故郷はるか




「あれ? 沖田先生、こんなところで何をなさってるんですか?」

幹部棟の廊下でボンヤリ座っている上司を見つけてセイが声をかけた。

「ああ、神谷さん。貴女こそ・・・」

「私は洗濯物を干し終わったので、局長と副長の部屋の掃除をしにきたんですけど」

「それは後にした方が良いですよ」

総司がいたずら気に微笑んでセイの手を引き、隣に座らせた。

「ほら・・・」

少し庭へ身体を倒し、障子の開け放たれた副長室の中を指差す。
その仕草に釣られたようにセイもそちらを覗き込むと、文机に向かう
土方の背中が見えた。

「えぇと、あれが何か?」

土方が部屋で文机に向かっている事などいつもの事で、今更遠慮する必要も無い。
眉間に皺を寄せて書類を裁いている鬼の周囲に散らかった反故紙を拾い集め、
ささっと周囲に雑巾をかけて部屋から出れば良いだけの事。
いつもと変わらぬ風景の中に総司の言いたい事が見つからず、セイが首を傾げた。

「ちゃんと見てくださいよ、神谷さん。土方さんの後ろ」

笑いを含んだ声に再び副長室を覗き込むと、土方の背後にきちりと端座した
男の姿があった。

「あ、井上先生」

ようやくわかったかとばかりに総司が大きく頷いた。

「ほら、先日多摩から飛脚が来たでしょう? あれでバレちゃったんですよね」

「ばれた?」




「土方さん。忙しいからって、郷里へ送る正月の挨拶も私に代筆させてたでしょう?」

そういえば、とセイがその時の事を思いだした。

確かに年末年始は近藤が京都守護職や所司代関係のお偉いさんへの挨拶回りで
屯所を不在にしており、屯所へ挨拶に来る人々への応対で土方は多忙を極めていた。
そんな中、悠長に年賀の挨拶など書いていられるか! と代筆を命じられた総司が
ブツブツと文句を言いながら、あちこちへ文を書いていた姿を覚えている。

「あの時に私は言ったんですよ。他の所へは良いとしても、多摩にだけはきちんと
 自分で書かないとまずいんじゃないですか、って」

それに関する口論もセイは聞き覚えがある。
いつになく総司の口ぶりが強い調子だったのだ。

「神谷さんも知ってると思いますけど、私達が京へ来た当初は預かり先も
 決まってないし、浪士隊を抜けちゃったせいでお金も無いしで
 その日食べる物にも事欠く有り様でしたしねぇ」

総司が遠い目で空を見上げた。

「なんとか宿だけは八木さん達のご好意で確保できてましたけど、
 あの頃に日野の彦五郎さんや小島先生からの善意の仕送りが無かったら
 どうなった事か」

「私が入隊した頃も、貧乏のどん底でしたもんねぇ・・・」

セイもしみじみと述懐する。
本来ならば1枚分の厚さの沢庵を3枚にも5枚にも薄く切り、米はとろとろの粥にして
嵩を増し、なんとか腹を誤魔化すのが常態だったのだ。
幹部連中が総出で畑に肥やしを撒いていた姿さえ思い出してしまった。

「あれだって多摩の方々のおかげで口にできたものなんですよ。近藤先生の志を
 理解して支えてくださった皆さんには、どれだけ感謝してもしきれません」

総司がそっと東の方角へと視線を向けた。
胸の内では感謝の思いを込めて手を合わせているのかもしれない。



「だというのに、ですよ!」

急にクルリとセイへ向き直った総司が口調を変えた。

「恩知らずにも土方さんってば、故郷への文などなおざりで! 昨年なんて
『詳しい事は近藤さんの文を読んでくれ』なんていう短文で済ませてたらしいんです。
 挙句に年賀の挨拶さえ私の代筆だなんて!」

年に幾度かそれぞれが家族や係累へと文を書き、まとめて飛脚に頼んでいたが、
まさか土方がそんないい加減な事を書いていたとは総司もセイも思いもしなかった。
さすがにセイが眉を吊り上げる。

「それはいくら何でも失礼ですよね。遠く離れた京の地で、弟がどんな暮らしをしているか、
 副長の姉上だって心配なさってるでしょうに」

「ええ、もちろんです! だからさすがに今回は彦五郎さん、土方さんの姉上の
 ご主人ですが、その方が近藤先生に書いてきたらしいんです」

「なんて?」

「『これ以上、ノブを怒らせないように歳三へ伝えて欲しい』って」

「・・・・・・怒ってるんですか?」

「らしいですよ。近藤先生にとって頭の上がらない女性が三人いるんですけどね。
 土方さんの姉上はその一人だし・・・」

総司の顔が微妙に引き攣り気味なところを見ると、この男にしても近藤同様なの
だろうとセイは心内で頷いた。
多摩への不義理だ何だという事もあるだろうが、実際は土方の姉の怒りを
最も恐れているらしい。

「ちなみに他の二人の方は?」

「・・・周斎先生のおかみさんと・・・・・・私の姉です」

「なるほど」

さらに微妙に複雑な表情の総司を眺めながら、セイも強張った笑みを浮かべた。
周斎の妻エイの激烈さに関しては色々と聞いているが、土方と総司の姉となれば
きっとやんわりと優しく真綿で首を絞めるように追い詰めてくるのだろう。
時折自分を気遣って向けられる里乃の静かな怒りが思い出された。

土方や総司が手も足も出ない姉達だ。
近藤が太刀打ちできようはずもない。



「それで、アレですか」

心に浮かんだ恐怖感を振り払うように、セイが再び土方の背へと目を向けた。

「ええ、そうです。『別に書く事なんて無いし、説教されたからって慌てて
 詫び状を出すようで嫌だ』とゴネる土方さんを近藤先生が一喝して」


――― 紛れもない詫び状だ! お前は立場さえ得れば世話になった恩を忘れて、
      思い上がるような男だったのかっ!

「井上さんも怒ってましたしね」

――― そんな不義理を働くなんて道理が通らんだろう。書き終わるまでワシが
      見張るからな。


「うわぁ」

きっと総司も批難に満ちた目を向けてその場にいたのだろう。
孤立無援となった土方を想像してセイが苦笑した。
事情を聞けばいつもと変わらぬ背中が寺子屋の宿題を忘れて叱られ、
必死に罰の課題をこなす童のように見えてきた。

くすくすと喉の奥で笑いを噛み殺したセイが、ふと隣の男を見上げる。

「そういえば沖田先生は隊の書類は苦手で逃げ回るのに、江戸への文は
 とても丁寧に書いてらっしゃいますよね」

「あはは、だって私これでも試衛館の師範代ですから」

パチリとひとつ瞬きをしたセイの様子を見て、総司が話を続ける。

「試衛館の道場主は近藤先生でしょう? そして私はそれに次ぐ立場だったんです。
 本来は近藤先生が道場を離れた場合、私が代理として道場を守る責務があった。
 けれどどうしても近藤先生と一緒に来たかったから、道場は彦五郎さん達に
 お任せしてきたんですよ」

困ったような複雑な笑みを総司が浮かべた。

「天然理心流を正しく伝える立場の私達ですが、志のために道場を離れている。
 それでもね、忘れたりしてませんよ。そっちはどうですか、って残った門弟達の
 様子を問い、守ってくれてる方々にお礼を伝えるのは当然の務めでしょう?」

「そうですね」

幼い頃から内弟子として家族同様に暮らしてきた試衛館だ。
総司にしても愛着は人一倍持っている。
だからずっとこのままで良いとは思っていない。

「いつか平和になって、京の町に私の刀が不要になったら・・・」

「戻られるのですか? 江戸へ・・・」

セイが涙の滲んだ目で総司を見上げた。

「う〜ん、そうですねぇ。きちんとした後継を育てなくてはいけないと思いますから、
 いずれは・・・」

その言葉に俯いたセイの頭に大きな手が乗せられ、一度二度と弾んだ。

「その時には、京でできた一番弟子を連れて戻るのも良いかもしれませんね」

「っ!!」

がばりと勢い良く顔を上げると、少し照れたような微笑が迎えてくれる。

「行きますか?」

「はいっ! もちろんっ!」

威勢の良い返答を聞いて満足気に笑った男が、可愛い一番弟子の頭を撫でていると、
怒りを含んだ声が二人の頭上に降りかかった。



「てめぇら・・・人が不愉快極まりない仕事をこなしてる時に、こんな所で
 じゃれてるんじゃねえ!」

「おや、土方さん。文は書き終えたんですか?」

土方の怒声などどこ吹く風といった風情で総司が首を傾げた。

「あんなもん、適当に書いちまえば」

「こら、トシさん。適当とは何事だ! だいたいが宛名が書いてないじゃないか」

土方が書いたと思われる文を手にした井上が室内から顔を出し、鬼と呼ばれる男の
襟首を掴んで部屋へと引き戻す。

「宛名ぐらい書いといてくれたっていいじゃねぇか、源さん」

「何を言っとる! 全てきっちり整えるようにと、若先生のご命令だった
 はずじゃろうが。面倒がらずに心を込めて書きなさい」

「くっそぉ」



目の前の掛け合いを唖然と見ていたセイがクスクスと笑いながら腰を上げた。

「神谷さん?」

「副長達にお茶を用意してきますね。一仕事終えて一服なさりたいでしょうし」

「あ、だったら私の秘蔵のお菓子も提供しますよ。皆でお茶にしませんか?」

「いいですね」

嬉々として足取りも軽い男に、セイが思案顔を向けた。

「近藤局長はお忙しいでしょうか。お誘いしたらお邪魔かなぁ」

「神谷さんの美味しいお茶と私の秘蔵のお菓子が揃えば、近藤先生だって
 喜んで参加してくださるに決まってますよ」

「そうですか?」

「もちろんです!」



二人分の軽い足音が幹部棟から離れていく。

鬼副長の不義理から転がり出した不確定な未来の約束。
叶うか叶わぬかもわからないその約束は、ふたりの心に優しい記憶として
残り続ける事だろう。