相闇行脚
一
ひやりと乾いた風が肌にまとわりつく炎暑の名残を吹き散らし、
山々を包む緑もその濃さを薄めながら徐々に葉の彩を鮮やかにしつつある頃。
副長室を訪なう男達の姿があった。
「ちょっといいかい?」
永倉が一声かけて障子を開けた。
背後から原田と井上も続く。
文机に向かっていた土方は筆を置くと、眉間に皺を寄せて振り向いた。
「珍しい面子だな」
土方の目の前に腰を下ろし、永倉が口を開く。
「ああ、まあな。本当は俺達だって黙ってるつもりだったけどな、
そろそろ限界なんじゃねぇかと思ってよ」
無精髭の生えた顎をポリポリと掻きながら、言葉を続ける。
「あいつ、日に日に様子がおかしくなってるぜ?」
「ろくに寝てないようだし、飯もほとんど食ってない。あれじゃいつ倒れても
おかしくないぞ、歳さん」
「今のところ隊務に支障はねぇけどな。あれは普通じゃねぇよ、土方さん」
井上と原田も言葉を重ねた。
「あんたや近藤さんの事だ、気づいてるんだろう? まさかこのまま放っとく
つもりじゃあるめぇ? あいつは確かに今の状態でも鬼のように強ぇえ。
だがな、命の遣り取りをしている現場では一瞬の隙さえ致命的なんだ。
今みたいに心をどこかにやっちまってるような有様じゃ、いつ何があるか
わかったもんじゃねぇぞ」
大雑把で直情に見えていながら、実は細かに周囲を観察している永倉の言葉に
土方はますます眉間の皺を深める。
「あぁ、わかってる。近藤さんが心配してそれとなく松本法眼に見てもらった」
男達が詳しい話を聞こうと身を乗り出す。
「打つ手は無ぇそうだ。あいつの心の中の問題に、他人が干渉することなんざ
できやしねぇって事だった。唯一あいつの支えとなれる近藤さんの言葉さえも
今のあいつにとっちゃ救いにならねぇらしいんだ。どうにもならねぇ」
淡々と吐かれた土方の言葉に井上と原田は腕を組む。
確かに自分の全てと定めた近藤の言葉さえ響かぬのなら、
自分達に何ができようはずもない。
けれど永倉だけは強い瞳で土方を見据える。
「いるだろうが、もうひとり。今のあいつを救えるヤツがよ。 ・・・いや、違うな。
そいつ以外にあいつを救えるやつはいない、と言った方が正しいな」
表情を変えずに自分を見返す土方の目から視線を逸らさぬまま続ける。
「なんで会わせねぇ、神谷に」
「あいつは隊を出したんだ。もう関係無ぇ」
「関係無ぇはずないだろう? 今の総司を見てるのか? 土方さんよ。
いつもいつでもあいつの目は誰かを探して彷徨ってる。
あんなに四六時中ピリピリと張り詰めていたら、どんなヤツでも壊れちまうぞ?
あんたにそれが判らねぇはずもねぇだろうが」
徐々に激しさを増していく永倉の言葉に土方は視線を厳しくする。
「総司が、会いたくねぇと言うんだ。無理矢理どうこう出来ねぇだろう」
突き放した言葉に永倉が席を立とうとする。
「そうかい、わかったよ。だったら俺が直接神谷に話す。女子だろうが何だろうが
神谷は神谷に変わりは無ぇ。あいつの事だ、今の総司の様子を聞きゃあ
間違いなくすっ飛んでくるさ。そうすりゃ総司の意地もそこまでだ。
壊れかけた自分を必死に支えているような今のあいつに、
神谷を突き放す強さなんざ残っちゃいねぇ」
原田と井上も腰を上げた。
「取り合えず会わせちまえば少しは好転すると思うぜ」
大雑把な原田らしい言葉に井上も頷いている。
そんな二人に構わず永倉が土方を見下ろす。
「神谷は、里乃って女のところにいるんだな?」
土方は歪んだ表情を見せぬように顔を背け、喉の奥から声を絞り出した。
「いねぇんだよ・・・」
「あ?」
怪訝そうな永倉の声に背けた顔をそのままで言葉を返した。
「神谷のやろう、女のところから消えやがった。それきり行方が判らねぇ・・・」
ようやく明かされた総司の異変の真の理由に、男達は言葉を無くした。
セイへの恋情を抑えきれなくなった総司が、セイが女子である事を近藤土方に
告白し、自分にとって女子への恋情などは害にしかならぬと言い捨てて、
突き放すようにセイを隊から出す事を押し切ったのは、桜も散り果てた若葉の頃。
思い切り良く剃っていた月代部分の髪が、見苦しくなく生え揃うまでの間、
セイは里乃の家で静かに暮らしていた。表向きは。
総司との約束でセイの髪が整い次第、彼女の嫁ぎ先を探す約束をしていた
近藤が里乃の家を訪れたのは打ち水涼しい、夏も終わりの夕刻の事。
来訪の用向きを告げた近藤に、里乃は静かに首を振った。
「おセイちゃんは、おりまへん。黙って出て行かはりました」
そして近藤が来たら渡してほしいと文が置いてあった、と目を伏せた。
破るような勢いで近藤が開いた文には、女子という事を黙っていた件の侘びと
それが発覚して隊を出てからも、彼女が暮らし向きに困らぬようにと近藤始め
幹部の皆が手を差し伸べてくれた事への感謝の気持ちが丁寧に綴られていた。
幾度もの礼の言葉の最後に、それでも自分の生き方を誰かに任せて
生きる事は出来ないと、このまま誰かに嫁す事は出来ないと書かれ、
勝手をする事を許して欲しいと締めくくられていた。
顔色を変えた近藤に問われても、事情を聞いて駆けつけた土方に
詰め寄られてもセイが兄とも慕っていた斎藤が情に訴えても、
里乃は何も聞いていないと言い続けた。
ただセイは鬼の住処を追い出され、本当の地獄に堕ちて行ったのだ、と
哀しげにポツリと漏らしただけだった。
セイが自分の身を売ったのは夏の終わり。
里乃のいた置屋のツテで過激派浪士達が多く利用する花屋へと
話をつけてもらった。
美しく初々しい少女は、すぐに幾人もの馴染み客がつく売れっ妓となった。
たとえ胸元に醜い火傷の跡があり、あちこちに痛々しい刀傷があろうとも。
「はぁ・・・」
いつの間にかクセになった溜息を空に向かって解き放った。
自分が望んだ事とはいえ、男に身を売る暮らしがつらくないはずもない。
真の名のまま清らかだった己が身を、初めて男に穢された時は、
あまりのおぞましさに歯を食い縛り、ただ一心に愛しい人の面影にすがって
その苦行を堪えきった。
気を許せば零れ落ちそうな涙を、気の遠くなりそうな痛みを意識することで
ひたすら耐えた。
己がこの身が愛しい人の障りとなる事を知ったあの日に、二度と泣かぬと
心に誓った。
強き恋情故に惑うのだと、だから隊から出すのだと、あの日総司は
苦しげに言った。
不器用な男が始めて明かした自分への深き想いが、そのまま別離の
言葉となるとは、余りの皮肉さに苦笑すら浮かびはしない。
されどそれでも自分の想いは揺らがぬのだから。
泣かずに全てから目を背けず、自分の全てを捧げると決めた男の為に
自分ができる事をしようと、あの日心に刻んだのだ。
だから泣かない。
自分はもう・・・泣けない。
それでもなお・・・時折苦しいほどの恋しさに、心が痛みを覚えるのは
弱き女子の業なのだろうか。
「はぁ・・・」
またひとつ、溜息が風にさらわれ空に溶けた。
「ほぉ、噂通りのいい妓だな」
呼ばれた座敷の奥で男が笑う。
一瞬足が止まりかけたが、セイは何もなかったように歩を進め、
膳を前に行儀悪く片膝を立てる男の隣に座った。
笑みを浮かべて媚びる事も無い、その凛とした佇まいを『月光花』と
誰かが詠んだという遊女は、噂の如く表情を凍らせたまま。
されど仕草はどこまでも柔らかで、しなやかに空いた杯に酒を満たし、
しどけなく身を寄せてくる。
座興にと舞を披露する幼き舞妓達を眺めるそぶりで、目の端にセイを捉えつつ
土方は内心頭を抱えた。
セイらしい女を見つけたのは山崎だった。
土方が全幅の信頼を置く新選組監察筆頭のこの男は、幾度か隊務で
セイと関わりその気質を気に入っていた。
ゆえに隊務の傍らそれとなく彼女の行方を探していた。
情報を集める事にかけて、監察方の能力はかなり高い。
それでも土方達が捜索を命じる事のできない事情を察していた山崎が、
個人で情報を集めていたのだ。
神谷が女子だった、という事は隊の中でも機密扱いとされており、
幹部の一部にしか知らされてはいない。
だからセイの行方が知れなくなった事で、どれほどに近藤が心を痛めようと
土方が気を揉もうと、表立っての捜索を命じることなど出来ようはずもなく。
総司が表向きは甘味処巡りや散歩に行く顔を取り繕いながらも、
巡察が夜番の時の昼間に、非番の度に、その他隊務以外の全ての
持てる時間を注ぎ込んで、必死にセイを探して町を歩き回っている様を
見て見ぬふりしか出来ずにいた。
弟分が少しずつ心を磨り減らしていくのを知りながらも。
けれど小さな噂を丹念に辿っていた山崎が、セイらしき女の情報を
土方にもたらした。
土方が想定していたいくつかの可能性の中でも、最悪の場所を。
甘く濃密な香が焚かれ布団の敷かれた部屋に妓と移った土方が、
こちらに背を向け帯を解こうとしているセイに声をかけた。
「とんでもねぇ事、やってやがるな。神谷」
「へぇ? 何の事どす?」
帯を解き、豪奢な打掛を足元に滑り落とした妓が振り向いた。
と、いつの間にか後ろに立っていた土方がセイの襦袢の前合わせを強引に開く。
胸元の火傷の跡をちらりと確認しただけで、男の手にされるがままにいる
セイの目を見つめながら着物を調えてやる。
「その顔、声、胸元の火傷跡、これだけ揃って知らん顔はできねぇぜ、神谷。
いい加減観念しやがれ。じゃねぇと、まともに話もできやしねぇ」
「いやどすなぁ、どなたはんと勘違いしてはるんか知りまへんけど、
うちは“旦那様”とは、お初にお目にかかるんと違いますやろか?」
『その妓は客の男を“旦那様”と呼ぶらしいですよ』と複雑な顔をしていた
山崎の言葉が甦る。
ただひとり好いた男をそう呼ぶ事は許されず、望まぬ男の妻として
その誰かを“旦那様”と呼ぶ事を強いられた娘。
それを拒んで姿を消した娘が、どんな気持ちで自分を買う男をそう呼ぶのか。
敵味方を問う事無く、あまたの命を斬り捨ててきて、どれほどの怨嗟の声にも
揺らがぬ感情を保っていた土方が、ひどく泣きたい思いに駆られた。
「ひと月前からだ。尊攘浪士達の大きな動きの情報が、しかも新選組にとって
喉から手が出るほど欲しい情報が、正確に調べられて屯所に
投げ込まれるようになった。お前がこの店に出たのがふた月前。
ひと月かけて馴染みの客を作り、そいつらが口を滑らせるように
なった頃だな。」
妓は表情を変えぬまま、話がわからないとでもいうように小首をかしげて
土方を見つめている。
「いくつか投げ込まれた文。あれは里乃って女の手蹟だ。お前を預けている間に
何度か近藤さんの所に文を寄越していたから、近藤さんが覚えていた。
お前の字だと俺達にすぐに知れるから代書を頼んだんだろうが、
残念だったな」
妓はまだ黙ったままだ。
「里乃って女を締め上げて吐かせなきゃ駄目かよ?」
僅かに強まった土方の口調に、妓は不思議そうに答えた。
「うちはこの店の遊女どすえ? “旦那様”にそないに気ぃかけてもらう理由が
わからしまへんのやけど・・・」
一瞬土方の頭に、このままセイを抱いてしまって自分の持てる手技を使い
忘我の淵に追い込んだ上で、堅く凍った心の壁を叩き壊す方法が浮かんだ。
いくら遊女として男を相手にしているとはいえ、まだそれほどには
閨事に慣れているはずもない。
自分の手にかかれば赤子同様、抵抗する術とて無いだろう。
だが・・・相変わらず表情を消したまま、けれどその瞳だけは隊士の頃と
変わらずに、凛と真っ直ぐなこの娘は膝を屈する事は無いとも思えた。
それぐらいなら今度こそ死を選ぶだろうと。
このどうにも頑固で愚かで不器用な娘が、凍てつかせたままに抱え込む心を
溶かせるのは、今も必死に京の町をこの娘の姿だけを求め探し回っている
こちらも不器用で頑固で愚かな弟分しかいないのだろう。
欲するものは同じだというのに、すれ違ったまま狂い続けるふたりの想いに
もはや周囲が介入する事は不可能だと見切りをつけた。
「いいさ、どうしても俺と話をする気が無ぇと言うならな。お前の好きにしろ。
・・・ただし」
セイの目を睨みつけるようにして告げる。
「次にここに来るのは総司だ。覚悟しておくんだな」
それまで僅かたりとも変化の無かったセイの瞳の中で、確かに何かが
揺らいだのを見た土方は、そのまま背を向けて部屋から出ようとした、が。
「あぁ、でもな、総司に会いたくねぇなんぞと死んだりするなよ。
そんな事をしたら、今度こそあいつは腹を切るぜ。これは脅しなんかじゃ
ねぇからな。今の総司は、それぐらい追い詰められてるんだ」
視線を落とした土方が苦しげに呟いて、今度こそ姿を消した。
挿絵 : uta様