燗酒五部作 其の参〜熱燗

(年礼廻り 原田&永倉)



雲ひとつない晴れ渡った正月三日。
京の街は年礼廻りの人々で溢れ返っていた。
普通の町人で多くて二十軒程、少なくても十軒は
廻ると言われる年礼廻り、
町人以上に義理やしきたりにこだわる武士の年礼となると
さらに数も多くなる。
京都に陣を構えて三年になる新選組も例外ではなく
組長以上の幹部たちが手分けをして年礼に廻っていた。



「永倉センセ、原田センセ、よう来てくれはりました。
こんな時間やから身体の方もすっかり冷えとりまっしゃろ?
熱燗つけて主人が待っておりますぇ。」

いつも世話になっている武具屋の番頭が二人をにこやかに出迎える。

「・・・・どいつもこいつも何で店に居座ってやがる。」

番頭に聞こえないように永倉が愚痴る。
すでに本日の年礼廻りも十二軒目。
行くとこ行くとこで酒を勧められ、勧められるままに酒をあおる為
永倉の顔はすでに赤く、足取りさえもおぼつかない。
酔いのせいだろうか、にこやかな番頭の顔が鬼に見えてしょうがない。

「まぁまぁぱっつあん、いいじゃねぇか。
こんな時でなけりゃタダ酒なんて飲めねぇしよ。」

作り笑顔を番頭に見せながら左之助は永倉をなだめる。
そんな原田も永倉同様全身に酒が廻ってふらふらしている。
正月二日から始まった年礼廻りであるが
二日目にしてこれである。さすがの永倉や左之助も音をあげそうになった。



年礼廻りの割り当てを決めるのは土方であるが
その際、やはり『相性』というものを考慮する。
礼帳だけを置いて、居留守を使うような相手には
比較的穏やかな性格の総司や源さん。
格式ばった相手に対しては斎藤や谷などそれに対応出来る者。
そして、やたら酒を勧めてくる相手には
永倉や左之助を宛てているのだ。
確かに適任かもしれないが、さすがに二、三日
行く処行く処で酒を勧められては
酒好きの二人でも辟易してくる。

-------これも仕事のうち。

そう割り切らなければ
二日合わせて二十軒以上で勧められた酒を
飲む事は絶対にできない。

「おい、左之。明日は何軒廻るんだっけよ。」

「・・・・・八軒、残ってる。」

考えるだけで胃のあたりがむかむかしてくるが
義理を欠く訳にもいかない。
そうして本日十二軒目の酒宴が始まった。




永倉と原田が正月二日から四日までの三日間で廻ったのはのべ三十二件。
うち、礼帳で済んだのはたったの四軒だけである。
五日、六日は巡察にも出れないほどの酔いに苛まれ、
七草でかろうじて復活する--------それが二人の年始の行事である。



《終わり》




江戸の正月風景でございます(笑)。
当時から年賀状はあったらしいのですが、日帰りで歩いていける処には
直接出向いてご挨拶をするという風習がありました。それが年礼廻りです。
(近場なのに年賀状で済ませるのは非礼にあたったそうです。)
ただ、この風習も明治中期ごろまで。郵便制度が発達したので
人手が多い中、大変な思いをして各家を廻る年礼はすたれていったそうです。
今の年賀状とメール年賀の関係に何となく似ています(笑)。
ちなみに礼帳というのは年礼廻りにきた人たちが自分の名前を書くもので
家の主人が年礼廻りで留守にしている時に使用しました。
あとは、お客におもてなしをするのは面倒だとか(料理や酒が)もったいない
と言った人が居留守を使う場合に重宝したとか(爆)。








3作目、『熱燗』です。

いくら酒好きの二人でも仕事で飲むお酒はつらいと思いますよね。
まして好意的な相手となれば「いらない」とも言えませんし・・・(笑)
良い感情を持っていない相手であっても、さくさくと礼帳に記入して屯所に戻った総司は
きっとセイちゃんとお餅を食べて満足だったはず。
二日酔いの辛さを熟知している身としては、永倉原田の苦労を思い
苦笑いしてしまいました。