五条の花夢



未だ戦乱の名残を纏わせたままで、けれど確かに動き出した
平和への流れに向かい足早に通り過ぎる人々を弁慶は見ていた。

背後の河原には変わる事無く貧しい者達が
粗末な小屋で暮らしているけれど、
今だけはそこから視線を逸らしていたい。


桜の花弁がひらひらと踊る様子を五条の橋の欄干に
腰掛けたままで、見るとも無く見ていた弁慶の視界の片隅を
黒い影が掠めていった。

はっと視線をそちらに移すと、春の陽気に孵化したのか
一羽の黒揚羽が桜雨の中を優雅に舞っている。
一瞬弁慶の胸中に痛みともいうべき感情が走りぬけた。


ほんの少し前に厳島の社殿に置いて、かの揚羽を象徴とする
一族の長を彼はその手で葬った。
すでに怨霊と成り果て、己が一族の繁栄のみを願う、
人とも言えぬ化物に成り果てていたとはいえ、
生前のその男がどれほど闊達だった事か知らない訳ではない。

それでも異形の物となった男を滅し、彼が私欲に利用していた
黒龍の欠片をこの世界を巡る気に還す事ができたのは
正しかったのだと思える。
けれどその男の下に在った揚羽を纏う一族は
この国で暮らす事は許されず、今は遠い南の地で
細々と生きるべき場所を拓いているのだろう。
彼らの多難な前途を思うと、再び胸に痛みが走る。


――― ひらり ひらり

踊る桜花弁が黒揚羽を覆っていく。
まるで春の化身がその身を包み込んでいくかのように。

(大丈夫ですよ。将臣君がついてます。
 南に行った人達もきっと平和に暮らせます。
 白龍にも見守ってくれるようにお願いしておきますから)

暖かな春を冠する名前を持った愛しい少女の言葉が耳朶に甦った。
そうだ。
彼女の祈りの力が誰よりも強い事を自分は知っている。
そして彼女の幼馴染だったという、かの青年の強靭な精神力も。
きっと彼が率いている限り、揚羽の一族は
無事に暮らしていける事だろう。
彼女に乞われた白龍の加護の下で。


桜雨の中から姿を現した黒揚羽を見やる弁慶の瞳に、
もはや影は無い。
柔らかに緩む口元には微笑が刻まれていた。



「弁慶さん!」

春の化身が形を成して、弁慶に向かい駆け寄って来た。

「弁慶さんが迎えに来るのが遅いから、来ちゃいましたよ」

今日は少しだけ仕事の時間が空いたので、
東山の桜でも見に行こうと誘ったまま
いつまでたっても迎えに現れない弁慶に
痺れを切らして来てしまったらしい。
愛らしい頬を小さく膨れさせた少女の姿が笑みを誘う。

「すみません・・・あまりにここの桜が美しかったものですから」

弁慶が視線を向けた先では先程と変わらず、
桜花弁が風に乱舞している。

「本当に・・・綺麗ですねぇ・・・」

ほぅ・・・と溜息交じりの言葉を零す少女は
温かな風景に溶け込んでいる。


いまだ贖罪を果たしてはいない。
己の犯した罪は未来永劫許されるものではないかもしれない。

けれど・・・。
ほんの少しの間だけ、この温もりに満ちた陽射しの中に
自分も溶けていたい。
誰よりもこの陽が似合う少女の隣で・・・。


弁慶の瞳が穏やかに細められた。