春告げ
――― ぎっ! ぎぎぃぃっ! けっけっ! ぎぃっ!
耳に障る鳴声に斎藤が足を止めた。
騒がしい隊士部屋の無い幹部棟は、庭の小鳥の声も大きく響く。
廊下の端に寄りゆるりと視線を巡らせてみたが、目当ての姿は見つからない。
――― ぎっ! ぎぃっ!
相変わらず響く鳴声に僅かに目元を綻ばせ、燦々と降り注ぐ春先の陽を振り仰ぐ。
春告げ鳥が美しく鳴くために、血を吐くほどの修練を繰り返す事を知るものは、
そう多くはないだろう。
聞きようによっては耳障りで仕方のないこの鳴声も、後に可憐な音色を
響かせるための準備と思えば微笑ましくもなる。
鬼と呼ばれる事に慣れきったあの男は、意外な趣味を持っていたはずだ。
こうしておぼつかない声で鳴くあの鳥で、一句ひねりたくなるのではないか。
のどかな空気のせいか自分らしくも無い事を考えたな、と苦笑した斎藤が、
庭から視線を引き剥がすのと同時に、騒がしい足音が近づいてきた。
「ですから、沖田先生は心配しすぎですっ!」
「そうじゃないでしょうっ! これは大事なことなんですっ!」
「大丈夫ですってば!」
「どこが大丈夫なんですかっ! ちょっと待ちなさい、神谷さんっ!」
「あっ、兄上っ!」
何やら激しく言い合っていた御神酒徳利の片割れが、逸早く斎藤を見つけると
嬉しげに駆け寄ってきた。
「何を騒いでいるんだ、アンタ達は」
「「聞いてくださいよっ!」」
斎藤の問いに二人の言葉が綺麗に重なった。
「神谷さんってば、相変わらず自分の事に無頓着すぎなんですよっ!」
「沖田先生は、うるさすぎますっ!」
我先にと唇を尖らせた総司が主張すると、セイも負けまいと言葉を重ねる。
「うるさいって事はないでしょう! 誰に聞いたって私と同じ事を言いますよ。
ほらっ、見てください、斎藤さんっ!」
何かを察して袖の内に隠そうとしたセイの手を、一瞬先に掴み取った総司が
斎藤の目の前に突き出した。
あまりの勢いに僅かに身を引いた斎藤の眉が、小さな手の平を見て潜められる。
「神谷・・・」
その身と同じに華奢な造作の手の平は酷く荒れていた。
「こっちは、もっとですっ!」
総司がくるりと手の平を返し、甲側を斎藤に向ける。
細い指の1本1本の関節部分がぱっくりと割れ、中には血が滲んでいるものまである。
それを見とめた斎藤の眉間に深い皺が刻まれた。
――― ぎっ! ぎぃっ!
「この時期は仕方が無いんですっ! もう少し暖かくなったら、こんなのすぐに
治ります、兄上っ!」
乱暴な仕草で総司の手から自分の手を取り戻したセイが、庭から響く
耳障りな声を掻き消す程の声量で斎藤に向かって言い募る。
「治るまで敵は待ってくれませんよっ! ただでさえ握力の弱い貴女なんです。
傷の痛みのせいでいざという時に後れを取ったらどうするつもりですかっ!」
「そんな失態はいたしませんっ!」
「だいたいが掃除や洗濯などは貴女の仕事じゃないでしょう。その為に雇っている
人達もいるんです。貴女が水仕事などせずともっ! う・・・自分の・・・分の
洗濯ぐらいは別ですが・・・でもっ! それ以外の事はする必要などありませんっ!」
何事かに思い至ったのか、途中で言葉を詰まらせた総司だったが、
勢い良く言い切った。
「そうはいきませんっ! 幹部の方達の部屋の掃除や近しい方々の衣類の洗濯など、
他の方に任せられない事だってあるんですっ!」
「だから、それが余計な事だとっ!」
――― ぎっ! ぎぃっ! きょっ!
互いに噛みつかんばかりの言い合いに斎藤が溜息を吐いた。
「少し落ち着け、ふたりとも・・・」
「「だってっ!!」」
またも呼吸の合っている二人に腹も立つが、このまま黙っていてはいつまでも
この言い合いは止まる事がないだろう。
そう判断した斎藤が、一途な瞳で自分を見つめるセイと正面から向き合った。
「神谷。俺も沖田さんと同感だ」
「兄上・・・」
弟分が恨めしげな上目遣いで見てくるが、斎藤も甘い言葉を告げる気はない。
小さく華奢なこの手にかかるのは、多くの仲間達が慈しんでいる神谷清三郎という
隊士の命なのだから。
「アンタは何のためにここにいる? 小者がするような雑事をするためなのか?」
「いいえっ! 私は武士として己の誠を貫く為に、ここにおりますっ!」
「それなら自分の身を常に最善の状態に保つ事が重要だとわかるだろう。
そんな手で」
斎藤の視線がセイの手に向けられる。
「痛みをこらえて振るった剣で、倒せる敵などいると思うな」
淡々と告げられる言葉にセイが眼を瞠り、ついで項垂れた。
「はい。兄上のお言葉、身に沁みました。清三郎が間違っておりました」
しゅんと沈んだ声音を聞いて、斎藤が苦笑しながらセイの肩に手を乗せた。
「全てに懸命なのはアンタの美徳だ。だが優先すべき事を間違えるな」
「はい・・・」
「まぁ、そう落ち込む事はないだろう。以前渡した傷に効く薬を覚えているか?
あいにく今は手持ちが無いが、後で入手してきてやる。それで早く治せ」
「はいっ、兄上! ありがとうございますっ!」
嬉々としたセイの声が廊下に響き、斎藤も僅かに笑みを返した。
――― ぎっ、ぎぃっ! きょっ、けっ、きょっ!
「斎藤さん、ずるい・・・」
恨みがましい声音にそちらへと視線を向ければ、総司がじっとりと睨んでいる。
「何がだ」
「私がいくら言っても神谷さんは聞こうともしなかったのに、斎藤さんの言葉は
いっつもいっつもいっつも! 無条件に聞くんですからっ!」
「それは・・・」
「私の方が、ずぅぅぅぅぅっと神谷さんの事を心配してるのにっ!」
ぷっくりと頬を膨らませた様子は、とても隊内髄一の剣士には見えない。
けれど確かに常にセイの最も近くにいて、どんな小さな異変も見逃さないのが
この男なのだろうとも思う。
その行動の根にある己の感情から目を逸らし続ける野暮天ぶりを考えれば、
斎藤としては業腹で仕方がないが。
「兄上は私の特別なんですからっ!」
火に油を注ぐようなセイの言葉に総司の眉根が吊り上る。
それを見やった斎藤が、本当の特別は違うだろう、と胸の内だけで告げ、
総司が口を開く前に呟いた。
「その程度の傷なら、そう時間もかからず治るだろう」
「あの薬は、本当に効果が高かったですものね」
「どこの店の薬なんですか、斎藤さんっ!」
にこにこと顔を綻ばせるセイの前に半身を割り込ませた総司が、斎藤に問う。
意地悪く教えずにいたい所ではあるが、男の面に滲む必死さを見ては
口を閉ざしたままでいられないあたり、自分も甘いものだと苦笑する。
「あの薬は七条薬師の・・・」
「っ! あの薬種問屋ですかっ! 行きますよっ、神谷さんっ!」
今の今まで膨れていた事も忘れ、総司がセイの手を取って走り出した。
「お、沖田先生っ! ちょっと待って・・・」
慌てたセイの声が遠ざかる。
――― ぎっ! きょっ、けっ! けきょっ! けっ、けきょっ!
斎藤の耳に少しずつ聞き慣れた響きへと変化していく鳴声が届いた。
何があろうと可愛い弟分の身を一番に考える男と、その男の身の回りの世話を
他の誰にも譲れない小柄な隊士の気配はすっかり消えた。
彼らもいずれは麗しく春を告げるのだろうか。
――― きょっ、きょっ、けきょっ! けっ! ぎっ、ぎぃぃぃっ!
そうあって欲しいような、そうで無ければ良いような、複雑な感情を持て余す
斎藤の耳に、若い春告げ鳥の声が響く。
見上げた空は遥かに高く、清々しく青い。
柔らかな春先の日差しは、わけへだてなく鬼の住処にも降り注いでいた。