相闇行脚



   三



「私の事は 『旦那様』 って呼んでくれないんですか? 神谷さん」



総司は袷からセイの手をもぎ離すようにして、そのまま握り締めた。

「うちはお武家はんの事・・・」

「駄目ですよ」

斬りつける様にセイの言葉を遮る。
そのまま顔を近づけ吐息のかかる距離で続けた。

「知らないふりなんてできません。させません。貴女は神谷さんだ。
 私が貴女を見誤る事なんて絶対にあり得ないんですから。
 シラをきり通し、言い抜ける事など許しません」

至近にある総司の瞳はセイが視線を反らす事を許さず。
けれどセイは必死に小首を傾げる事で、意味がわからないと伝えようとした。


「貴女は・・・」

掠れる声と同時に、総司の身体から力が抜けたように音を立てて座り込む。
握られたままの手に引き摺られてセイも畳に腰をつけた。



 



「貴女は・・・こんなところで、何を、しているんですか」

セイから手を離した総司が袴を握り締め、一言一言区切るように言う。

「土方さんから話を聞いた時、信じられませんでしたよ。まさか、と。
 私はそんな密偵のような事をさせるために、こんな場所に貴女を置くために
 貴女を隊から出したんじゃない。幸せになって欲しかったから・・・」

俯き表情を隠した総司が続ける。

「私は不器用だから、守るものは一つで精一杯なんです。だから貴女を手放した。
 誠も貴女も守ろうとしたら、いずれ両方守れなくなると思ったから。
 里乃さんに貴女から居場所を奪ったのは私だと責められても、
 それでも私にはそうするしか無かった」

セイは口を開く事無く、総司の言葉を聞いていた。

総司の思いなどわかっている。
たったひとつ守るべきものの為に、他の全てを捨て去って生きてきた、
そしてこれからも生きていくのだろうこの不器用な男に惚れたのだ。
だから影からでもその誠を支えようと自分はここにいる。
愛しい男の為になら、人の命を奪い取り血に塗れて生き行く事と、日毎夜毎
人の世の欲に穢され生きる事に何の違いがあるものか。
選び取りしは己なのだ。
今更総司が胸を痛める道理も無い。



「貴女がいれば私は揺れる。あるはずもないと思っていた恋情に惑わされ、
 たった一つ守りたいものさえ見失う気がした。だから・・・」

総司は片手で顔を覆った。

「貴女がいなくなれば、私は以前と同じように近藤先生のお役に立つ事だけを考え、
 その為だけに生きられると思ったんです。だというのに、貴女が屯所を出て行っても、
 私は貴女の事しか考えられなかった・・・」

その声は呻くように苦しげで、小さく震える身体が今にも壊れそうに脆く見える。

「・・・会いたくて・・・会いたくて。会いたくて会いたくて会いたくて!!
 何を見ても何をしてても貴女の影を追ってしまう。貴女の事しか考えられない。
 隊務の最中でさえ、無意識に貴女を呼びそうになる・・・狂ったのかと思いましたよ。
 こんな自分は自分じゃないと。・・・けれど会いたくて・・・何度会いに行こうと思ったか・・・」

できる事なら手を伸ばし、そのおよそ彼らしくも無い激情を吐露する危うげな背を
撫でてやりたいとセイは思う。

「でも・・・今度こそ女子として幸せを掴むだろう貴女に会う事などできないと。
 もしも一目でも会ってしまったなら、私の中の貴女を求めて狂った部分が、
 今度こそ貴女を離すはずがないと思ったから、必死に耐えていたのに・・・」


ダンッ!


袴を握り締めていた手が激しく床を叩いた。

「貴女は! 姿を消したっ!」

同時に手の平が顔から外れ、闇を宿した瞳がセイを睨みつける。

「地獄へ行ったと里乃さんは言った! 近藤先生や土方さんが幾度問いただしても
 それ以上は教えてくれなかった! 私がどんな気持ちだったか判りますか?
 今頃どこかで危ない事をしているのかもしれない。怪我をしているかもしれない。
 もしかしたら、私を呼んでいるかもしれないって・・・。」

「せんせい・・・」

思わず漏らしたセイの声に、総司は苦く笑う。

「そう、その声です。ずっと聞こえてきて、耳から離れなかった・・・。
 誰かと話をしていても、寝ていても、斬り合いの最中でさえ聞こえるんです!
 貴女の呼ぶ声が! 私に助けを求める声がっ!!」


セイは総司の姿を信じられない思いで見つめていた。
この人は風のように自由で軽やかで。
自分という重荷から解き放たれれば以前のように穏やかに、けれど自分の誠を貫くために
ひたすら空に向かって吹き上がると思っていた。

それが・・・風は澱み、狂い、地に縫いとめられたまま。



「探した。探しましたよ。きっと貴女は呼んでいる。私が行くのを待っていると」

今まで押さえに抑えていた激情を解き放ち、思いのままに言葉を吐き出していた総司の瞳が
急速に光を失う。

「まさか・・・こんな事になっていたなんて・・・
 誰よりも誰よりも幸せになって欲しかったのに・・・貴女だけは・・・」

虚ろな眼を隠すように両手で顔を覆い背を丸め、その身を小さく小さく縮めていく。
小さくなるその身と反比例するように総司の身体が大きく震え始める。

「私のせいだ・・・私が追い詰めた・・・自分の事しか考えず貴女の心を傷つけて、
 私が貴女をっ!!」

「違いますっ!!」

耐え切れずセイが叫んだ。
そのまま総司の身体を抱き締める。

「違う! 違うんですっ! 先生が自分の誠を思うように、私も私の誠を
 守りたかっただけなんですっ! 先生のせいなんかじゃないっ!!」

ガタガタと激しく震えるその身を強く強く抱き締めて、回した手で幾度も背中をさする。
どうかどうか少しでもこの男の心の傷を癒せるようにと祈りを込めて。


「先生、先生、せんせい!」

セイにはただ呼ぶ事しか出来なかった。
地に縫いとめられ自分を見失った風は、居場所を失くし狂いしままに
消える事しかできぬように見えたから。
花が落ちてしまおうと、その身を男の欲という汚泥で穢そうと、自分という草は貴方という風に
触れる事は出来るのだと、風を受け共に揺れる事は出来るのだと教えたくて。




「沖田先生・・・おきたせんせい・・・」

幾度も幾度も繰り返した。
赤子を眠りに導くように、柔らかに穏やかに背を撫でる手を止めぬまま。

「せんせい・・・沖田先生・・・おきたせんせい・・・」

ゆっくりと、温かな陽に照らされ氷が溶けるが如くゆっくりと総司の震えが静まっていく。
いつの間にか縋るようにセイの背に回されていた手から力が抜ける。
それでも薄い襦袢越しに感じる総司の手は、微かに震えていて。

「大丈夫です。先生は何も悪くない。全ては私の望んだ事です。
 もう、ご自分を傷つけるのはやめてください・・・。先生は悪くないんですから」



「違う・・・」

セイの腕の中でポツリと声が落ちた。

「悪いのは私です・・・」

ゆるゆると顔を上げた総司が唇を噛む。

「どうすればいい? どうすれば貴女は私の手に戻ってくれるんです?
 ねぇ、神谷さん。教えてくださいよ」


土方の言葉の意味が今更ながら理解できる。

『今のあいつは追い詰められている』

その通りだ。

近藤を守るという自分の誠のために、揺らがぬように惑わぬように
全ての感情との間に壁を作っていた男は、その壁を取り壊されてしまえば
むき出しの脆い神経を無防備にさらしていた。

自分の全てを捧げると決めていた敬愛する師と兄分に、心を尽くして与える事にのみ慣れ
長けていたこの男は、求める事にはひどく臆病で。
あり得ない、許されないと思っていた恋心ゆえに、たったひとりの娘を求めて求めて
止まない己の心に思い惑い、逃げるかのように突き放してしまった。
そのせいで、無意識の内にセイに向かって恐々と伸ばしかけていた手の行き場が
無くなってしまったのだ。

無垢とも言える総司のセイを求める心は、理性と感情が激しく争いあうその狭間で
少しずつ少しずつ均衡を崩し、その神経は今やズタズタに傷ついているのだ。

愛しさゆえに無意識の内にも自ずから壁を取り壊さざるをえなかった、その存在のせいで。




とりあえず総司を少し落ち着かせるべきだと思ったセイは、静かに背を撫でていた手を止めた。

「沖田先生。考える事の苦手な先生が、あんまり色々と考えてお疲れになって
 いらっしゃいませんか? お茶をお持ちしますから、それを飲んで続きは
 それからお話しましょう?」

張り詰めきっている総司の心の糸を柔らかく緩めるように、そっと言葉を口にする。

「私はっ!」

再び激しそうになるその言葉を、ふんわり笑って押し留めると
セイは総司から身を離そうとした。

けれどセイの背に回った手は緩まる気配が無い。

「先生?」

「お茶なんていりませんっ! この手を離したら、また貴女はどこかへ行ってしまう。
 私の前から消えてしまう。もうそんなのは嫌なんです!」

再び身体を震わせる男の瞳の中を覗き込んだセイは言葉を失った。

そこにはこの男の中には決してあり得るべくもないと思っていた怯えきった色。
縋るようにセイを見つめる瞳は、自責と焦燥から己自身がつけた深き傷を
修復しようもなく、頼りなげに揺れる。








病んでいる。
すでに心が病んでしまった。

呆然としながら、セイは幾度も心で言葉を繰りかえす。
そうしながらもひどく冷静に思考が回る。

きっとこの男を癒せるのは自分だけなのだろう。
だからこんな状態だと知りつつも、土方は不安定なこの男を自分の元に送り込んだのだろう。
現状を己の目で確かめて、己の成すべきことを成せ、という所か。

『てめえが蒔いた種だ。てめえが刈り取れ!』

その声さえ聞こえるようだ。
確かにそうだ。
優しい優しいこの鬼を、惑わせ傷つけここまで追い詰めたのは自分なのだから。
セイは一度強く目を閉じた。


「大丈夫です。どこにも行きませんから」

意識を目の前の男に戻し、ゆっくりと口に出す。
それでも疑わしげな視線を送り、その手が緩まる事はない。

「どこにも行きません」

再び繰り返したセイの言葉に、総司がようやく口を開いた。

「だったら・・・だったら、こんな所は出てください。知らせをやればすぐにでも、
 貴女を身請けできるようにしてあります。贅沢はさせてあげられないけれど、
 貴女の家も探してもらってます。だから・・・だから・・・」

必死とも言える様子で紡がれる言葉に、セイが静かに頷いた。

「はい。先生が望まれるのでしたら、如何様にでも」

一瞬ぽかんとした総司だったが、次の瞬間弾けるように問いかける。

「本当に? 本当ですね? 嘘じゃないですね?」

繰り返される確認の言葉に、セイは困ったように頷くしかない。

そんな様子に満足したのか一度大きく息を吐き出した総司は、この男にしては
珍しいほどの大声で人を呼ぶと土方の元に走らせた。
間を置かずセイの身請けを整えた切れ者副長と愛しい男に伴われて、
その日のうちにセイの姿は遊里から消えた。

その間、総司はただの一度も握り締めたセイの手を離すことは無かった。








「どうですかね、あいつの様子は?」

小さな家の小さな庭に面した濡れ縁に端座した男が、同じ縁で障子の桟に
凭れ掛かる男に尋ねる。

「ああ、大丈夫だろうよ」

目の前の庭でこちらに背を向けたまま並んでしゃがみこみ、何やら言い合っている
一組の男女に目を向けたまま言葉を続ける。

「元々やつは強ぇんだ。だがな、これは本人が言ったんだが『感情に鈍感になる』事に
 慣れすぎて、ちぃと成長が遅れちまった。どんな良い鋼だって、鍛えられにゃあ強くはならん。
 本来はゆっくり成長すべきものなんだがな。ヤツは不器用者だから、
 今迄のツケが一気に来ちまって、少しばかり無理がきたってだけだ」

その言葉に土方が呆れたように笑った。


ここは総司がセイの為に用意した休息所。
ここで時折監察の手伝いをしながらセイは暮らしている。
今日は土方を伴って松本が訪れていた。


「近藤は少しでも早くふたりを娶わせたいと思っているんですがね」

何か楽しい話でもしているのか、笑い声を上げる総司達に視線をやり土方が呟く。

「そりゃあ、どうかな」

総司にしてもその意思があるのは松本も聞いているが、セイにその気が無いらしい。
総司も無理強いするつもりはないようだ。
短い間とはいえ遊女であった自分を恥じての事なのか、それとも他に理由があるのか、
松本も詳しく聞いていない。
けれどそう心配はしていなかった。

「やはり・・・気にしているのでしょうか」

土方もセイの心情については松本と同じ事を考えているようだ。

「さぁな。だが大丈夫だろう。あいつらは妙なやつらさ。
 相手を守る事となったら、とことん強い。強くなりやがる。
 もしもセイがそれを心の傷としているなら、今度は沖田の野郎がその傷を癒すだろうよ」

セイが沖田を癒したようにな・・・続いた松本の言葉に土方の口元が緩んだ。




ようやく愁眉を開いた鬼副長が庭の二人に声を投げる。

「おい、てめえら、いつまで客を放っとくつもりだ!」


耳慣れた怒声に振り向いた二人の顔には、翳りを感じさせない明るい笑みが浮かんでいた。







挿絵・背景 uta様