忘れじの蕾
一
黒谷へ行った土方から急な呼び出しが来た。
何事かと慌てて向かったセイの前には、会津武士らしく謹厳さと朴訥な空気を纏った
初老の男が座していた。
隊務・・・にしては、どうも空気がおかしい。
隣に座る土方からしてどこか居心地の悪そうな、この男にしては珍しくも
ひどく落ち着かない様子を見せている。
「あ〜、神谷。こちらは一瀬殿と申されて、会津の御重役の遠縁にあたる方だ」
「はぁ・・・」
そんな人が自分に何用だろうかと疑問に思いながらも姿勢を正す。
「新選組一番隊隊士、神谷清三郎にございます。以後お見知りおきを」
「あぁ、こちらこそ」
セイの挨拶に一瀬がおっとりと応じる。
「それでだな。この一瀬殿からお前に話があってな・・・」
何かを含んだように言いづらそうに土方が語りだした。
セイの頭を真っ白にしてしまうような話を。
「ちょ、ちょっと神谷さん。貴女に縁談ですって?」
西本願寺屯所の裏庭に面した濡れ縁に、セイは立てた膝を抱え込むようにして座っていた。
麗らかな春の陽射しを全身に浴びたその姿は、遠目に見ればただのんびりと
日向ぼっこをしているように映るかもしれない。
あちらこちらを探していたのか息を弾ませながら問いかける総司をチラリと見やると
セイが答える。
「はぁ・・・そうなんですよ。会津の御重役の遠縁の方の“娘”さん」
「な、なんで。貴女は・・・」
総司はきょろきょろと周囲を見渡し気配を探り、誰も居ない事を確認してから
再び言葉を続ける。
「貴女は女子なんですから、お嫁さんなんて貰えないでしょう?」
「はぁ・・・そうなんですよ・・・。でも何だか事情が込み入っていて・・・」
「どんな事情があるんだか知りませんけど、無理は無理です。土方さんだって
神谷さんが如身遷だって知ってるのに、どうしてそんな話を受けたのか!」
どうやら総司は土方に対して怒りを覚えているようだ。
「はぁ・・・でも会津様の御重役の頼みですし、副長にしたら断れないですよ。
それに・・・」
「貴女、まさか受けるつもりじゃないでしょうね?」
「はぁ・・・何だか断れないかなぁ・・・って気配が」
セイの言葉を遮ってその両肩をがしりと握ると、総司が言い放った。
「駄目ですよっ! 駄目ですからねっ! そんな無茶な事は許しません!
だいたいが相手の娘さんにだって失礼じゃないですか」
「どの口が言います?」
ふいと冷たい視線を送られて、思わず「ぐっ」と言葉に詰まった総司だったが
負けじと言い返す。
「私の縁談は近藤先生の命令だったから仕方が無かったんです!
それにもう終わった事でしょう」
「私の縁談だって場合によったら会津公の命令になりかねませんよ。
向こうの口調はそんな感じでしたし・・・」
はぁ・・・と何度目になるかわからない溜息を落としつつ、肩に乗ったままだった
総司の手を払うと、セイは立てた膝に顔を埋めた。
「そ、そんな話になってるんですか?」
セイの言葉に総司が顔色を変える。
「えぇ。だって “娘さんを娶って婿として養子に” って話なんですよ。
会津の藩士にって事は、主君である会津公にだって話は行くじゃないですか」
「そ、そうだ。里乃さんがいるからって事でお断りを・・・」
滅多に使わない頭を必死で動かしたらしい総司の言葉にセイが顔を上げ苦笑する。
「先方はそれでも良いそうです。里乃さんを囲ったままで問題無いと。
ついでに言えば如身遷の事もご存知で、そちらも構わないそうです。」
「だ、だけど、貴女は近藤先生の為に新選組で働きたいって・・・」
「えぇ、どうしても隊から離れたくないなら残っても良いと。その場合は会津からの
出向という形にするか、養子という事では無くするか、その時に考えるという事でした」
「それじゃぁ、貴女、逃げ道が全く無いじゃないですかぁ」
総司の情けない声にセイも項垂れる。
「はぁ・・・副長も色々と理由を挙げて断ってくれたらしいんですけどね。
こっちの言い分は全部飲むから、と言われては如何とも・・・」
力無い溜息を繰り返すセイを見ていた総司が、ふいに気づいた。
「あれ? でも話が変じゃないですか? 婿として、というわりに里乃さんの事といい、
如身遷の事といい、全てを認めるなんて不自然ですよ?
相手の娘さんは納得してるんですか?」
考える事が苦手なはずのこの男がよく気づいたなぁ、などと失礼な事を思いつつ
セイが答えた。
「その娘さんが問題なんですよねぇ。何と言うか、話を聞いてしまったら
うかつに断れないというか・・・副長だって・・・」
「神谷」
投げかけられた声がセイの言葉を遮った。
総司とセイが振り返った先には斎藤と見知らぬ男の姿があった。
総司とそう年齢が変わらぬだろう長身の総髪の男が二人に軽く会釈をする。
「お前に客だ。会津の方だそうだ」
斎藤のその言葉に表情を固まらせたのはセイではなく総司だった。
用件だけを伝えると客をその場に置いたまま斎藤が場を離れた。
てっきり総司も続くと思ったセイだったが、その思惑と違い総司はその場を動こうとはしない。
「沖田先生?」
小さく尋ねるセイの言葉を聞き流し、総司は男に向かって問いかけた。
「私は一番隊組長、沖田総司と申します。神谷清三郎の直属の上司で、
この人の兄代わりでもありますので、同席させていただきますが宜しいですね?」
それは一見問いのような意思通達だった。
そんな総司を困ったように見上げるセイに視線を向けて男は苦笑する。
「私は構いません。申し遅れましたが、一瀬亘と申します。
会津藩で医師の修行をしております」
ああ、だからか、とセイが納得する。
会津の藩士であるならば総髪など有り得ぬ事で、それを内心不思議に思っていたのだ。
松本を始めほとんどの医師は禿頭であるが、昨今の世情から最近は総髪の医師も
増えているらしい。
「一瀬殿と仰ると・・・」
総司が飲み込んだ言葉を亘が続ける。
「はい。先に神谷殿に突然のお願いをした一瀬は私の叔父に当たります」
やはり、とセイと総司が視線を交わした。
「どうやら娘可愛さに叔父がかなり強引に話を進めようとしたようで、お詫びを兼ねて
少し神谷殿とお話をさせていただきたく、ご迷惑を承知でまかり越しました」
お許しください、と頭を下げる様子は物腰といい語り口調といい穏やかな人柄が
滲み出ている。
では客用の座敷へ、と総司が腰を浮かしかけたのを押し止めて、この場で結構ですと微笑み
セイに断ってその隣へと腰を下ろした。
「せめて、お茶でも」
セイが口にした時、隊の小者が三人分の茶を乗せた盆を抱えて現れた。
どうやら斎藤が気を効かせて指示したらしい。
(神谷さんを守れって事ですか、斎藤さん)
三人分という事は総司がその場に残る事が前提となっていたわけで、
すでに事情を知っているだろう斎藤からの無言の気遣いに苦笑が浮かぶ。
両脇に座る男達に茶を出すと、セイが亘に向き直った。
「それで、お話とは」
緊張感を滲ませたセイの面に柔らかな笑みと共に亘が答える。
「千尋、この度の縁談の娘で私の従妹なのですが、生まれた時から身体が弱く、
十歳までも生きられないだろうと言われていたのです」
その話は既にセイは黒谷で聞かされていたから、これは総司に対する
説明の意味があるのだろう。
「寒さ厳しい会津の土地では尚更身体に無理があるだろうと、八つの時に
叔父が江戸藩邸にお役を賜りまして、それ以来江戸で暮らしておりました」
元々亘の家は江戸藩邸付きの医家だったため、幼い頃から兄妹同様に
接してきたのだという。
十まで生きられぬと言われた娘は今年十五となった。
弱い身体はそのままで、けれどいつも笑みを絶やさぬその姿は
一族の中でもことに可愛がられる存在となっていた。
「今年の春、叔父がお役目で京に移り藩医の南部先生と松本法眼が懇意だと伺って、
江戸から千尋を呼んだのです。高名な法眼ならもしや千尋の病を治せるのではないかと」
「診ていただいたのですか?」
静かに問いかけた総司に亘は小さく頷く。
「はい。でも生まれつき心の臓が弱いものはどうにもならぬ、と。
むしろこのような長旅をさせる方が余程身体に無理をかけると叱られてしまいました」
苦笑する亘の言葉にセイが目を伏せた。
「穏やかに静かに暮らせば命を長らえる可能性も皆無では無いと仰ってくださいましたが、
大きな発作が起きればそれは命に関わるとも。そして小さな発作は年々増えているのですよ」
総司もセイもどう言葉を返すべきかわからず、視線を庭の木々に投げた。
人の世の種々の感情など知らぬげに春の若葉は生を歌い上げ、
若緑の新芽を健やかに伸ばしている。
「自分の身体が弱いことで周囲に迷惑をかけていると、いつも千尋は遠慮がちで。
あの子のせいなどでは無いのですが幾らそう言っても伝わらず、己を責める
その鬱々とした気持ちが尚更身体を弱らせていくような気がしておりました。
それが先日叔父の忘れ物を黒谷に届けた時、お日様のような方に出会ったと
帰宅してからそれは嬉しそうに私に話をしてくれたんです」
いつもいつも控え目に消えてしまいそうな微笑を浮かべる少女が、歳相応に頬を染めて
自分の元に駆け寄ってきた姿が亘の眼裏に甦る。
「あんな嬉しそうな顔は初めて見ました。叔父も女子がそのような話をするなど
はしたないと叱る事も出来ず・・・むしろ相好を崩しておりました」
ははっ、と声を上げて笑う。
「ちょ、ちょっと待ってください。その“お日様のような方”っていうのが
私の事だと言うんですか?」
セイは笑う所では無い。
そんな話は黒谷でも聞いていなかった。
「誰かとお間違いではありませんか? 私はそんな大層な人間では」
「いいえ。神谷清三郎殿。貴方で間違いありません。黒谷の門前で石畳に躓きかけた
千尋に手を貸し、門衛にからかわれて真っ赤になっておいでだったと。
門衛が“神谷殿”と呼んでいたと千尋が言っておりました」
総司の伺うような視線にセイが小さく頷く。
確かに覚えがある。
数日前に黒谷へ書状を届けに行った時、門前で転びかけた娘に手を貸した。
北国独特のきめ細かな真白い肌が印象的な、ひどく線が細く儚げな少女だった。
「けれど、だからといって縁談などと」
総司が話を大元に戻そうとした。
静かに穏やかに暮らすべき人であるのなら、セイと祝言を挙げたとしても
この激動の京で暮らしていけるとも思えない。
「ええ。確かに祝言を挙げたとて妻としての務めは果たせません。名ばかりの妻となる事でしょう。
それにこの京の冬は厳しい。すぐに江戸へ戻す事となるかもしれない」
「だったら」
総司の言葉を遮って亘が言葉を続ける。
「でも、せめて一度くらい慕った相手の為に花嫁衣裳を着せてやりたいと。
そう叔父は思っているのですよ、沖田殿」
言外にもはや時が残されていないのだ、と亘は言っている。
総司もセイもそれを感じ取って口を閉ざした。
「もちろん名ばかりとはいえ神谷殿に妻としていただく以上、
叔父は出来る限りの事をすると言っております。
会津藩士となるも、一瀬の家を後ろ盾に新選組に残るも、全て神谷殿の思うままにと」
総司の眼にセイの身をギリギリと締め付けようとする鉄の鎖が見えるようだった。
情の深いこの娘は、儚い少女の願いを、周囲の人間の祈りにも似た乞いを
無下に突き放す事は出来ないだろう。
けれどこの娘に男として妻を娶らせるという不自然な事はさせたくなかった。
たとえそれが形ばかりの事だとしても、大前提に自分が女子の身だという偽りがある以上、
この優しい娘が胸を痛めぬはずが無い。
何よりセイが“誰かの物”となる事を思っただけで、吐き気がするほどの嫌悪感に
胸が漆黒に染まる。
セイの身を今にも縛ろうとする鎖を、腰の刀で切り払いたい思いに総司が唇を噛む。
答えを待つような亘の視線と激情を抑えた総司の視線が、俯いたままのセイの横顔に注がれる。
「一瀬殿」
つ、と顔を上げたセイが真っ直ぐに亘の眼を見つめた。
「千尋さんは今回の話をご存知なのですか?」
セイの問いに亘は困ったように視線を逸らした。
「いえ、まだ言っておりません」
あれが知れば神谷殿のご迷惑になるの何のと、また面倒な事になるので、と言葉を続ける。
「では、今回の事は一瀬殿と千尋さんの父上の一瀬殿」
「ああ、私の事は“亘”とお呼びください。紛らわしいですから」
「はい。ええと、亘さんと父上の一瀬殿が決めた事なのですね」
亘が頷いた。
「一度、千尋さんとお話をさせてはいただけませんか?」
セイの顔を見つめて眼を瞬いている亘に苦笑する。
「もちろん嫁入り前の娘御が、若い武士と二人で会うなど外聞も良くありませんから、
亘さんも同席してくださってかまいません。ただ私はきちんと千尋さんとお話をしてみたいのです」
セイの真摯な瞳に釣られるように亘が頷いた。
「はいはい、私も同席しますっ。良いですねっ、神谷さんっ!!」
勢い込んだ総司の声にセイがくすくすと笑いを零した。
「はい。ご一緒してください、沖田先生」
亘は翌日、千尋と会う場所と時間を言い置いて帰っていった。
「どうするんですか? 神谷さん」
「そうですね〜。お会いしてから考えますよ」
「そんなノンキな」
脱力感に座り込みたい思いで総司が呟く。
「そんな事より、亘さんは千尋さんの事を・・・」
「ええ」
セイが言葉を切った意味を悟り、総司も短く答えた。
亘が千尋の事を語る様子はとてもただの従妹に対するものとも思えなかった。
あんな眼をして愛しい者を見る男を自分は知っている。
総司は無口な三番隊組長を思った。
そしてもしや自分も同じ瞳で隣の娘を見つめているのだろうかと。
先程感じた嫌悪感の根差すところには気づいていた。
どうしようもない独占欲。
自分は何一つこの娘に与える事は出来ないというのに、勝手なものだと苦く笑う。
それでもセイの身を何かが縛ろうとする事には我慢がならない。
思い通りにならない心を抱えて、総司は空を見上げた。
続く
挿絵 : uta様