一番隊の重要使命




いつからだったろうか。

隊をあげての酒宴が開かれると聞いた瞬間に、一番隊の隊士達に
緊張感が走るようになったのは。




島原の角屋は格式高く、客の質も他店とは比較にならぬ名楼だ。
そんな高級揚屋もこの日ばかりは喧騒に満ちていた。
新選組の宴会が行われていたからだ。


「神谷っ! この馬鹿が汁物を零したっ!」

「はいっ、これで拭いといてください」

「神谷っ! こっちの酒が無くなったぞ!」

「ちょっと待っててくださいっ。今、店の方が取りに行ってますから」

本来なら角屋の使用人が働き回るところだが、多人数が一斉に騒ぐとなれば
手の足りない部分が出てくるのは当然の事。
そんな時に重宝される隊の若手の筆頭がセイだった。


「何をしているのだい、清三郎。君は武士なのだから、そんな仕事をしていないで、
 僕の隣で酒を注いでくれれば良いんだよ・・・」

空になった銚子を下げて、そそくさと離れようとしたセイの袖を捕らえた伊東が、
艶めかし気に酒に濡れた己の唇を舐める。
感触まで伝えてきそうなねっとりとした視線に、セイの背筋に鳥肌が立ち
じり、と足が引かれた。

「い、いえっ! 伊東参謀っ、私にはまだ仕事がっ・・・」

「神谷っ! ひとり潰れたっ! ちょっと見てやってくれ!」

「はっ、はいっ! 今行きますっ! すみません、伊東参謀っ!」

一番隊の仲間の呼ぶ声にセイが伊東の手を払い、慌ててそちらへと駆け寄っていく。

「ちっ・・・」

小さな舌打ちを聞いたのは、隣に座していた内海だけだった。



忙しく立ち働いていようとも、セイだってもてなされる側なのは確かである以上、
あちらこちらで酒を勧められればそれを素直に口にしていく。

酒は心身を癒しもするが、同時にそれらを緩ませる効果ももたらす。
日頃は武士として隊士として凛と背筋を伸ばしているセイにしても、
ふとした拍子に素の部分が顔を出す。

「神谷〜。こっちで呑めよ〜!」

「何でお前なんかと呑まなきゃいけないんだよっ!」

――― ドカッ!!

「ぅげっ!」

酔いの威勢を借りてセイの腕をつかみ、自分の懐へ抱え込もうとした中村が、
腹に容赦の欠片も無い一撃をくらってその場に沈んだ。
幹部の伊東に対しては遠慮があって忍の一字に徹そうとも、日頃からうっとおしく
纏わりついてくる中村へは仏心など微塵も無い。

「「「・・・・・・・・・」」」

隙あらばセイに近づこうとしていた男達が、ひくりと表情を固めて視線を逸らし、
あたりに一瞬ヒンヤリとした静寂が漂った。
けれどそんな事に頓着しない者達も存在するのだ。


「あははっ、神谷っ! そんなに怖い顔をしてないでさ、こっちにおいでよ。
 神谷の好きな豆の甘露煮を残しといたよ?」

零れるような笑顔で呼ばれたセイが、今度は素直に藤堂の隣へとちょこんと座った。

「神谷はね〜、可愛いからさ、みんな一緒に飲みたいんだよね〜。
 人気者は大変だv」

にこにこと邪気の無い笑みを浮かべた藤堂に頭を撫でられて、
差し出された小鉢から煮豆を口に運んでいたセイがほんのり頬を染めた。

(((くぅぅぅぅぅぅぅっ!!)))

座敷のあちこちから、声にならない声があがる。


「神谷っ! 何を平助ばっかりに愛想を振り撒いてるんだよ!
 俺達にも酌をしてくれよ〜!」

煮豆を食べ終わったのを見計らったように、原田が背後からセイを抱え込むと
目の前に銚子と盃を突き出した。

「原田先生ってば、もう酔ってらっしゃるんですかぁ?」

「まだまだ酔っちゃいねえって! ただ俺達にも酌をしてくれたって
 いいじゃねぇかって頼んでるんだよぉ・・・なぁ、ぱっつぁん!」

視線を向けられた永倉も頷く。

「そんなに働きまわってねぇで、少しはゆっくり呑めよ、お前も」

桜色の唇の端についていた煮豆の欠片を指先で拭った永倉が、原田から取上げた盃に
酒を満たしてセイの前に差し出した。

「え、えっと・・・」

そろそろ酔いが回ってきた自覚のあるセイが、一瞬視線を泳がせた。
宴席で酔うな、と屯所を出る時に一番隊の仲間達から懇願された事を思い出したからだ。

「おら、俺の酒が呑めねぇなんて言わねぇだろう?」

「は、はい。いただきます・・・」

伊東や中村なら断りもするが、気心の知れている試衛館派の幹部の勧めを
無下に断る事などできない。
素直に飲み干したセイの頭を永倉が撫でた。

「お前は働きすぎだ。慰安の宴席でぐらい気を抜いたって、
 バチはあたらねぇんだからな」

「そうだ、そうだ。今日は俺達とのんびり飲もうぜっ! んで、酌もしてくれ!」

「うんうん。ほら、これも食べなよ。足りなければ、もっとあるからさ」

永倉の言葉に頷いた原田が再びセイの盃に酒を満たし、藤堂が背後にいた
平隊士の膳から、手付かずのままだった煮豆を取上げてセイに勧める。

「先生方・・・」

自分を気遣ってくれる事を感じて、セイの瞳が微かに潤んだ。




「あああああっ! 始まっちまった! あれほど呑むなって言ったのに!」

「酔ってるっ! 酔ってるぞ、神谷のやつっ!」

伊東や三木など要注意としていた人間からは、どうにか上手に引き離す事に
成功していた一番隊も、試衛館一派という神谷自身が気を許している相手には
手を打つのが難しい。

「おいっ、誰かっ! 神谷を回収してこいよっ!」

「無理っ! 無理だって! 斎藤先生まで加わっちまった!」

一番隊の視線の先では新たにセイの隣に腰を下ろした斎藤が、何やら睦まじそうに
弟分と話し込んでいる。
高く響く笑い声が漏れ聞こえるたびに、彼らの背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。

「まずいっ! まずいぞっ!」

「う、うわっ! 神谷っ、斎藤先生に近づき過ぎだって!」

「はっ、離れろっ! 頼むからっ! 離れてくれぇっ!」

どんな話をしているのか、ここまで会話は聞こえてこないが、
セイが斎藤の肩口に甘えるように額をこすりつけている。
ひえっ、と誰かの口から小さな叫びが上がり、数人が苦悶の表情で腕を上下した。
ここが慰労の宴席で、彼らが接待される者達だとは思えない悲壮感が漂った。


「だっ、誰かっ! あの厄介な小動物を捕獲してこいっ!!」

相田の悲鳴のような声が、喉の奥で掠れて放たれた。




先ほどからひんやりと、冷え冷えとした空気が、一番隊の仲間達には感じられる。
それは局長と副長の間で、にこにこと楽しげな笑みを浮かべ続けている
自分達の上司から漂ってくるものだ。


『酒席のあの人は、たいそう無防備になってしまいますからねぇ、
 でも私は近藤先生達のお側から離れられないでしょうし・・・。
 あの人が、他の方々に遊ばれないよう、よろしくお願いしますねv』

なんたって、同じ一番隊の仲間なんですものね・・・と、
島原に出向く前に屯所で言い含められた時の光景が甦る。
穏やかに、ことさら優しげに告げられた言葉とは裏腹に、
その瞳は氷の冷たさを放っていた。



各人の脳裏にその時の上司の眼差しが思い浮かび、揃って身体を震わせた。

「あっ、明日の鍛錬で死にたくなければ、ついてこいっ!
 神谷を回収しに行くぞっ!」

山口の声に反応し、顔を引き攣らせた一番隊の隊士が一斉に立ち上がった。



可愛い可愛い弟分が自分以外の誰かの傍で無防備に笑う事など許せない男は、
覚えた悋気を翌日の鍛錬で晴らす悪癖がある。
その被害に直面する男達の恐怖は強く激しい。

「か、神谷っ! ちょっと来いっ!」

「なんだよ〜! 神谷は今、俺達と呑んでるんだよ?」

「でっ、でもですねっ!」

決死の覚悟で幹部達の間に割り込んだ山口が、藤堂の制止を振り切って
セイの腕を引っ張った。

「ん〜〜〜? 山口さんも一緒に飲みますぅ?」

自分の腕を掴んでいる男を見上げて甘えるように微笑む姿を間近にして、
山口の頬が瞬時に上気した。
日頃自分が女子のようだと揶揄される事を厭い、常に緊張感を持っているセイが、
酒精によってのみ甘く柔らかな気を放つ。
この香気に抗える男はそう多くないだろう。
ましてや元々好意を持っているなら、尚の事。

(くっ、神谷っ! 可愛すぎるぞっ!)

くらりと理性を溶かされかけた山口だったが、一瞬の後に青ざめる。
セイの隣と背後から、強烈な冷気が放たれたからだ。

(ひっ、ひぃぃぃ〜! 沖田先生ばかりか斎藤先生までっ! 勘弁してくださいよっ!)

俺のせいじゃないんですっ、俺が悪いわけじゃないですってば! と胸の内で叫び
半泣きでセイを引き起こした山口が、仲間の手に小さな身体を押しつけて、
斎藤達に頭を下げた。

「神谷はあまり酒に強くないのでっ、これ以上呑ませては明日の隊務に響きますっ!
 体調が万全でない状態ではっ、いつっいかなる不測の事態となるやもわかりませんっ。
 今夜はこのあたりでご勘弁願いますっっっ!」

「なるほど・・・」

チラリと総司に視線を流した斎藤が緩く頷き早く行けとばかりに顎で示すと、
それに力を得たように一番隊はセイを押し包んで部屋の隅へと移動していった。
そこでは酔い覚ましにと冷たい飲み水を用意した仲間達が、心配顔で待ち受けている。

藤堂達にしてもセイが危険な目にあう事など望んでいるはずもないのだから、
今日はここまでと気持ちを切り替えて遊里での武勇伝を語る事に熱を入れ始めた。




その一部始終を離れた位置から見守っていた男が薄く笑う。

「ふふっ、皆さんお疲れ様・・・」

「ん? どうした、総司?」

近藤が微かに漏れた総司の呟きを聞き返す。

「いえ、何でもありません。でも近藤先生、そろそろ私は屯所に戻って良いですか?」

「何だ、まだまだ宴はこれからだろう?」

ようやく興が乗ったのか原田が始めた腹踊りに眼を向けて、近藤が首を傾げた。

「そうなんですけど・・・。あの人が、みなさんに迷惑をかける前に・・・」

総司の視線の先を辿って近藤が大きく頷いた。

「ああ、そうだったな。迷惑などという事はないが、神谷君は酒にあまり強くない。
 しかも今日も最初から働き通しに働いていたようだから、酔いの回りも早いだろう。
 連れて帰って休ませてやりなさい」

慈愛に満ちた近藤の言葉に嬉しげに頬を綻ばせた総司が土方に視線を向けると、
その男も仏頂面ながら小さく頷いた。
酔ったセイを宴席に置いた場合に伊東他のヨコシマ一派の暴走と、試衛館派を
始めとする神谷親派のゴタゴタを煩わしく思っているのと同時に、
最も厄介なヒラメ顔の弟分の悋気を遠ざけたいという意がありありと見えた。

土方の感情など百も承知の弟分は、仄かな笑みを浮かべたままで頭を下げた。

「では、お先に失礼しますね。近藤先生、土方さん」

音も無く立ち上がった総司が一番隊が輪を作っている方へと足を向けた。




「おい、神谷! 大丈夫か?」

「何ですよぅ、相田さんってば〜。私は酔ってなんかいませんよぅ?」

「いや、酔ってるから! とにかく、水を飲め!」

「みずぅ? お腹がたっぷたぷですから、いらないですぅ」

「たぷたぷでも飲め!」

「無理ですってば〜・・・。触ってみますぅ? ほら、たっぷたぷ・・・」

「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!」」」

相田の手を掴んだセイが、自分の腹へと導こうとする。
その腕をグイと握り留めた大きな手の平があった。

「何をやってるんですかねぇ、貴女は・・・」

「「「 ひっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 」」」

一番隊の面々が揃って息を飲み、そのまま氷像のように固まった。
相田に至っては蒼白を通り越して全身をどす黒く染めている。

「わぁいっ、沖田先生っ!!」

その中で唯一、全身を覆う黒い気に動じる事の無かったセイが満面の笑みで
総司を呼び、瞬間的に緩んだ手から解き放たれた腕を大きく広げた。
無垢な幼子よりも無邪気な喜びに溢れた笑みを見て、総司の面も柔らかに解け崩れ
セイの月代に優しく手を置いた。

「屯所に戻りましょうか。貴女、ずいぶん酔ってるみたいですし」

途端にセイの頬が不服そうにぷぅと膨れ、広げていた腕で総司の袷を掴んだ。

「酔ってませんってばぁ」

「だって、お腹がたっぷたぷなんでしょう? 普通はそんなに飲んだら酔いますよ?」

「・・・・・・たっぷたぷです・・・」

「でしょう? それに私も眠いんですよ。だから早く帰って一緒に寝ましょう?」

小首を傾げて甘く問いかけられればセイは頷く事しかできない。
コクリと上下した小さな頭を確かめた男が、華奢な身体を抱き上げた。



一連の会話を氷結したまま見守っていた一番隊の面々が、自分達に向けられた視線に
背筋をしゃんと伸ばす。

「一番隊のみなさん、今日はご苦労様でした。その頑張りを評価して、明日の鍛錬は
 少ぅしだけ緩めにしてあげましょうかね。加減ができれば、ですけど」

ほら、私ってば剣術になると手を抜く事ができなくなっちゃいますから・・・、と
セイに向けるのとは顕かに異なる種類の笑みを浮かべた一番隊組長が呟く。

「ああ、そうだ。神谷さんが斎藤さんに甘えていた分は貸しにしてあげますから、
 次もこの人の事、お願いしますね・・・ふふっ」

くすくすと喉の奥で笑いを噛み殺しながら一番隊組長が彼らの視界から消えた。



未だ氷結から解かれず、呆然としたまま彼らを見送った一番隊の受難がどこまで続くのか。
その答えは腹黒ヒラメの胸三寸。
あるいは神谷清三郎の酔い加減次第、・・・かもしれない。