迷い路
視界を覆う白い光は、閃く白刃が陽光を弾く光。
否応なく自らの生に馴染んだその光が、冷たく空を裂き、愛しい男の首へと吸い込まれていく。
やめて、やめて、やめて、やめて―――!
駆け寄ってその白刃を受けてでも庇いたいのに、縛められたように身体は動かない。
――――――ッ!!
声にならない悲鳴が、喉の奥を迸る。
「先―――ッ!!!」
声とともに、がばりと身を起こした現状に、セイの意識は混乱する。
「あ………れ……?」
ゆっくりと頭をめぐらせて周りを見渡せば白刃を閃めかせていたはずの陽光はそこにはなく、静謐に覆われた夜闇にほのかに響き渡る虫の音と、慣れ親しんだ隊の仲間の寝息と気配に満たされた、西本願寺の1番隊の隊士部屋。
「……ゆ……夢……」
がたがたと震える指で口元を覆いながら、ようやく現実を取り戻す。
肺腑の中の空気をすべて吐き尽くすかのように、大きく息をついた。
「……神谷さん?」
常とは異なる気配に気づいたのか、セイの隣で休んでいた総司が眠りの淵からつかの間意識を呼び戻し、飛び起きた姿勢のまま身体を硬直させているセイの名を呼ばう。
他の隊士の眠りを妨げぬよう、寝床を並べるセイにだけ聴こえるほどの小さな声。
けれどもセイの意識を引き戻すには充分で、ぴくりと肩を揺らすと、寝床に横たわったまま自分に寝ぼけ眼を向ける青年と視線を合わせた。
意識が覚醒しきってはいないのだろう、どこか虚ろな眼差しが、夢の中の総司の姿と重なる。
振り下ろされる刃を、諾々と受け入れようとしていた、あの姿と。
布団の外に投げ出されていた総司の手を、前触れもなくぎゅっと握った。
「!?かかかか神谷さんっ!?」
少女のあまりに突然な行動に寝ぼけた意識が完全に覚醒し、慌てたように呂律の回らなくなる総司に構わず、セイはその総司の手を自らの頬に宛がった。
永く刀を持ち続けているがために硬くごつごつとした肌触りの、けれど熱い血潮の通う証の温かな掌。
「………生きてる……」
ぽつりと囁くようにセイの口から零れ落ちた言葉に、総司の混乱した頭も落ち着きを取り戻す。
そして凍りついたように硬直していたセイの先ほどまでの様子にも合点がいった。
「わたしが死んだ夢でも見ましたか……?」
尋ねた言葉にセイはすぐには反応を返さなかったが、ややあって無言でこくりと頷く。
総司は横たえていた身体を起こし、空いた左手でセイを優しく抱きこんだ。
子供をあやすように月代の入った頭を軽く撫で、セイを安心させるように微笑を浮かべる。
「そう簡単に、私は死にはしませんよ」
セイは何も言わずにふるふると首を横に振って、総司の右手をぎゅっと握りこむ。
怯える自分を宥めるためにかけられるその言葉が、けして嘘でないことはセイ自身よくわかっている。
刀を持ち風のように駆けるこの男が、どれほど強い鬼かも身に染みて知っている。
―――ああ、けれど。
―――その鬼を殺すのは、私なのだ。
「おい総司、神谷のやつを見なかったか」
副長室からひょいと顔だけ覗かせて、廊を通りがかった総司を土方が呼び止めた。
「神谷さんなら、近藤先生の所用で松本法眼のところへ出てますけど」
「なんだ、近藤さんも法眼に用か。だったら一緒に頼みゃ一回で済んだのにな。
―――わりぃがその辺ぶらついてるやつ誰か捕まえて、この書状を法眼のところに渡しにやってくれ」
土方が懐から出した書状を受け取った総司は、つとめて平静に笑って言った。
「―――じゃあ、わたしが行って来ますよ」
「いくらなんでも一番隊組長を使いっぱに出すほど大層な用事じゃねえぞ」
「いいんですよ。ここしばらく行く時間とれなかったんで久々に甘味処に行きたいんです。
誰かと一緒のほうがずっと美味しいのに、神谷さん以外は誰も付き合ってくれないんですもん。
だから帰りに誘って寄ってきます」
この甘味馬鹿が、と呆れた悪態を背に受けて、総司は屯所の門を出る。
松本法眼はセイの性別を知っている。局長の所用での訪いとは言え、そこで相談事がないとは限らない。
そも近藤や土方が松本法眼へ所用の際は可能な限りまずセイに使いを頼むのは、如心遷と女子という、承知の事実の相違はあるものの、そこに理由があるのだろうと、総司も察していた。
減らせるものなら極力ほかの隊士とかちあう事態は減らしておきたかった。
「………それに法眼なら、最近神谷さんが元気ない理由もわかるかもしれませんしね……」
ぼそりと独りごちて、総司は法眼の在所へと足を向けた。
セイの様子がおかしいと総司が気づいたのは数日前。
けして普段の行動に不審があるわけではないが、以前と比べて明確に違うことがひとつある。
―――最近、神谷さんの笑顔を見てない。
予兆と思える出来事の心当たりはあった。
悪夢に魘されてセイが飛び起きたあの夜を境に、彼女はいつも何かを考え込むように言葉すくなになっていた。
「……でも、私が死んだ夢なんて、初めてのはずはないですしねぇ……」
初めて人を斬った夜、命の重みに震えていたセイ。
違背の誅伐であったことも災いし、それからしばらくの間は仲間を斬る夢に悩まされていたことを知っている。
だがそれを乗り越え、阿修羅と呼ばれるまでに強く成長したこともまた、総司は見守ってきた。
だからきっと、気鬱になっているのは他に要因があるはずなのだが、総司にはその見当がつかない。
いつのまにか傍に馴染んだお日様のような笑顔がないと、なんとも心寂しい。
「……神谷さんの、笑顔が見たいなぁ……」
「―――そりゃまたどういう風の吹き回しだ、セイ」
総司は戸に手をかけようとして、薄く開いた隙間から漏れ聴こえた松本の声にその手を止めた。
「ご助力、お願いできますか」
「……まあ、俺は前々から隊を抜けさせたいと思っていたからな。
おめえが自分から抜けるというなら、協力するにやぶさかじゃねえが」
心の臓を鷲掴みにされたように、どくりと嫌な鼓動が身体に響く。
―――今、法眼はなんと言った?
「ありがとうございます」
法眼に深々と頭を下げ、感謝の言葉を紡ぐセイとは距離にしてみれば三間もない。
けれど総司にはそれが十倍にも感じられた。
木戸越しに、総司は全身を耳にして中の様子を伺う。
「そのシケたツラ見るに、嫁ぎてぇからとかそんなめでてぇ理由じゃあなさそうだな。
―――沖田と仲違いでもしたか」
「いいえ」
心当たりはないがなにか自分に不始末があったのだろうかと総司の胸に過ぎった疑念は、一言の元に否定される。
「私のこの命、髪のひとすじ骨のひとかけら血のひとしずくまで、すべて沖田先生の誠を成す為の一助としてあると定めた決意に、些かの揺らぎもありません」
「ならば、何故だ」
セイを目の前にしている松本にも、伏しているセイの表情は伺えない。
だが揃えた指先は強張り、小さな肩は震えているのを見れば、想像にたやすいこと。
「―――私が、沖田先生の障りになるためです」
あの夜見た夢が、深く突き刺さる棘となって、セイの心にじくじくと痛みを呼んでいる。
あの光景が戦場でのことなら、こうも心に澱が溜まることもなかっただろう。
風のように駆ける鬼神に髪一筋の傷すら負わすことなく我が身を楯としてでも守って見せようとも。
けれどもあれは、処断の刃。
「―――万々一、私の正体が露見したならば、罪を問われるのは私ひとりではないと……沖田先生が諸共に裁かれてしまうのだと、思い至ったのです」
セイの性別を知りながら隠し、隊を、ひいては近藤と土方をたばかった罪で総司が裁かれた、夢。
あれは夢だと、現のことではないとわかってはいる。
けれどいつか現実にならぬと、誰に保証のできることか。
この身ひとつのことすら、総司の助力なしでは隠し通すことなど叶わない。
それでも罪と知りながらなお隊に留まり続けたのは、すべての責が己にあると承知していたからだ。裁かれるべきは自分ひとりと。
そんな決意も覚悟も、処断の際には忖度されない可能性など、思い至りもせずに。
―――守ると決めたただひとりにこそ、秘密を負わせてはならなかった。
「局長や副長を騙すことが沖田先生の本意であったはずはありません。
罪に踏み込ませたのは、私です。裁かれる危険を背負わせたのは、私なのです」
我が身こそが愛しい者を怨獄におとす枷となるなど耐え難いこと。
だが隊を出れば、この身をもってでも総司を守りたいという最大の望みを貫くことは叶わなくなる。
二律背反を抱えて、幾日迷い続けただろう。―――それでも。
「私の罪に、沖田先生を連座させるわけには参りません。それだけは、絶対に―――」
「―――神谷さんっ!」
堪えきれずに力任せに開いた戸は、乱暴な所作に悲鳴を上げるように軋みを上げて撓んだ。
松本はすでに総司の存在に気づいていたのだろう、総司に視線を投げることもせず、身動ぎもしない。
対するセイは驚きの眼差しで総司を凝視している。
「沖田先生!?」
ずかずかと戸口の中に乱暴に脚を進める総司に、セイは慌てたように腰を浮かせた。
そもそも使いを頼まれたのはセイ自身であることもあり、別口で総司が使いに来た可能性より、なお悪い可能性を考えずにいられない。
「どうしてこちらに……?まさかどこかお加減でも―――」
「セイ!」
総司に駆け寄ろうとしたセイを、総司が答える前に松本の一喝が阻む。
セイを前に会話をしていたときの、胡坐に腕組の姿勢のまま、低い声が響く。
「―――おめぇに、それを知る権利はねえぞ」
「松本法眼!?」
思わず問い返したのは、セイではなく総司のほうだった。
セイは、唇をきつく噛んで、何かを堪えるように俯いて足元を凝視している。
「わかってねぇとは言わせんぞ。隊を抜けるということは、二度とそいつの傍には近づけねぇってこった。
沖田が傷を負おうが病を得ようが、おめぇには助けることはおろか知る権利もなくなるんだ」
「………そ、れは」
「後になってから返せ戻せと泣かれても迷惑だからな。
沖田が来たなら丁度いい。本気で辞めるなら、この場で清算しとけ。―――覚悟決めろや」
セイと向かい合わせに座った総司は、俯いたまま黙りこくるセイをじっと見据えている。
いまだ治まらぬ怒りの気配にセイは小さく身を竦める。
部屋に満ちる沈黙が、ねっとりと重くのしかかる。
永遠に続くかとも思われたその沈黙を破ったのは、総司のほう。
「……………ほんっとーに、神谷さんてば……」
はぁ、と長いため息をついた総司は、セイの額をぴしりと軽く指弾する。
唐突な衝撃に額を押さえて顔をあげるセイに、総司は苦い微笑を浮かべた。
「………せ、先生?何を」
「あなたがおばかさんだからですよ」
心が千切れるかと思うほどの悩みの果てに決断したことを、ばかの一言で斬って捨てられたそのあまりの謂われように、セイも頭に血が上る。
「ば、ばかって……!私は真剣に」
「だって忘れてるじゃないですか。神谷さん、わたしを拳骨で殴ったくせに」
セイは何のことかと問い返そうとして、手繰った記憶に心当たりを見つけた。
いまだ新選組がその名を戴かず、壬生浪士組と名乗っていた頃。
己への傲りがセイを隊に留めてしまったと悔やんだ総司を殴って叱り飛ばしたことが確かにあった。
「あの時わたしにあなたが言った言葉、そっくりそのまま今のあなたにお返ししますよ」
―――私が自身で選んだ道の責任を、何故あなたが背負おうとするのですか。
「わたしが決めたことです。
近藤先生や土方さんに秘密を抱えることも、貴女が隊に留まるを許すことも、すべてね。
武士が覚悟をもって定めたこと。その責任を肩代わりするのは、たとえ貴女でも許しませんよ」
「……ッ……けれど……私が、先生を……っ」
セイの眦から、雫がひとすじ伝い落ち、ぽたりと畳に無色の染みを作り出す。
「―――あのね、神谷さん。これはわたしが勝手にやってるんです」
「え―――」
「本気で隊を出そうと思えば、あなたがどんなに食い下がろうと追い出すことは出来た。
隊に留まるを許すにしても、秘密は黙ってるだけ、後の対処は自分でなんとかしろ、って無視を決め込む選択肢だってあった。
けれどわたしはそれを選ぶ気はなかった。それだけのことです」
「……でも」
いまだ納得しないセイに焦れて、総司はぼふっとセイの頭を抱きこんだ。
自分の腕の中で、頬を零れ落ちて着物を濡らす少女の涙を、総司は優しく指で拭う。
ぎゅっと縋るように総司の着物を掴む白く細い手は、胼胝や刀傷で荒れてもやはり女子の手なのが痛ましく、またいとおしい。
隊に残し続ければ、この先いくらでも傷は増えてゆくばかり。
けれども幾度も訪れた危機を打ち破ってきたのは、他ならぬ彼女の強い意志。
「あなたが本気で望むからこそ、わたしは助力してきたんですよ。
建前も大義名分もいりません。ましてや気遣いなどなお不要のものです。
神谷さん。二度は訊きません。―――隊を、辞めたいですか?」
張り詰めた糸を解きほぐす誰より慕う男の腕の熱と優しい声に、セイの意地が挫ける。
「……やめ……たく……ないです………やめたくありません……!
私、私は隊にいたいんです!先生の、お傍に―――!」
堰を切ってあふれ出したセイの偽らざる本音を耳にして、総司は微笑んだ。
セイの平穏だけを願うなら隊を出すべきだ。それはわかりきっている。
けれども、隊にいるのが幸せだと言う今このときは。
「いなさいな、私の傍に―――」
「話はついたようだな」
唐突に割って入った声に、総司とセイは現に引き戻される。
頬杖をついてにやにやと二人を眺めている松本の姿を認めるとすこぶるゆるやかに思考が回り始める。
『あ』
二人の声が完全に重なり、いつのまにかひしと抱き合っていた自分たちの状態にもようやく思い至った。
「わあああ!?す、すみません、神谷さん!」
「いっいえ!わわわ私こそ」
お互いの身体を離しながら、謝りあう。
松本の目の前には、真っ赤な茹蛸ふたつ。
「そそそそれでは私はこれで」
ぎくしゃくとしながら松本の在所を辞するセイを、総司はいまだ赤みの抜けない顔で手を振りながら見送った。
あとで久方ぶりに一緒に甘味を食べましょう、と約束も取り付けて、承諾の返事をくれたときに見た数日振りのセイの笑顔に、総司の胸はほっこりと温かい。
忘れかけていた本題の役目である書状を松本へ手渡し、その返書をしたためる松本の背に、総司は深々と頭を下げた。
「―――申し訳ありません、松本法眼。
神谷さんに隊を抜けさせたいという、先生の意向に背く形となりまして……」
「ま、いいさ。生半可な覚悟で抜けて後で後悔されるよりゃ、ずっとマシってもんだ。
てめえと同じさ。セイが本気だからこそ、俺も手助けしてんだ。
セイが本心から離隊を望めば、てめえが反対しようとも今度こそ俺は全力で隊を抜けさせるぞ。
―――だがな沖田」
松本は紙の上を滑らせていた筆を置き、総司へと向き直る。
「セイのぬかしたことは、けして杞憂なこっちゃねぇ。コトが露見すりゃ、充分ありえる話だ。
それでも、セイを残していいのか」
「―――はい」
「セイの巻き添えで腹ぁ切るのが、てめぇの本懐じゃあるまい?」
それはそうですけど、と総司は頬をぽり、と掻く。
「だからこそ全力で守りますよ。神谷さんも、神谷さんの秘密も」
近藤先生も土方さんも守り、隊に尽くし己の誠を貫き通し、そして神谷さんも守る。
困難かもしれないが、すべてを賭して目指す価値のある最高の未来図だ。
「それに先生―――」
神谷さんの罪を分かち合うことは、わたしの権利でしょう?
初「風光る」創作。それにしても初物ならも少しラブラブなもの書けんものか。
タイトルの「迷い路」、迷ってるのはセイちゃんです。でも出来上がってみたら主役は総司。
おかしーなー、三人称で書いてたはずなのになー。どこで間違ったかなー(笑)
後発参加の最大の恐怖は、すでに同じネタがあるんじゃないかという心配で、例に漏れずこれもそんな心配しながら書いてました。
が、同ネタを実際に見たならともかく、んなことまで気にしてたら超辺境零細サイトなんぞ運営してられっか、と開き直って恥を晒すことにしました。書きたいものを書きたいときに書くのが物書きのサガだ。
実際に形にするまでの経緯で、かなり影響を受けた風サイトさんに進呈をおそるおそる申し出たところ、快諾のお返事をいただけましたので、この作品は海辻さまに捧げたいと思います。
無何有の郷(むかうのさと)の藤之無何有様からいただいた作品です。
いつも海辻の駄作にコメントをくださる藤之様ですが、先日の拙宅一周年の折にお祝いのお言葉と一緒に
「初めて“風光る”創作を書いたので、進呈させてもらえますか?」と書かれていて
「うわ、嬉しや〜v」とウンウン頷いてお待ちしていた所、届いたのがこの作品。
す・ご・い・ぞ・これっ!!!!
それが海辻の読後感想。もう「すごい」の一言でした。
ストーリーはもちろんの事、言葉の選び方、間合いの取り方、そして何より見事な着地点。
読後感の良さ、これが作品の格を決める・・・と信じている海辻には溜息もの(はぁぁぁぁ)。
「いなさいな、私の傍に―――」
・・・・・・うちの幼児化黒ヒラメとは違〜う!!
格好良いです、男前です、これこそ沖田先生です。
セイちゃんは意地が挫けたようですが、海辻は腰が砕けました! 惚れましたv
「この方、一体・・・只者じゃないぞっ!」
と、のこのこサイトを覗きに行ってみましたら、なんと風創作は始めてでもサイトを開設されて9年目の大先輩!!
・・・やっぱり只者じゃなかったョ(呆然)。
そんな方が二次創作ルーキーですっとこ駄文書きの海辻を目に留めてくださった事は奇跡です。
その上、こんな素敵な作品を産み出す刺激になったなんて、感涙!
しかも頂いちゃったよ、海辻ってば! ヒンヒン泣きながら駄文を書いてて良かった〜!(滝涙)
藤之様、これからも是非、風光る創作を書いてくださいませ。楽しみにしております。
素敵な作品を本当にありがとうございました(礼)。