の先、田辺のあたりでようやく
脱走者に追いついたのが昨晩遅く。
背後関係など聞き出すべき事を聴取した上で隊規に従って処断した時には、
すでに東の空が白む刻限となっていた。
さすがに強行軍でそのままとんぼ返りは厳しかろうと街道沿いの農家で仮眠の床を借り、
昼過ぎに帰営の途についた一行五名。
けれど現在総司とセイの他に隊士の姿は無い。



「他の皆を先に帰したから、まだ何か大事な役目が残っているかと思ったのに・・・」

ぶつぶつと呟いたセイが総司を睨みつけた。

「街道沿いの茶店で心置きなく甘味を堪能するためだ、なんて。何を考えてるんですか!」

「え〜? だって大和街道ですよ? 栗や柿が名産の土地じゃないですかv
 行きはそれどころじゃなかったじゃないですか、帰りを楽しみにしていたんですよ、私。
 きっと美味しい名物がた〜っぷりあるはずなんです。しかも実りの秋ですしねv」

「まさか、それが目当てで今回の追捕役を名乗り出た、なんて事はありませんよね・・・」

「え? いや、そんな、まさか」

「お・き・た・センセイ?」

ジッと見つめてくるセイの瞳が鋭い光を放つ。

「あ、あはははは・・・」

「そうなんかいっ!」

「そ、そんな事よりっ! この状況をどうにかしないといけませんっ!」

言葉に窮して眼を泳がせた総司が慌てて話題を変えようとするが、むしろそれはやぶ蛇となる。

「ええ。そうですね。この状況。問題はこの状況なんです。どうしてでしょうね・・・」

セイの声が地を這うほどに低くなるのももっともと言えた。

「峠の茶屋で美味しい美味しい干し柿をた〜んまり食べた挙句、その店の老夫婦に
 この山には大粒で余所では味わえないほどに美味な栗が実っていると聞いて、
 私が止めるのにも耳を貸さず、道無き山に分け入って、散々うろつき回った結果・・・」

頭上を完璧に覆う鬱蒼とした木々の中、南も北も判らぬ状況で、現在二人は迷っていたのだ。

「・・・・・・どうなさるおつもりですか、オキタセンセイ?」

限り無く冷ややかな視線と声音に、さすがの総司も身を縮めるしかない。
太陽が見えていればその方向と角度とで、おおよそ自分達のいる位置も判別できるが、
深い山中では色づいた木々の葉が幾重にも重なってそれを許してくれないのだ。
まして山城と大和の境のこの地はなだらかな山々が峰を重ねるように連なっていて、
街道を目指して下っていたはずが、気づけば目の前には登りの斜面があるばかりとなる。

常人よりは体力のあるはずの自分達が散々歩き回り、かなりの時間が経っている。
その証拠に周囲が徐々に翳り始めていた。

「困りましたねぇ」

山中での野宿は危険極まりない。
熊やイノシシなどの獣の類は勿論だが、何より秋も深まろうというこの時節は
夜間になれば急激に気温が低下する。
ろくな備えも無い自分達にとって獣より恐れるべきはそれだろう。

ぽり・・・と見えない空を見上げて総司が頬を掻いた時、それは聞こえた。



“うわぁっ!!”


次いでガサガサと何かを掻き分ける音が響く。

「神谷さんっ!」

「はいっ!!」

総司の呼びかけにセイも即座に応え、二人同時に声の元へと走り出した。




足元を覆う下草を踏み分け、袖や髪に引っかかる小枝を力任せに振り払って
辿り着いた先には十二.三歳と見える少女が蹲っていた。

「大丈夫っ?」

立ち止まって周囲を警戒する総司を追い越したセイが駆け寄って隣にしゃがみこみ、
少女が手の平で抑えている膝を見て眉を顰めた。

「あらら・・・これはまた随分派手にやったものですねぇ」

背後から様子を覗き込んだ総司が苦笑する。
岩か樹の幹かに強く擦りつけたように膝小僧の広い部分を擦りむいていて、
そこから滲んだ血が流れを作りそうなほどになっている。

「痛いよね? 簡単な手当ては今ここでしちゃうけど、貴女の家はどこかな。
 私達が送っていってあげるよ?」

手早く竹筒の水を傷口にかけて血や汚れを流して落としたセイが、懐から出した薬を
塗りながら少女に問いかけると、それまで強く噛んで痛みを堪えていた唇が動いた。

「駄目・・・」

「え?」

「駄目・・・」

ふるふると少女が首を振る。
困惑した表情で自分を見上げてくるセイに頷いた総司が、大きな手の平で少女の頭を撫でた。

「駄目、って何か家に帰れない事情でもあるんですか? 私たちで力になれるなら
 お手伝いしますから、言ってごらんなさい?」

壬生で散々子供達を相手にしてきた男は、大らかな笑みを浮かべて安心感を与える。
それに促されるように少女が事情を語りだした。



「なるほど・・・そう言われれば確かに秋祭りの時期ですものねぇ」

「でも血の穢れを持ち込む事は禁忌だから、怪我をした自分は村に戻れないなんて
 そんなのおかしいですよ。酷いです!」

ガサガサと木々を掻き分けながら、少女の家があるという村へ向かうセイは不満気だ。

「どこの土地にも其々の約束事があるものです。よそ者の私達が口出ししてはいけませんよ」

「わかってます。文句は今だけにしておきますっ!」

ぷんっと膨れた面は先程の少女よりも余程幼げに見えて、総司が小さく噴き出した。

「何を笑ってるんですか、沖田先生っ!」

「いえいえ、別に。それよりも、あれがそうじゃないですかね?」

総司が指差した先には山間に隠れるように、十数軒の小さな家々が散らばって見えていた。




「そういうわけで、アカルさんという女の子は少し上の山小屋にいます。
 今夜の祭りが終ってから戻ると伝えるように頼まれました」

集落の入り口と思われる場所にいた男に総司が事情を話すと、すぐに村長の家へと導かれた。
どうやらアカルは村長の娘だったらしく、今夜の祭礼に使う榊の枝を取りに山へと入り、
たまたま遭遇してしまったイノシシから逃げるうちに足を滑らせて怪我をしたらしい。
幸いイノシシは総司たちの気配を感じてその場から逃げたようで、少女にそれ以上の
怪我がなかったのは運が良かったのだろう。

「それはそれは娘が大層お世話になりましたようで、お礼を申し上げます」

「いえいえ。私達もたまたま通りかかっただけなので・・・」

「失礼ながら、あのような山中をたまたま、ですかな?」

「え〜、それは・・・」

アカルの父という村長は土方とそう変わらない若さに見えた。
その穏やかな面に悪戯めいた笑いを認めて総司が肩を竦め、渋々自分達の置かれた状況を
説明しだした。
隣ではセイが恥かしげに俯いている。

「はははっ、なるほど。それは難儀なさいましたな。大和街道へとご案内するのは
 かまいませんが、もう日も暮れます。今夜はこの村でお休みください。
 ちょうど秋の祭礼も行われますし、他にもお客人はおいでですからご遠慮なさいますな」

そんな迷惑はかけられないし、すぐさま帰営の途につかなくては屯所で待っている鬼に
どれほど怒られるかと様々考えた二人だったが、確かに外は既に夜の気配となっていて
慣れない土地で夜道を歩んだところで、再び迷子になるのが関の山だと判断した。

「ご親切に甘えてしまいますが、よろしくお願いいたします」

折り目正しく頭を下げた二人の前で、村長がゆるゆると笑みを浮かべた。







夕餉を取った後、どうせなら祭りに参加すれば良いと薦められた二人は、村長に連れられて
神社の拝殿へとやってきていた。
小さな村落には不釣合いに大きな拝殿には男女が三十人あまりも集っている。
山里で崇める神の常として御神体は背後の山にあたるのか、拝殿奥の扉が大きく開かれ
幾つか灯された灯明のせいで外の闇の濃さが尚更際立つように見えた。

パタリと入り口の扉が閉じられ、厳かな神事が始まった。
神主らしい男の長々とした祝詞に続き、巫女と見られる若い娘達の神楽舞が供される。
ぐるりと壁際に座らされた参加者達へ次々と神酒が回され、総司もセイも礼儀として
一口づつ口にした。

「あまり聞かない神社の名ですよね・・・」

「ええ」

小さく囁いたセイの言葉に総司が頷く。
神社の入り口にあった石版に書かれた神名は、京でも江戸でも見かけた事の無いものだった。
二人がぼそぼそと言葉を交わしているうちに神楽舞が終盤を迎え、笛の音が一際大きくなる。
それに合わせたように拝殿奥の扉が閉ざされ、篭った熱気が渦を巻きだす。

「・・・沖田先生、なんだか・・・」

セイが不安気に周囲を見回した。
総司も僅かに眉を顰める。
秋祭りならば日野で何度か参加した事がある。
其々の家神に今年の収穫の礼をし、集落で崇める田の神や産土神に収穫物を捧げて
一晩陽気に歌い踊るのだ。
田や山の神に与えられた恩恵を感謝する、底抜けに開放的な祭礼だったのを覚えている。

けれど今の状況は、それと似ていながら異なるものと感じられた。
周囲からチラチラと向けられる、ねばつくような視線。
室内に漂い出す妖しい香が視界を白く濁らせていく。

一度途切れた神楽舞が再び始まった。
けれど今度のものは音曲を伴わず、呪言のような響きを幾層にも重ねて奏でる。


「あそび男(お)とあそび女(め)となり、膝を促して手を携わり、
 神遊びしませ、神遊びしませ」

室内で歌われる声音が徐々に大きくなり、その内容を聞き取った途端
弾かれたように総司が動いた。
セイの手を掴んで社殿を飛び出そうとするが、いつのまにか周囲を
数多の女子達に囲まれていて戸口へと辿り着く事ができない。

「神遊びしませ、あそび男の君」

近づいてきた妙齢の娘がセイの首に腕をかけ、口付けをしようと顔を寄せる。
総司の傍らには二十歳ほどの娘が寄り添い、剥き出しにした己が胸へと
セイから引き離した男の手を導こうとしている。

灯明が燈されていた室内はいつのまにか灯りの数が減らされていて、
至近の相手の顔を識別するのも難しい薄暗さだ。
けれどあちらこちらから漏れ聞こえだした艶めいた吐息や隠微な囁きから
周囲で何が行われているのか、ここに至ってようやくセイにも理解できた。

「おっ、沖田先生っ!」

命に関わるものではないが、異質な危険を感じ取ったセイが総司を呼ぶ。
だが周りを取り巻かれている総司にしても、女子相手に乱暴な事もできずに
困惑の度合いを増すばかりだ。
セイのいる方向から流れてくる香の匂いが甘さを増し、総司の視界が霞みだす。

「神遊びしませ、神遊びしませ」

まるで呪文のように周囲から声が降りかかり、絡みついてくる。
脳髄の中までその言霊が入り込み、セイの膝から力が抜けかけ、傍らの女子に支えられる。
それを了承と見たかのように、女子の唇がセイのそれへと重ねられた。

「んっ・・・」

脳裏に寸前まで眼前にあった赤くぬめりを帯びた唇が浮かぶ。
ゆるゆると唇を舐めくすぐっていた何かが、そろりと口内に侵入しようとする。
違和感と嫌悪感から首を振って逃れようとしても、どういう訳か身体が動かない。
薄く開いた眼には幾たりもの弧を描いた唇が、先刻からの言葉を繰り返す様が見えるばかり。

――― ドンッ!

セイの身体を拘束して、思いのままに桜花の唇を楽しもうとしていた女子が
勢いよく押し退けられた。

「しっかりしなさい、神谷さんっ!」

いつのまにか身体の力を完全に失い、床に膝をついていたセイが引き起こされた。
トロンとした瞳で自分を見つめる部下の姿に、片手を掴んだままで総司が舌打ちする。

「もっと早く気づくべきでした・・・」

薄闇の中で先程総司に突き飛ばされた女子が起き上がり、周囲の女子と共に再び
近づいてくる。

「膝を促して手を携わり、神遊びしませ、あそび男の君」

「神遊びしませ、神遊びしませ」

一段と濃くなった香と共に、しなやかな腕が妖しく振られる。
夕刻から続いていた神楽舞の艶めいた仕草で気づくべきだったのだと総司が唇を噛んだ。
けれど今更そんな事を悔いても意味など無い。
総司に向かって、セイに向かって、いくつも伸びてくる腕を払いのける様に後ずさって
半分正体を失くしている弟分を小脇に抱え、腰から刃を抜き放った。

淡い灯火を弾いて、刀身がギラリと光を放った。

「ひゃあっ!!」

最も近くに居た女子の悲鳴が上がる。

「あなた方の神聖な祭りを血で汚したくはありません。私達は部外者だ。
 そこを退いて、外へ出してください」

静かながら周囲を威圧する怒気の滲んだ言葉に、周囲を取り巻いていた女子達の輪が崩れた。
けれど社殿の入り口を塞いでいる男達は動こうとしない。
その中心に立つ村長が不満気に口を開いた。

「これは神にも許された神事でございますぞ。お武家も庄屋も百姓も、この一夜だけは
 古来からの慣習に従い、あそび男となりあそび女となって神遊びする様を神へと
 奉納する決まりでございます」

「この夜の事は神の庭での遊びなれば、後に何ら障りともなりませぬ」

「神遊びの神事は尊き事。あそび男とあそび女の交合は豊穣への祈り」

村長に続いて両脇にいた男達も言葉を重ねる。
それに勢いを得たように、一時途切れていた女子達の声が再開された。

「神遊びしませ、神遊びしませ、あそび男の君」

「神遊びしませ、神遊びしませ」


「退けっっっ!!」


全ての声を薙ぎ払う暴風のような裂帛の気が社殿を貫いた。
一流の剣客が放つ渾身の殺気を正面からぶつけられた男達が、身を震わせて扉の前から離れる。
村落においては奉斎の執行者としての絶対の権限を持っていようとも、所詮只人でしかない。
現世の鬼神が放つ剣気に抗えようはずもないのだ。

明らかに腰の引けた男達を白刃で牽制しつつ扉の前から完全に退かせた総司が、
セイを俵担ぎに肩に乗せて拝殿から踏み出す。
その背に向かって村長の声がかけられた。

「秋祭りの神事の時に訪れる稀人(まれびと)は、神に選ばれし御方のはず。
 お二方が身の内に取り込んだ香は神降ろしの呪物であり、男も女子も一度は
 神への饗(あえ)として交合せずば呪物は失せず、いずれは心が壊れましょう」

顔色を変えた総司が振り返る。

「それは、どういう意味ですか?」

「言葉のままでございます。貴方様もその若衆と同じく意識が霞み、
 身体が熱を持ってきているのではございますまいか」

村長のいうように、強く神経を研ぎ澄ませていなければ今にも身体を苛む熱に
意識が侵食されそうで、総司が強く奥歯を噛み締めた。
肩の上のセイも同様なのか、先程からしきりに身体を捩じらせている。

「何か、香を抜く術は・・・」

「ございません」

総司の問いかけの途中でにべもない答えが返された。

「神事に従わぬお方に嫌がらせで教えぬのではない。本当にそのような術は無いのです」

村長の瞳からは嘘偽りの気配が見えなかった。
その術が無いのは事実であろう。
むしろ今まで誰一人として、そんな事を考えもしなかったのかもしれない。
この狭い山間の小さな集落で、代々続いてきた神祀りであればそれも納得がいく。

「そ、う、ですか・・・」

徐々に荒くなる呼吸を整えながら総司が頭を下げ、村長に背中を向けた。
背後で拝殿の扉が音を立てて閉じる。
深い宵闇の中、セイを肩に担いだままで総司は再び山へと分け入っていった。




――― がさがさっ

「っ!」

不用意に立ててしまった物音に、扉の内の気配が怯えたように揺れた。

「すみませ〜ん、アカルさん。ちょっと開けていただけませんか?」

間延びした男の声を聞いて、慌てて内側から山小屋の扉が開かれた。

「昼間のお武家さん・・・どうしたん?」

「説明より先に、ちょっとこの人を下ろさせてくださいね」

粗末な小屋は村人が山で作業する時に使うためのものだと、昼間アカルが言っていた。
小屋の隅にある囲炉裏には火が熾され、それが僅かばかりの光源となっている。
その傍らにセイを横たえた総司が、肩を解すようにぐるりと腕を回して息を吐いた。

「いやぁ、参りました。どうやら私達には、貴女方の村の秋祭りは向いていなかったらしく」

少しばかり失礼をしてしまったので、居づらくて・・・と苦笑する男を
アカルがじっと見つめてくる。

「あ、大丈夫ですよ? 祭りは今も続いてますから」

自分達のせいで神の怒りをかうような事態にはなっていないと説明すると、
アカルがほっと肩から力を抜いた。

「ただ・・・ちょっとばかり厄介な事が・・・」

「?」

「神降りの香とやらを吸い込んでしまってるんですよね、私達」

どうやら総司よりもセイの方が香を焚いていた場所に近かったらしく、
今も半ば意識が飛んでいるような状態に見える。
トロンとした瞳と荒い呼吸、上気した頬の色は先程よりも赤味を増して見える。
気遣わしげにその様子を見ているアカルに、総司が慌てて言葉を添えた。

「でも私達は貴女をどうこうとか、ぜったいにしませんからっ!
 武士として、自分達の信念に誓って、間違ってもそのような事はっ」

「あの・・・もしかして、このお武家さんは女子なんじゃ?」

「えっ?」

熱弁をふるう途中で唐突に投げられた言葉に総司が眼を見張る。

「神降りの香は女子の方に強く効く。私はまだ神事に出る許しは出ないけど、
 その程度の事は聞いてるんよ。全身が燃えるように熱くなって、身体に降りた神が
 離れるまで五日でも十日でも意識が戻らんで、そのうちに気が触れる。
 神の力が働いた香だから・・・」

その言葉に総司の顔から血の気が引く。
確かに先程の拝殿内の様子を思い起こせば、男よりも女子の方が強く艶を帯びて
積極的に誘いをかけていた。
村長の話やその場の様子から、あの香は一種の媚薬だと総司にもわかっていた。
だからこそ村長の脅し紛いの言葉にも動じる事が無かったのだ。
どれほど強い媚薬だろうと、時間の経過と共に効果は薄れていく。
現に総司の体内を蝕んでいた熱はすでに薄れ始めている。
けれど反対にセイは一層苦しげに眉を顰め、薄く開いた唇で呼吸をしているのだ。

「ど、どうしたら?」

「・・・・・・」

アカルが困惑もあらわに首を振った。
まだ幼いと言っても良い少女は香の事を多少は耳にしていようとも、
神事に関しての詳しい話を聞いてはいないのだろう。

「神谷さんっ!」

総司に呼びかけられたセイが、ぼんやりと視線を向けた。
潤んだ瞳がもの言いたげに瞬き、ゆるゆると小さな手の平が伸ばされる。

「・・・きた・・・センセ・・・熱・・・い・・・」

はぁ、と吐かれた吐息が常には無く甘い香りを漂わせるのは、総司自身に香の効果が
残っているためでもあるのだろうか。
細い指先が男の無骨な指に絡み、手の平を、手の甲を、撫でるようにくすぐってくる。
神降ろしの香。
その名に違わず、まるでセイの中に異種の何者かが入り込んでいるかのように
総司の目に映った。

「神谷さんっ!」

指先に絡みつくセイの手を振り払い、華奢な身体を抱き起こすと力の限り抱き締めた。

「しっかりしなさい、神谷さん!」

抱擁というよりも抱き潰すかのようなその行為にも、セイが痛みを訴える事は無い。
むしろ総司の背に回された指先が、男の情欲を誘うように蠢いている。

「神谷さん! 貴女の志を思い出しなさい! 何故腰に寸鉄を帯びているのか!」

セイの耳元で総司が叫ぶ。
男女の交合が香の呪縛を消し去る唯一の術だというのなら、自分達にはそれを行う事もできる。
言葉にした事など一度として無いが、総司がただひとり恋情を覚える女子なのだから。
この小屋に向かう途中でも、その術を考えなかったわけではない。

けれどその選択をする事などありえなかった。
着飾れば誰よりも美しいはずのセイが、どれほどの覚悟で武士として暮らしているのか。
そのためにどれだけの努力を重ねてきたのか。
他の誰より最も近くで見つめてきた総司だからこそ、こんな形でセイの中の女子を暴き
身体と心に傷をつける事などできるはずもないのだ。
たとえそのせいでセイの心が神の元へと連れ去られようとも。
セイが自分から武士の神谷清三郎を否定しない限り、総司はセイの意志を守ろうとする。

「神谷さんっ!」

香に侵食されたセイの意識に、総司の叫びが微かに触れる。

「・・・・・・ふっ・・・、う・・・」

空ろにさえ感じられていたセイの瞳の中に、針の先にも満たない何かが瞬いた。
圧倒的な神の威さえも振り払おうとする強い意志の輝き。
それに気づいた総司が言葉に力を込め、香に抗うセイを援護する。

「しっかりしなさい! 神谷さんっ! 貴女は神の供物になる人じゃないっ!
 貴女がその身を捧げるべき真実の相手を、思い出しなさいっ!」

誠の旗の下に集う仲間達の顔を。
それを統べる敬愛する局長の姿を。
武士として暮らしてきた日々の中で培われた精神力を奮い立たせろと、
総司が必死に呼びかける。

「・・・きた・・・せんせ・・・」

総司の背中を這い回っていたセイの指先が、強く強く爪を立てた。
繰り返し自分を飲み込もうとする熱から逃れるための命綱に縋るように。

「・・・っ、はっ! おきた・・・せんせいっ・・・」

悲鳴のような呼び声を聞いて、セイを抱く総司の腕に更に力が加わった。

「己が士道を思い出せっ! 神谷清三郎っ!!」

「沖田先生っ!!」


この瞬間。
双方向から放たれた言霊が絡み合い、セイの内から香の呪縛を消し去った。




翌朝、戻って来たアカルからその夜の出来事を聞いた村長が仄かに笑んだ。

神降ろしの香は男女の交合を求める。
それは光と影、陰と陽、男と女、相反するものの合一によって神の気を満たすべき行為。
穢れ、すなわち“気枯れ”を厭う神にとって、新たな生命をも生み出す男女の交合は
己が統べる土地の力を活性化し、神の力をも増幅させる最善の供儀。

けれど目に見えるばかりの行為が神への供物ではなかった。
人にとって最も理解しやすい形で神事は続いてきたが、神という高次元の存在にとって
最も喜ばしい饗は、精神世界で行われるべきもの。
只人には不可能な精神世界での男女の合一。
強く絡み合った魂の絆が全き円環を作り出し、神への最上の供儀となったのだろう。

無造作なように見えながらけして離すまいと華奢な身体を肩に担いだ武士と、
朦朧としながらも精一杯自分を保とうと首を振っていた小さな武士の姿を思い出す。
神の許しを得た二人に幸多かれと祈りながら、村長は娘の頭を優しく撫で続けた。






「ちょっと沖田先生、いい加減にしてください!」

「は〜い」

「返事ばかりで、先程からちっとも動く様子がないじゃないですか」

「だって昨夜夕餉を食べたっきりで、お腹が空いてるんですよぉ」

「だからって幾つ食べたら気が済むんです!」

「美味しいですよね、このアケビv 嵐山のアケビも美味でしたけど、ここのも格別です。
 ただ種がすごく多いせいで、中々満腹にならないんですよねぇ・・・」

「・・・・・・沖田先生?」

「何より欲しかった大粒の栗は、先程た〜〜〜んと拾っておきましたし。
 さすがにこれは火を通さないと食べられないのが残念ですけど。
 屯所に戻ったら焼き栗にしましょうか。半分ぐらいは甘露煮にしてもいいですね。
 神谷さんの甘露煮は美味しいですしね〜」

「・・・沖田、センセイ?」

「ああっ! 忘れるところでしたよっ。神谷さん、ちょっとこちらへ」

「ナンデスカ?」

――― ちゅっv

「な、ななな、なっ、何をっ!」

「消毒ですv」

「しょっ、しょっ、しょうどくってっ?」

「いくら女子同士だからって、あんな見も知らぬ人に奪われたままじゃ、ねぇ?」

「お、お、沖田せんせいっ?」

「まあまあ。過ぎた事は忘れるとしましょうよ、ねv」

「・・・・・・・・・(ふるふるふる)」

「ふぅ、でもいくら美味しいとはいえ、そろそろアケビにも飽きましたねぇ。
 どっかに山葡萄か柿はありませんかね? 少ぅし向こうへ行ってみませんか、神谷さん?」

「・・・いい加減にしろっ、馬鹿ヒラメッ!!」

鮮やかに色づいた葉を震わせて怒号が響き渡った。



アカルに教わった街道への道からいつの間にか外れてしまう原因を作った男は、
耳元に落とされる怒声など一向に堪える気配もなく、手にしたアケビを口に運ぶ。
傍らで厳しく諫言し続ける小柄な隊士も仁王立ちになったまま、その場を離れる様子は無い。

神に愛でられた二人は、今暫く神の庭先で遊び続けることになりそうだった。




******************  


参考書籍 : 遊女と天皇 / 大和岩雄著   山の神 / 吉野裕子著   Wikipedia / 比売語曾社   他

★ 文中の祭礼は書籍による近畿及び地方祭祀等を参考にしていますが、各種のパーツを寄せ集めたフィクションです。
   当然ながら山城国南部地域でこのような祭りが行われていたわけではありません。
   武蔵国府中や伊予国、常陸国の筑波あたりでは、古代の歌垣から続く似たような祭りがありましたけどね〜(笑)