相闇行脚
二
澄んだ空がひどく高い秋の日差しの中、その男は静かにそこにいた。
遊里から屯所に戻った土方はその足で総司の居場所を隊士に問い、
その姿を求めて庭伝いに足を運んだ。
総司は裏庭に面した縁に腰掛けてぼんやりと庭を眺めていた。
いや、庭などこいつの目には映っていない。
土方には判る。
総司が眺めているのは在りし日の記憶。
この裏庭いっぱいに洗濯物をはためかせ、その間から顔を出しては
楽しげに笑う前髪の小柄な隊士の姿。
『もう少しで干し終わりますから、甘味処はそれからですよ〜』
『判ってますってば。あまり慌てて転ばないでくださいよ。
せっかく洗った洗濯物が泥だらけになっちゃいますよ〜』
『そんなに粗忽者じゃないです! 失礼ですね!』
『あはははは』
ほんの少しの間和んでいた総司の瞳が翳っていく。
その左手が無意識に自分の隣に伸び、幾度か指先で床板を撫でる。
まるであの日々の中、当然のように隣にあった温もりを探すかのように。
土方の目に総司の隣に並んで腰を下ろし、にこにこと嬉しそうに団子を頬張る
セイの姿が浮かび上がった。
天気の良い日。
甘味を手にしながら子供のようにじゃれ合う二人の姿を何度も見かけた。
あまりに楽しそうで暢気そうで、緊張感が足りぬと怒鳴りつけた事も
一度や二度ではない。
総司の大きな背中の向こうから、威嚇する子犬のような瞳で
自分を睨みつけていたセイの姿も忘れてはいない。
温かな優しい時間の残像を守るように、土方は一度瞼を閉じた。
「総司」
土方の呼びかけに静かに顔をそちらに向ける。
床を撫でていた左手をそっと膝元に引き寄せながら軽く握りこむ。
冷たい床の感触とて、記憶の中の温もりを重ね合わせそれを逃すまいと
思うのか。
土方の存在を感知した瞬間から総司の気がピリピリと張り詰めていくのが判る。
ぐらつき揺らぐ己の周囲に強固な壁を纏わせながら、内を見抜かれぬようにと
するのは精一杯の意地なのか。
けれど瞳の翳りを消す事までは出来ぬ、不器用な弟分の隣に
土方は腰を落ち着けた。
「ひでぇ顔色だな。あんまり寝てねぇんじゃないかと源さんも心配してたぞ」
常に無い土方の優しい物言いに、総司は困ったように首を傾げる。
「井上さんは心配性ですからね。大丈夫、ちゃんと寝てますよ」
平素と変わりないように答えているつもりなのだろうが、その声には
どこか力が無い。
恐らく永倉達幹部だけではなく、総司の配下の連中もこの様子を
感じているのだろう。
それが証拠に廊下で庭で土方とすれ違う度に、何かもの言いたげな
目をしている。
あちこちに心配かけやがって、この馬鹿が・・・と胸の内で舌打ちしながら
土方が問う。
「今日もあいつを探し回ってたのか」
先程土方が総司の居場所を尋ねた時に、その隊士は総司も少し前に
外出から戻ったところだ、と言った。
夕刻からの巡察まで、この男はセイを捜して町を彷徨っていたのだろう。
「何の話ですか?」
色の無い瞳で土方を見ながら総司が笑う。
「今日は北野のお団子屋さんに行って来たんですよ。久々だったんですけどね。
相変わらず餡のコクがあって美味しかったなぁ・・・」
長閑とも言える口調で続けながらも、総司の纏う気は緊張感を増していく。
どこまでもセイに対する己の感情を他者に見せまいとするその頑強な意志には
感服するが、内面が空洞なのではそれも弱者の強がりでしかない。
どちらにしろ土方はこのままゆるゆると精神の均衡を崩していく弟分を
放置するつもりは無かった。
「いい加減にしろよ。お前が必死に神谷を探しているのは誰もが
気づいてるんだ。 だがな、それもここまでだ。
正直になって洗いざらいてめぇの本音を口にする覚悟を決めろ」
相変わらず感情を見せない瞳が土方を見返す。
「本音って、そんなもの・・・」
「吐き出すのは俺にじゃねぇ」
言葉を遮られ、何を言い出すのかという顔をする総司に条件を突きつける。
「お前が弱さをさらす覚悟ができるなら、とっておきの情報を教えてやるぜ」
「また土方さんってば、勿体つけて〜」
故意に軽い調子を作る総司に土方が切り札を出した。
「神谷を、見つけた」
総司の瞳に激しい光が瞬いた。
座敷に入った途端、自分にぶつけられた凍りつく気にセイの足が止まった。
正面には強張った表情のまま、膳を前に端座した男の姿。
仲居も舞妓もその異様な空気に怯えたのか、男から距離を取るように
部屋の隅に固まっている。
再び足を動かしたセイは男の隣へ辿り着くまでの間も、めまぐるしく思考を
働かせていた。
土方が来てからこの瞬間を覚悟していたはずだ。
いずれ遠からず総司本人がやってくるだろう事は。
その時自分はどうするべきなのか。
土方に対したように、徹頭徹尾見知らぬ遊女として接するべきか、
それとも真実を明かし、その上で自分に拘わるなと突き放すべきか。
幾度考えようとも堂々巡りを続ける思考は今でも答えに至っていない。
それどころか総司の姿を目にしただけで、思いは千々に乱れまともな思考にさえ
なっていないような気もする。
会いたくて会いたくて狂う程に求めていた男が目の前にいるのだ。
セイの視線は一瞬たりとも総司から離れる事はできなかった。
けれどだからこそ気づく、総司の異変を。
セイ同様に僅かの間さえセイから視線を外そうともしないその男の瞳は暗く暗く、
深遠を覗いているかのように一筋の光も映さない。
それに・・・少し、痩せた?
心の中でセイは呟く。
セイの知っているこの男はどこか飄々としたものを身に纏わせながらも、
爽やかな風のような好青年で。
今のようにどこか荒んだ退廃的な気など、ただの一度も感じさせた事は
ないものを。
内心で首を傾げながらセイは総司の隣についた。
途端ふわりと漂う衣に焚き染められた甘い香に、総司の肩がピクリと揺れた。
初めて総司から視線を外し、怯える仲居達に場を外すよう言いつける。
不安そうな視線に大丈夫だからと繰り返すと、逃げるように部屋を出て行った。
二人きりになった部屋に落ちる沈黙の中、セイが銚子を持ち上げた。
「お武家はん、お注ぎしまひょ」
表情は変えぬまま、総司に盃を手にするよう勧める。
総司の様子を見ていて、きっと冷静に話をする事はできないだろうと
セイは思った。
二度とここに来るなと、自分に拘わるなと、多分言っても聞かないだろう相手に
身を明かしても無意味だ。
ならばただの遊女として通そうと決めた。
けれどさすがに総司を 『旦那様』 とは呼べなかった。
これは自分を買う男達に心を緩める隙を作らせるため、セイが必死に考えた
一種の手管なのだから。
ただひとり思いを寄せる男に向かい、すでに薄汚れたその言葉を使う事など
出来はしない。
そんなセイの手首をいきなり総司が握り締める。
無言のままで瞳の中を覗き込むように自分に引き寄せた。
「あっ」
小さく声を上げたセイだったが、僅かに苦笑すると顔を反らした。
「気ぃの早いお方はんどすなぁ。でもここではあきまへんえ?
お床に参りまひょか?」
滑らかな動作で立ち上がると、掴まれたままの手を引いて
総司にも立つことを促す。
総司はセイのなすがままに、隣室に用意された寝間へと入った。
室の襖を静かに閉めるとセイはやんわりと総司の手を外し、
そのまま部屋の奥の屏風の前で身を飾る打掛を肩から滑り落とした。
その下から現れた赤い襦袢を纏った華奢なセイの姿はひどく艶かしい。
わずかに項に散る後れ毛と、大きく開かれた後ろ襟から覗く真白い背中が
男を誘っているようで。
総司が不快気に目を細める。
再び総司の前に戻ってきたセイが、総司の着物を脱がせようと袷に手をかけた
瞬間。
低い声が響いた。
「私の事は『旦那様』って呼んでくれないんですか? 神谷さん」
挿絵 : uta様