忘れじの蕾
二
翌日、黒谷に程近い木立に囲まれた小さな寺にセイ達は足を運んだ。
千尋のお気に入りの場所だという小さなお堂には優しい微笑を浮かべた
三寸程の木彫り観音像が安置されている。
セイが声をかける前に熱心に祈りを捧げていた少女が振り返り、
同時に隣に立っていた亘も振り向いて笑みを浮かべる。
簡単な挨拶を交わすとセイがニコリと笑って男達に場を外すように言った。
「ええっ?」
「ですが・・・」
不満そうな総司と不安そうな亘にセイがきっぱりと言い放つ。
「邪魔ですっ!」
「「・・・・・・・・・」」
視線を向けられた千尋も小さく笑って頷くのを見て、二人は森の中に消えていった。
過保護な兄分達の項垂れた様子にクスリと笑ったセイがお堂の階に腰を下ろし、
千尋にも隣に座るように勧めるが少女は静かに頭を下げた。
「この度は、父と亘兄様が大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
深々と下げられた頭に、セイが慌てて立ち上がりブンブンと手を振る。
「そ、そんな。貴女のせいではないのですし、頭なんて下げないでください」
「いいえ。私がはしたなくも神谷様の事を口にしたので、このような騒ぎに
なってしまったのです。全て悪いのは私です・・・」
言葉の途中でセイが大きな溜息を吐いた。
その様子にやはり怒らせていたのだと、千尋の体がビクリと固まる。
「まぁ、ですね。とりあえず座りましょうよ。落ち着いてお話もできませんから」
少々強引だとは思ったが、千尋の肩を抱えるように階に座らせセイも隣に座った。
「困ったのは確かです。私は妻を持つ気はありませんので。ですがお父上達の気持ちも
理解できない訳でも無く、どうしたものかと」
心底困ったという顔をするセイに、千尋の眉尻も下がっていく。
「でもね。とにかくお会いして話をしてみたら、互いに相手の気持ちが
理解できるんじゃないかと思ったんです。亘さんの話を聞いていても、
どうしても私には貴女が私を想っているとは聞こえなかった。
何かが違うと感じたのです」
その言葉に千尋の瞳が小さく揺れた。
「貴女が私に抱いたのは恋うという想いじゃない。そう感じたのです」
「・・・・・・はい・・・・・・」
しばらく口を開こうとしなかった千尋がセイの視線に折れるように答えた。
「はい、さようでございます。私は神谷様の生き生きとしたお日様の如き明るさに
惹かれましたが、それは命の輝きに満ちた春の草木を慈しむような
憧れともいえる感情でございます」
「やっぱり」
どこかホッとしたようにセイが千尋に微笑みかけた。
どのような圧力がかかろうと、縁談を受けるつもりは無かったが、
かといって千尋が真実自分の事を恋うているとしたなら、どう断ったものかと
実は眠れない程に悩んでいたのだ。
けれどどう考えても自分にそれほどの想いを寄せているとは思えなかった。
亘の話だけでしか千尋という少女の事は聞いていなかったが、それでも
たった一度会った相手に簡単に恋情を抱く娘には思えなかったのだ。
たぶん千尋が自分に抱いている感情は憧れのようなものではないかと
セイは考えていた。
同じ年頃の人間が生き生きと走り回っている。
雪弥の事を思い出すまでもなく、どこか眩しいものを見るような意識が
働いたのではないかと。
セイにも覚えのある感情だった。
町で綺麗に着飾った近い年齢の少女を見かけた時、胸のどこかに
憧憬に似た思いが過ぎるのだから。
けれど自分には唯一のものがある。
「先程も申し上げたように私は妻を持つつもりはありません。
私はまだまだ未熟者で自分の事だけで精一杯なのです。
だから誰かに対して責任を持つ事などできません」
小さく頭を下げながらセイが言葉を続ける。
「今の私には国のため、隊のため、何よりも尊敬する方のために
精一杯働く事しか考えられないのです」
「尊敬する方、ですか?」
「ええ、普段は昼行灯などと言われてどこか頼りないというか、
甘味馬鹿というような人なのですが・・・」
クスクスと楽しそうにセイが笑う。
それを見ていた千尋の頬も無意識に緩んでしまう。
「芯の部分は何があろうと揺らがない、真実の武士なのです。だから私は
その方にどこまでもついて往く。そう決めているんです」
きっぱり言い切って、また言葉を続ける。
「ただその方は、風になりたいと仰るんです。そんな事を言わなくても
風のような方なんですけどね」
セイが見えない風を追うように視線を空に流しながら笑う。
「風になって敬愛する局長を高く高く舞い上げるお手伝いをしたいんだって。
だから私は草になって、見えない風の居場所を教えられるよう、大きく大きく
葉を広げて身を揺らそうと思ったんです。風が自分を見失わぬように。
草がいつでも風と共にある事を忘れないように・・・」
そのまま立ち上がり、空に向かって大きく両手を広げた。
その背から一陣の風が立ち上り、セイの髪を大きく揺らして空に上って行く様が
千尋の目にははっきり映った。
「それにね・・・心の無い相手と祝言を挙げても、お互いに幸せにはなれないと
思いませんか?」
セイはゆっくりと千尋を振り返った。
先程亘と共にいた千尋の瞳の中に、隠しきれない熱を感じていた。
はっきりと確信できる訳ではないが、想う相手を見つめる女子の目とは
ああいうものなのだろうと思う。
自分もそんな瞳で総司を見つめているのだろうかと、セイは胸の内で苦笑した。
「貴女には心に大切に思っていらっしゃる方が居る。
私もそうだから、わかってしまうんですよね」
否定しようと口を開けかけた千尋は、セイの柔らかな微笑みに黙り込む。
「私は・・・結ばれる事だけが全てだとは思わないんですよね。
共に居られるとか、時折でも心を触れ合わせる事ができるとか・・・
それってとても幸せな事なのではないかなぁ、って思うんです」
まぁ叶わぬ恋を抱えた者の負け惜しみ、とも言うかもしれませんがね、と
悪戯っぽくセイが片目を瞑る。
「神谷様も叶わぬ想いを?」
そっとそっと風に散りそうな小声で千尋が問うとセイが苦笑した。
「えぇ。色々と事情がありまして。届きそうもありませんねぇ」
再び千尋に背を向けたセイが、今度は片手を空に伸ばした。
そのまま開いていた手をぐっと握り締めて胸元に引きつける。
「こうやって、ぐいぃぃぃっと引き寄せられたらいいんですけどね。
そりゃ無理ってものですから。・・・だからねっ!」
くるりと振り返ったセイの髪がぴょこんと跳ねた。
くるくるとあっちを向いたりこっちを向いたりせわしないセイの様子に
自然と千尋の頬にも笑みが浮かんだ。
「本体はほっぽっといていいんです。それは自分の自由になんてなりゃしないんですから。
でも想いはここに・・・」
ひどく優しく柔らかい動作で何かを抱えるように両手を胸元に押しつける。
「ここに大切に大切に抱えこんでおけばいいんです。
それだけは本体にも何もできない。私だけのものなんですから。
そしてここにある想いのおかげで、いつでも胸が温かくいられる・・・」
真っ直ぐに千尋を見つめたセイの瞳が鮮やかに光を放つ。
「そうは思いませんか?」
千尋は知らず潤む目をしきりに瞬きながら何度も頷いた。
セイに邪魔だと追い払われた男達は気配を覚られない程度の距離を置いて、
けれど二人の会話は聞こえる位置に身を潜めていた。
心配していたように千尋が泣き崩れる事もなく、穏やかな会話が続く様子に
そっとその場を離れた。
「本当に気持ちの良い方ですね、神谷殿は」
亘が感心するように口を開いた。
「正直、掌中の珠と千尋を慈しんでいた叔父が、何故にああも簡単に神谷殿を認めたのか、
強引にでも縁談を進めようとしたのかが不思議だったのです。
でも叔父はきっと神谷殿の人となりを知っていたのですね」
「ええ、あの人はよく黒谷へ遣いに行ってましたし、南部先生をはじめ
会津のお医師の方に色々な医術のご指導を受けていましたから。
ご存知でも不思議はありませんね」
小さく笑いながら言う総司の様子に亘が悪戯な笑みを浮かべる。
「さっきの風のような方、というのは沖田殿の事ではありませんか?」
亘の言葉に一気に耳まで真っ赤にした総司がくるりと背中を向ける。
くすくすと笑い声を漏らす亘に「からかわないでくださいよ」とブツブツと言っている姿は、
とても人斬り鬼と呼ばれる男には見えない。
亘の笑いが収まるのを待って総司が口を開いた。
「全く神谷さんにも困ったものです。あの人は自分を知らなすぎますよね。
何が草なんだか・・・」
「確かに草などという大人しやかな方では無さそうですね」
亘の言葉に総司が大きく頷く。
「もうね、暴れん坊で好奇心が旺盛で、放っておくと何をやらかすか判らない
鉄砲玉なんですよ、あの人は」
勢い込んで紡がれた言葉が急に小さくなった。
「だから・・・あの人は私という風など無くとも空へと舞い上がれるんです」
まぶしそうに輝く空を見上げながら総司が呟く。
「誰かの力など借りなくても、自分だけで羽ばたく事のできる、
大きな大きな翼を持っているんですよ。ねぇ、見えませんか?
あの人の背にある誰にも侵す事のできない真っ白な大きな翼が・・・」
つられるように亘も、どこか切なさを滲ませた瞳で空を見上げる。
「ええ、頼りなげに見えるものこそ、実は自由で伸びやかな羽を
持っているのかもしれませんね。そしていつの日か・・・」
飲み込んだ亘の言葉が総司の胸に刺さる。
いつの日か武士という枷に縛られた自分を置いて、あの子は飛び立ってしまうのだろう。
その、想いを寄せているという相手の元に。
自分は武士である事に誇りを持っている。
近藤や土方のために命を使う事に何の不満もありはしない。
けれど、あの娘がこの手から離れてしまう事を思うと、どうにも胸のどこかに
大きな穴が開くようで。
木枯らしのような冷たく寂しい風がひゅうひゅうとその穴から身体の中に
吹き込んできて、心も身体も凍りついてしまうような心持ちがするのだ。
行かないでくれなどと引き止める事も出来ぬものを。
苦しげに空に向けたままの総司の視線の先には、一羽の白鷺が羽を広げて
優雅に空を舞っていた。
「この身には厳しい土地だと存じておりますが、私は会津に戻りたいのです」
ぽつりと千尋が漏らす。
「子供の頃の記憶しかありませんが、緑濃く清浄な空気に満たされた私の故郷に
・・・戻りたいとずっと思っておりました」
「そうですね。江戸や京よりは余程清らかな土地でしょうし。
千尋さんの体の事も亘さんがいれば心配はいらないでしょう」
「いいえっ」
セイの言葉に千尋が激しく頭を振った。
「これ以上、亘兄様にご迷惑をおかけする事はできません」
そのあまりにキッパリとした口調にセイが千尋の顔を覗き込む。
「あの・・・やはり、千尋さんは亘さんの事を?」
「亘兄様は兄上です。妹として慈しんでくださっていますが、それだけです。
何より兄様には江戸に許婚がいらっしゃいます」
淡々と続けられる言葉の中に、必死に抑えた感情を見出してセイは息を詰めた。
武士の家で許婚とされている以上、親や一族が決めた事であり、
それに逆らう事は許されない。
ましてや会津という国はそういった事には殊に厳しいと聞いている。
セイが千尋にかける言葉を探しているうちに、千尋が口を開く。
「亘兄様は一人息子でいらっしゃるので、医家の跡を継がれるのです。
その為にずっと江戸でも勉強なさっておいででしたし、出来る事なら
松本法眼の弟子となれないかと・・・そう言って、私と共に京に来たのです。
ですから私の事などで、その勉学の道を邪魔したくはないのです」
一人息子・・・それは家を存続させる義務を背負う。
総司のように当主となるべき人間が幼く、代理として姉が婿を取って
家名を継ぐ場合もあるが、それは次善の策でしかない。
子を成し家を繋いでいく為には千尋が亘の妻となる事は出来ない。
胸の奥に押し込め続ける想いに感応したのか、セイの大きな瞳からポロポロと
雫が転がり落ちた。
形をなさぬ感情を伝えるように、ぎゅっと千尋を抱き締める。
「か、神谷様?」
千尋の驚いた声が聞こえるが、セイは腕を放す事が出来ない。
「大丈夫。胸に大切に抱いていれば、必ずそれが貴女の力になります。
人を恋う想いはとても強いんです。不幸になるために誰かを恋うんじゃない。
幸せになる為に恋うんです。だから・・・その想いを大切に抱き締めてあげてください」
どうかどうか、その想いを抱いた事を悔やまないで。
無かったものとして、消し去ろうとだけはしないであげて。
他の誰でもない、貴女が否定してしまったなら、その想いの行き場は
どこにもなくなってしまう。
そんな悲しい恋にしないで欲しい。
言葉にならない想いを込めて、セイは千尋を抱き締め続けた。
続く
挿絵 : uta様