海千山千コンビ、京都姫路の旅報告 (2008.11.13〜15)
二
11月14日(金)
「んが?」
じんわりと伝わる寒さのせいで唐突に覚醒。室内はまだ真っ暗。
窓側に寝ていたので障子を少し開けてみても、やっぱり真っ暗。
枕元の携帯で時間を確認すると4時半。・・・ほとんど寝てないじゃん、私(汗)
再びゴソゴソと布団に潜り込みうつらうつらしていると、奈鳩さんの携帯から軽やかな音楽が。
6時です。起きて準備してサクサク西本願寺へ。
うふふのフ♪
朝6時半から行われる西本願寺での勤行に参加する事。これも今回の楽しみのひとつ。
朝の西本願寺はひんやりした空気の中に、やはり寺院独特の清涼な気が漂ってました。
本堂に入ると中にはすでに人がたくさん。まもなく始まった和讃は皆で声を揃えてます。
奈鳩さんと海辻は最も後ろで(ほぉ・・・)と見てました。
改めて暮らしの中で大切にされている信仰なのだと感じました。
が、スミマセン。海辻はヲタクなんです(汗)
脳内では「総司達も毎朝こういう祈りの声を聞いていたんだろうなぁ。当時は今みたいに
機密性の高い戸じゃなかったから、もっと音が筒抜けだっただろうし」などなど、
真面目な信仰の場にあるまじき思考に浸っておりました。ごめんなさい。
「那由さん、そろそろ・・・」
ぼーっとヲタクな妄想に漂っていると、奈鳩さんがうつつへと引き戻してくれました。
そうなのです。この宿は食事の時間も決まっていたのです。
ですのでお隣の興正会館へ戻り、実に実にじつ〜〜〜に慎ましい朝食を他の宿泊者方といただき、
ありがたいようなそうでもないようなお話をお坊様から伺い、部屋で荷物を纏めて
キャリーサービスに京都駅まで運んでもらう手配をして、いざ出発!
2日目最初の目的地は二条城。
かの有名な大政奉還が言い渡されたお城でござる(あれ?)。
私たちの宿泊地からは堀川通りを北上すれば辿り着く、バスでちょちょいの距離。
「歳はこの道を通ったんだよね」 「時々は総司も一緒だったかも」 「「うわぁ」」
相変わらずのヲタっぷり。
そして到着二条城。
広いしデカイしお堀が汚い(苦笑)
皇居のお堀も色々言われていましたが、これだけ大きいとやはり綺麗に保つのは難しいのかな。
まずは二の丸御殿へ。
本丸御殿は江戸中期に火災で焼失しており、現在あるものは明治になってから京都御苑にあった
建物を移築したという事で幕末当時は無かったそうです。
なので幕末に家茂・慶喜という将軍が滞在したのはこちらの二の丸御殿。
入ってすぐに遠侍の間があり、来訪者の受付や大名の控え室になっていたとの事。
「近藤局長はここまでぐらい入ったよね、きっと」 「歳も入ったと思いますよ」 「「うわぁ!」」
へへ。何を見てもこんな感じです。
その遠侍の間の一角に、征夷大将軍となった家康が豊臣秀頼と会見したという部屋がありました。
広い部屋ではあったけれど入り口のすぐ傍です。
本来は家臣であったはずの家康の城へ赴いてきた事だけでも屈辱的だっただろう秀頼が
こんな端近の部屋に通されてどんな思いだったろうか・・・と暫し鬱々。
・・・なんですけどね、これってかなり誤った認識だと少し後で気づきました。
家康がいた当時は本丸があったわけで、そちらが公的な場所となっていたわけです。
そしてこの二の丸御殿は徳川家のプライベート空間という色が濃かったはずなんですよね。
確かに入り口近くの部屋ではありますが、この場所で会見したという事は身内扱いに
近いものだったのかもしれないなぁ、と。家康の内心がどうであったにしろ・・・。
うんうん、色々考えさせられるぞ、この建物・・・と思いながら、うぐいす張りの廊下を
キュキュと歩きました。
しかしさすがに将軍家。
あちこちの建物を見て歩いてますが、釘隠しもこんな巨大な物は見た事がないよ、という品です。
欄間にしても厚さ35センチの板を両側から透かし彫りにして、しかもそれぞれに
彫られている物が違ったり・・・。外との境にはめ込まれている板戸上部の透かし彫りも
一枚一枚違う花や風物が彫られていました。
贅を尽くしているのは確かなんですけど、品が無いというわけじゃない。
このあたりが派手好みだった秀吉との違いだろうなぁ・・・と廊下をキュキュ言わしながら思考。
黒書院、白書院と見て歩き、二の丸御殿を出て本丸へ。
こちらは庭園と言うか敷地をぐるっと歩き、天守閣跡から本丸エリアを眺めると
その広さが実感できました。
「大きいね」 「うん、大きい」 「でもやっぱり内堀の水も汚いね」 「広いから仕方ないですよ」
どうしても水の汚さが気になる海辻の言葉に奈鳩さんが苦笑。
だって御所の庭は池も用水もすごく綺麗だったのに、二条城はどこも深緑でどんより。
ヘドロヶ池・・・って感じだったんですよ。庭石は実に見事だっただけに勿体無い。
それはそれとして角倉了以の屋敷の一部を移築し、庭石も譲り受けて昭和に作成された
清流園で庭を楽しみながらお抹茶とお菓子をいただいて一休みし、二条城拝観は終了。
さて次だ〜、と地図を見ながらバス停を探し、堀川丸太町バス停から乗車・・・したのですが
三条京阪方向から来るこのバスの終点は嵯峨野です。
紅葉を目的に人々が群が京の大観光地。
当然バスは押すな押すなの大混雑。・・・・・・死ぬかと思ったゼよ(汗)
我々の目的地は嵯峨野よりもずっと手前の妙心寺だったんですけど、海辻の脳裏には
時期的に嵯峨野に行くのも良いかも・・・というプランもありました。
やめといて正解。あんなバスで行っていたら到着した時には動けなくなってましたよ〜。
で、気をとりなおして花園の妙心寺です。
ここは海辻が「行きたい」とリクしたお寺さんです。
お寺、と一口に言っても町全体が妙心寺という寺の本山と四十六の塔頭で構成されている
まさしく寺町という風情。
バス停を降りてダラダラと坂を上っていくと巨大な門が見え、奈鳩さんがデジカメを構えます。
そこを潜って寺域へと入ると左右に白塀が続き、まっすぐ大方丈方面へ。
写真を撮りながら遅れてくる奈鳩さんを放り出し、ちゃっちゃと二人分の拝観料を支払います。
そして、しばし待ち、の状態。
この寺院は時間を区切って内部を説明しながら案内してくれるのです。
奈鳩さんが到着してすぐという良いタイミングで案内の時間になりました。
まずは法堂へ。ここでは“はっとう”と読むそうですが、こちらの天井いっぱいに狩野探幽作の
雲龍の図が描かれています。とにかくすごい迫力で頭上から龍に睨まれている気分。
絵に関しての詳細報告は奈鳩さんにお任せしますが、カギ爪は三本だったので
この龍は武家を現しているのでしょう。
こちらには徒然草にも書かれているし、某国営放送のゆく年くる年でもお馴染みだった
妙心寺の鐘も展示されていました。いまでは劣化が進んだ事もあって、展示されているだけ
となっていましたが、テープに取ってある鐘の音を聞かせてくださいます。
とても玄妙で深い響きにじ〜〜〜ん。ごぉぉぉぉん・・・。
そして次に移動したのが浴室。
ふふふ、うふふふふvvv
実はここが今回海辻が妙心寺に行きたがった最大の理由だったのです。
以前拙作でもチラリと書いた銭湯の前身は、もともと寺院から発祥したという話。
これを再確認するためというか、実際寺院の浴室というものを見てみたかったのです。
ず〜〜〜っと前にこちらに来た事があって、その時にも確かに見たはずだったのですが
意識せずにボ〜ッと見ていたせいか、すっかり記憶から抜け落ちていたので再確認。
この浴室は別名『明智風呂』といい、明智光秀の供養の為に作られたものだそうです。
光秀の祖父が妙心寺の僧侶だった関係で信長を討った後にこちらに逃れてきたとか。
けれど武家の争いに関わる事を拒絶された光秀が自分が死した後に供養をして欲しいと
現在の金額にして一億円相当を寄付してこの寺を去り、光秀の死後この浴室が創建されました。
と、いう歴史のある浴室は広い板張りの室内中央に木で囲われた大きな天井付きの
箱のような部屋が作られ、その中に蒸気を満たして入浴するようになっています。
正面には上段中段下段に引き戸があり上段は明り取りに開けられ、中段は熱い時に
蒸気を逃がす為のもの、下段は出入り用のにじり口になっていたそうです。
その箱の前の板の間が洗い場になっており、ほとんどサウナ同様だったわけです。
でも禅宗では入浴にも作法があり十日に一度しか入れないとか、桶に二杯までの湯しか
使えないとか、蒸気の満ちた浴室の中で座禅を組んで修行をしていたとか、
中々大変だったようです。
でも高温の蒸気の中ってボーッとしますから、ある意味邪念も消えて阿頼耶識(無意識の意識)に
アクセスするための座禅をするには良い環境だったのかもしれないなぁ、などとふむふむ。
目的だった寺院の浴室を見られてホクホクしている海辻に向かって奈鳩さんが一言。
「那由さんって水場が好きですよね」
・・・確かに。風呂とかトイレとか見たがるよね、私・・・。
今まで一緒に行った建物をうろついていると必ずトイレに突き当たってたしね。
そして嬉しそうに奈鳩さんを呼ぶ。「奈鳩さんっ、便所だ便所だv」呼ばれても迷惑だろうに(汗)
しかも以前「サイトの背景に使いたいから厠の穴を撮っといてv」と頼んだ事さえあったし・・・。
結局は使わなかったけど、実に迷惑なリクだったと改めて実感。
あの写真、今も残ってるんだろうか、奈鳩コレクションの中に・・・(汗)
そんなこんなで案内は終了し、すでに昼も大分回っていたので一度花園駅前(徒歩3.4分)へ。
餃子の王将でランチを食べて再び妙心寺へ戻りました。
とにかく内部は広いのでゆったりゆったり歩きながら「塀がつづれ折りになっている感じが
昔の武家屋敷エリアを思わせるよね」 「まっすぐ進めないのは敵の足を止める目的ですものね」
「きっと昔の城下町って、こんな感じだったんだよ〜」 などなど話をしながら
通常非公開ですがこの時期特別拝観していた塔頭のひとつ大法院へ。
こちらは信州松代藩主だった真田信之の菩提寺です。
真田信之は豊臣秀頼とともに大坂城に籠って徳川と戦った真田雪村の兄です。
弟が伝説の人になっているせいか一見地味に思われますが、海辻は真田の血の濃い
実に柔軟な人だと思ってます。と、彼の話は置いといて。
大法院はとにかく京都の庭園というべき『露地庭園』が見事でした。
庭木、淡く染まった紅葉、地に敷かれた苔、合間に散る庭石。
美的センスの怪しい海辻さえもがボンヤリしてしまうほどの素晴らしさ。
いや本当に禅の心をあます事無く現した庭園です。
そしてここではお茶とお菓子も拝観料に含まれていたので一服。
本日二条城に続いてのお抹茶とお菓子です。栗蒸し羊羹が甘さ控えめで美味でしたv
さて、妙心寺はこのあたりにしておいて、次はどこへ行こうかと相談してバスで北野へ。
妙心寺の守衛さんに間違ったバスの乗り換え情報を教えられたりしましたが
そろそろ京都に慣れてきた二人は騙されず(爆)、無事に到着です。
北野、と言えば天満宮。菅原道真を祀っている場所として有名ですよね。
今更受験はありませんが、奈鳩さんは可愛いお子達の為に学業お守りを買ってました。
海辻は「少しで良いので頭が良くなりますように」と必死に祈念祈念祈念!!
境内のあちこちに牛の像がやたら奉納されているのを見て「どんな謂れがあるんだろ」と
揃って首を捻ったり、境内の隅の妙に薄暗い一角に海辻が歩み寄ると折れた大木が
歓喜天として祀られている場所だったり。
(歓喜天とは夫婦和合など、ちょっとえっちぃ神様です(笑))
こちらも以前来た事がありましたが、その時は拝殿の改修中で青いシートが一面に張られ、
きちんと全体を見る事ができなかったので、今回は改修終了後の美麗な拝殿が見られて満足。
ぐるりと裏側へ回って本殿も覗けたし、今回の旅で初のまっ黄色に染まった銀杏の木も見られました。
ちょっとアレな携帯なので黄色が美しく撮れませんでしたが雰囲気だけ。
そのまま裏手から北野天満宮を出た瞬間、奈鳩さんが爆笑。
「さ、刺さってる!」
左上。屋根に看板が刺さってるように見えるでしょう? これに奈鳩さんが大ウケでした。
ここの焼餅は江戸時代からあったんですよ〜。海辻も話に書いた事があります。
二人で一個ずつ買ってモグモグ食べながらプラプラと大通りへ。
北野天満宮から大通りまで続くエリアは上七軒。
そうです土方が島原よりも頻繁に通ったといわれる、あ・の・上七軒なのですヨ。
歳萌えの奈鳩さんにはたまらん場所だろうなぁ、と内心でニヤニヤしながら歩きましたが
昔とは違って昼の日差しの中に艶やかさを隠して静まり返っていました。
「どうせだったら夜に来た方が良かったかもね」 「そうですね。今もお茶屋さんとかあるみたいだし」
などと会話をしていたら、格子戸が続く中にポッカリケーキ屋さんを発見。
思わず笑ってしまいました。こんな純和風の道筋に洋菓子店を開くなんて、良い根性だ(爆)
大通りに出た頃にはすでに3時も過ぎて、どこへ行くにも微妙な時間。
なので海辻の提案で京都駅に向かう道筋にある某所へと。
いえ、その前に通り道にあった神社に寄り道しました。
『白峯神宮』という神社です。
こちらは明治天皇が父である孝明帝の意思を継ぎ、明治四年に崇徳天皇を御祭神として
創建し、明治六年に淳仁天皇を合祀したそうです。
奈鳩さんが 「十三、四歳程度で即位した明治天皇が父の意思だと神社を創建しようなんて
頭があるものですかね」 と笑ってましたけど、私も似たような事を思ってました。
崇徳上皇も淳仁天皇も政争に敗れて廃位の上、配流になった天皇なんですよね。
それを明治天皇の名の下で祭神として祀る。
これって実はかなり深読みできませんか?
天皇だとて力の前には屈するし罪人にもなりうる。
そして体制に逆らって配流となろうとも、高い理念と正しい志を持ってさえいれば
こうして後に許され認められる。
・・・明治政府の中にわらわらといましたよね。孝明天皇の怒りに触れて西国に落ちた公家輩が。
と、まあ脳内深読み体勢とは別に、この神社は公家の飛鳥井邸跡に建てられたのですが
元々飛鳥井家が鞠の神である精大明神を邸内で祀っていた関係で、
球技の守護神社としても有名だそうです。境内に蹴鞠場もありました。
サッカーやバレーの選手達のサインやボールが奉納されていましたが
その中にアルシンドのサインを見つけて奈鳩さんと二人で笑ってしまいました。
さて、いよいよ。
ど〜〜〜ん!! 輝く晴明桔梗、別名五芒星!!
上七軒を歩いている時に 「奈鳩さんにね、しょぼい“戻り橋”を見せたいのよね」 と呟くと
「しょぼい、は失礼ですよ〜。でも見たいですv」 と乗ってくれたので参りました。
まずは晴明神社にてお参りです。
昔とは場所が変わってしまっているそうですが、霊験あらたかだと一部の方に言われてます。
何たって平安の大陰陽師。十二神将さえ従えたという方が御祭神ですからね。
でも海辻が願う事は実に慎ましい。
「・・・少しで良いから頭が良くなりますように・・・」
神社の社務所では何種類ものお守りが並んでいました。
奈鳩さんが 「センスが良いですね〜」 と感心してましたが、やっぱり五芒星のおかげですよね。
とてもスマートに見えました。
そしてしょぼい戻り橋へ。
「そんなに“しょぼ”くは見えませんけどねぇ」 と呟く奈鳩さんに 「だって風情も何も無いし!」
と、海辻が断言する戻り橋はコンクリートのただの無機質な橋。
少し二条寄りにある橋はレンガっぽく組まれたアーチ型のお洒落な橋なのに、
どうしてここはこんななの?
あまりに海辻が「しょぼいしょぼい」と言い続けたので、とうとう奈鳩さんまで「しょぼい戻り橋」と
言うようになりました。これって洗脳ですか?(爆)
この後は京都駅で荷物を受け取り、一路当夜の宿泊地である伏見稲荷へ。
伏見稲荷大社には参詣者の為の宿泊施設があり、『参集殿』というそこに泊まります。
目の前に鳥居や社殿が見えるその部屋に二人とも満足。
たとえ壁が染みだらけだろうとガムテープで穴がふさがれていようと無問題(爆)
ただこちらも門限と入浴時間が決められているので、先に入浴してしまってから
またしても夜のお出かけです。
この夜に目指したのは東福寺の塔頭である『天得院』。
こちらはかの有名な清韓和尚が住持をしていたお寺です。
清韓とは、豊臣と徳川の間に決定的な亀裂を入れた『君臣法楽 国家安康』の銘文を書いた方。
でもそんな事情は関係なく、私たちは電車から降りてテクテクと真っ暗な道をお寺へ。
昼間に見た大法院の庭園が素晴らしすぎたせいか、ライトアップされた庭は
想像よりも少しばかり物足りなかった気がしました。
ただ壁に設けられた華頭窓から見えるお庭は素敵でした。
どっかのカップルがその窓にしがみついては、しきりに身を乗り出して庭を見ている様子に
奈鳩さんが 「華頭窓ってのは身を乗り出して見るもんじゃないっちゅうのっ!」 と
ブツブツ言っていたのが笑えました。
うん、確かにあれは迷惑だったし勿体無い見方だったよね(笑)
そして再びテクテクと駅まで戻り、夕飯は海辻の我侭でふしみ駅近くの居酒屋に入り
実に食べたかった京都の出し巻き卵と生麩田楽を堪能しました。
が、ちょっくら気分良く食事ができそうも無かったので早々に店を出てコンビニへ。
改めて晩御飯とコンビニ前のパン屋さんで翌朝用のパンを買って宿へ戻ったのは9時半でした。
宿でもそもそと食事をしながら本日の反省会。
特に迷子も無かったし、とりあえず行きたいと思ってた場所は行けたという事で
10時頃には揃って布団に潜り込みましたが、寝るにはまだ少し早いよね、と
ガイドブックの地図を見ている時に大変な事に気づきました。
「な〜は〜と〜さん〜〜〜! ここ見てっ!」
海辻が差し出した地図を見た奈鳩さんも目が点。
二条城から妙心寺へ向かうバスを待っていたバス停のほんの数十メートル先の場所に
『京都所司代屋敷址の碑』とか書かれてたんですぅぅぅ!
バス停で10分ぐらい待ってたんです、私たち。
その程度の時間があれば行ってこられたはずなんです。
容保公の弟君、京都所司代桑名定敬公ゆかりの場所にっ!
普通の方には何の感慨も沸かない場所でしょうが、私たちには思い深い場所のはず。
ああっ、悔しいっ!!
11時過ぎに電気を消し、安らかな奈鳩さんの寝息を聞きながらジタジタジタ。
またしても眠れない夜を過ごしたオナゴがおりました。
最終日に続く