風伝へ     前編




昼過ぎの稽古の後、井戸端で顔を合わせた井上がしきりと空を気にしていた。

「今夜あたり嵐が来るかもしれん」

雲を読み天候を言い当てる事では信を置ける井上の言葉だけに、
その場に居たセイを含めた隊士達は嵐に備えて動き出した。


夕餉の後、徐々に強くなる風雨の気配に戸板を打ちつけ補強しておいて良かったと、誰もが思う。
こんな夜の巡察当番で無かった事に幾分安堵しながら、寝るまでの時間を思い思いに
過ごしていた一番隊の隊士部屋に、土方に呼ばれていた総司が戻ってきた。



「沖田先生。副長のお話って・・・」

真っ先にその姿に気づいたセイが声をかけたが、総司の表情を見て途中で言葉を切った。

「こんな夜にすみませんが、出動です。すぐに準備してください」

総司の声は緊張感を孕み、表情も厳しい。

「嵐に乗じて武具商が襲われたそうです。相手ははっきりしていませんが
 目的は武器のようですから、まともな輩とも思えません。他の隊も出ますが、
 いくつかの襲われそうな商家へ警護に向かいます。その心積もりで」

「「承知」」

一斉に上がる返答と同時に皆が準備に動き出す。
チラリと総司が視線を流した先では、セイも身支度を整え始めていた。

―――――こんな嵐の中。本当は置いていきたいのだけれど・・・。

隊士である以上そんな事は許されず、何よりセイ自身が納得するはずもない。
総司は小さな溜息を吐きながら自分も支度を始めた。




慌しく屯所を飛び出した一番隊だったが、最初に襲われたという武具商に辿り着くと、
そこは惨憺たる状態だった。
家人のほとんどが斬られ、残ったのもかろうじて物陰に逃げ込み身を潜めて居た者達だ。
刀や槍など武器ばかりが持ち去られた様子から見て、何か不穏な目的を持った輩が、
その準備の為に押し入ったとしか思えない。

「神谷さん。何人か置いていきますから、残った家の人たちの護衛を任せます」

怪我をした女中の手当てをしていたセイが何か言おうと顔を上げたが、
それを押し留めるように総司が言葉を続けた。

「無骨な男ばかりでは皆さん不安でしょうし、他にも怪我をした方もいるようです。
 嵐が収まれば町役人達も動き出すでしょう。それまでここはお願いしますね」

重ねて組長に命じられれば、どれほど不満でもセイとて頷くしかない。
総司にしてみれば、この先嵐の中での斬り合いとなるやもしれぬ場にセイを
連れて行かずに済む絶好の口実が見つかったのだ、譲るつもりなど無かった。

必要以上に過保護になるつもりは無いけれど、この天候の中では身の軽さを利点とした
セイの戦い方には不利が多すぎる。
動きを制限する風雨の中では己の重量が物をいうのだ。
今日ばかりはセイを戦いの場に出すことは避けたかった。

「では」

短く声をかけると、総司達は再び嵐の中に飛び出していった。




土方が幾つか割り出しておいた襲撃されそうな武具商、刀剣商には
すでに他の隊が張り込んでいる。
一番隊はいつでも動けるように番屋に待機している事となっていた。

横殴りの雨に全身を叩かれ、身を守るためにつけている蓑傘とて役に立っているとも思えない。
間断無く吹きつける強風は、時折総司の身体さえ持ち上げるほどの強さで、
それに抵抗するだけで体力を根こそぎ奪われる気持ちになる。
つくづく身の軽いセイを置いてきて正解だったと、これは総司ばかりでなく
共に番屋へ向かう隊士の誰もが感じていた。



半間向こうすら見えぬ水の帳の中、突然先頭を歩いていた総司の足が止まった。
その身にぶつかりそうになった後続の隊士が怪訝な表情で総司を伺い見る。

「今、何か壊れたような音がしませんでしたか?」

地を叩き続ける雨音は、隣の隊士に声を伝えるにも怒鳴らなくては聞こえない。
だというのに、そんな音が聞こえるものだろうか、と誰もが首を捻った時。

「聞こえる! こっちです!」

総司が走り出した。

数軒先の商家脇の路地の前に誰かが蹲っている。
走り寄った総司が声をかける前に、その身にすがってきたのは若い娘だった。
恐怖の余りか全身を震えさせ、自分の後ろ、路地の中程にある商家の脇口らしき場所を
指差している。

その戸は無残に叩き壊され、中で異常な事態が起きている事を明示していた。

娘の身を隊士の一人に預けると番屋へ連れて行くように指示をして、
他の隊士を従えた総司は店に踏み込んだ。


「うっ・・・」

誰かが声を漏らしたが、総司は眉ひとつ動かす事はない。

そこは刀剣商だった。
たいした規模では無い店なので、土方の網から零れた店と思われた。
もしも斎藤がその選定の場に立ち会っていれば、恐らくこの店も張り込みの対象としたであろう。
中規模でも質の良い刀剣を数多く扱う、知る者ぞ知るという店だったのだから。

その室内が今はむせ返るような血の臭いが充満し、そこここに
かつて人間であっただろうモノ達が散乱していた。

「試し切りでもしやがったのか・・・」

隊士の苦い声が落ちる。
外の風雨の音が聞こえぬほどの静寂の中、あまりに濃い血の臭いとその無残な光景は
現実感を薄れさせそうになる。
けれど彼らの意識を一瞬で覚醒させるような悲鳴が奥から響いた。

「まだいるぞっ!」

残虐な行為を平然と行ったであろう下手人が、いまだ逃走していない事に
一気に隊士達の士気が高まった。

誰より先に奥へと走り出した総司の前に、座り込んだ女子供を囲み、
数人の男達が白刃を振り上げる光景が映し出される。
総司の気配に振り返った男を一太刀で切り捨てると、そのまま小さく固まっている家人を
かばうように男達との間に割り込んだ。

「新選組です。そのまま刀を捨てなさい。手向かうなら、容赦はしません」

静かな声ではあるが、そこに抑えきれない怒りを見出して男達が一瞬動きを止めた。
その間に他の隊士達も浪士と思われる下手人を囲い込む。
もはや逃げ道は無いと悟ったのか、血に酔っていた浪士達の顔面が蒼白になり、
獣のような奇声を上げて身近な隊士に斬りかかった。
己の絶対の有利に驕り弱者を狩る事に喜びを感じるような者達が、怒りに燃える
精鋭揃いの一番隊を相手に叶うはずもなく、勝敗は瞬時に決した。

総司も一人の利き腕を傷つけ、背後を吐かせる為にあえて止めを刺さずに
捕縛を他の隊士に任せると、蹲ったままの家人に顔を向けた。



小さく固まる人間達の中央にはこの商家の妻女だろう。
一人の女が小さな娘を抱いて放心している。
五つ六つに見えるその少女の顔には血の気が無く、妻女の膝元には小さな血の染みが
広がり始めていた。
先程の悲鳴はこの子が斬られた時に誰かが上げたものだったのか。

「見せなさい!」

腕の中から少女をもぎ取るように取り上げて、出血の場所を探す。
脇腹から背にかけて着物が切り裂かれ、そこから流れる血は止まる様子も無い。
だがまだ少女には息があり、致命傷とは言えないはずの傷だった。
処置が間に合えば助かる可能性はある。

―――――ここに神谷さんがいれば・・・。

総司はセイを置いてきた事を悔やんだ。
松本や南部のように医師としての修行をしたわけではないが、怪我の治療、
特に刀傷に対しての処置は日頃からこなす数が多い為か、セイの腕は
誰もが認めるほどのもので。
そこいらの医者などでは及びもつかないと言われていた。

「誰かっ、神谷さんを呼んできてください! 急いでっ!」

自分の袖を裂いたもので止血をしながら隊士にセイを呼んでくるように命じる。
少なくとも今から医者を呼んだり診療所に連れて行くよりは、確実に
この少女の命が助かる率は高いはずだと自分に言い聞かせながら。

―――――間に合わないかもしれない。

さきほど見た地獄絵図のような店内の様子が脳裏を過ぎる。
武士が命を落とすのはその身の運命とも言えようが、町人が、しかもこんな年端もいかぬ
子供が斬られて命を落とすなど、認める事などできようか。

「頑張るんですよ」

小さく腕の中の存在に囁いて思考を切り替える。

「待機する予定だった番屋に誰か走ってください。現状を伝えて、風が収まり次第、
 捕縛した下手人達を連れて行くと。それから屯所にも連絡をお願いします」

総司の指示に従って数人が室内を飛び出すのを確認し、次の指示を出す。

「怪我人は動かせませんから、捕縛した者達を別室に。見張りは厳重にしてください。
 逃がす事は許しません」

男達を引き立て隊士が部屋を出て行く。
残った隊士に女中らしき女を手伝ってセイが到着次第治療が出来るようにと
ありったけの灯りと消毒用の焼酎、清潔な布などを用意させる。
全ての指示を終えると再び腕の中の少女を見つめた。

青みを帯びた幼い少女の顔に、自分を父様と慕った幸薄い幼女の面影が重なり、
それが昔市谷八幡で出会った少女の顔に摩り替わっていく。
早く、早く、この子の命を助けてあげて。
総司は心で叫んだ。


―――――神谷さんっ!!







総司達が出て行ってから、未だ恐怖に怯える家人を宥めながら、
セイは落ち着かない心地でいた。
雨音は幾分静まったようだが風は相変わらず強く、戸板の隙間から
時折音を立てて吹き込んでくる。

不安げに幾度も見えない外へと視線を投げかけるセイの様子に、
共に残った隊士達が苦笑を浮かべた。
突然。
ふい、とセイの顔が上がり耳を澄ますような動きを見せる。

「おい、神谷?」

訝しげな仲間の声も聞こえぬように、セイの視線は中空を彷徨っている。

「先生?」

小さな呟きが落ちた瞬間。
戸の隙間から吹き込んだ一陣の風が灯りを吹き消し。


―――――神谷さんっ!!


風が、呼んだ。



「沖田先生っ!!」

叫びと同時にバタバタと足音が響き、家人が灯りをつけた時には
既にセイの姿は室内から消えていた。








激しい足音が近づいてくる。
その音に顔を上げた総司の視界に、開け放った襖の向こうに立つセイの姿が映し出された。
外はまだ激しい雨が続いているのだろうか、セイの全身はずぶ濡れで
髪から袂から間断なく雫がしたたっている。

総司の無事を確認して一瞬緩んだセイの頬だったが、その腕の中にある
幼子の様子に再び表情を厳しくした。
仲間から渡された乾いた布で素早く髪の雫を拭い取り、総司の元に歩を進める。

「神谷さん・・・」

幾分ほっとした総司の声に小さく頷くと、セイは総司の腕から幼子を抱きとる。
ここに辿り着くまでに呼びに来た隊士に話を聞いていたのだろう。
その動きに無駄は無く、すぐに処置の準備に取り掛かった。

治療の邪魔にならぬようにと少し距離を置いた総司の目に、セイがちらりと
視線を流したのがわかった。

「そこの方は、この子の母親ですか?」

幼子の着物を切り裂き、傷口を顕にしながらセイが問う。
未だ放心したままらしいその女の肩を支える女中が、こくりと頷く。
目の端でそれを確認したセイが、一瞬総司を見た。

「正気を戻してください」

傷口を縫うためだろう。
最近、携帯するようになった針を灯りの火で焼きながらセイが指示する。

「どうすれば?」

短く問う総司に淡々と言葉が投げかけられた。

「頬を叩いてください。強く」

ぱん、と軽い音が響いた。

「もっと強く!!」

糸に焼酎を含ませ、傷口にも口に含んだそれを吹きかけたセイが声を荒げる。

ぱしんっ!!

先程より数段強い音と同時に、「あ」と細い女の声が聞こえた。

傷口に針を突き立てる一瞬前に、母親の瞳に光が戻った事を確認したセイが
静かに命じる。

「ここに来なさい。・・・この子の手を握って」

足元の覚束ない妻女の肩を支え、総司も共に幼子の元に歩み寄る。

「この子の名は?」

小さな身体の大きな傷を縫い合わせながらセイが問う。

「ち・・・千代・・・」

消え入りそうな妻女の声にセイが頷く。

「呼んで。手を握って名を呼ぶんです。彼岸(あちら)に行かぬよう。
 此方に戻ってくるように。母の声は何より強い呪です。強く呼んで!」

「千代、千代っ!」



母親の声が室内に響き、セイは黙って縫合を続ける。
総司も隊士達もその姿を言葉無く見入った。

池田屋以来、セイには『阿修羅』という形容がつくようになった。
それは戦の神としての言葉。
刃を振るい敵を斬り伏す雄雄しい修羅の姿を浮かばせるものであった。
されど、今のセイの姿を見れば三面六臂と言われる阿修羅の別の面が思い起こされる。

それは慈愛の面。
傷ついた幼子を癒すため、その母に厳しい面を見せつつも芯にあるのは
痛みを知り、ただひたすらに弱者を救おうと力を尽くす優しき修羅の姿。

―――――真の阿修羅とは、こういう姿をしているのやも知れぬ。

息を詰めた男達の前で、セイは静かに針を動かし続けた。




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