忘れじの蕾
三
明日には正式にお断りとお詫びを申し上げに父上の元に参上しますというセイに、
千尋はその必要は無用だと言った。
自分にその気が無い事、そして何より京に留まらず会津に戻りたい事をきちんと
自分の口から伝えるから何も気にしないで欲しいと言い置いて帰っていった。
去りゆく背を見送っていたセイの視界に木の陰から長身の二人の男が姿を現す。
ひとりはセイに軽く会釈をすると、千尋を追っていった。
もう一人はゆるゆるとセイに向かって歩を進める。
「沖田先生・・・」
「まったく神谷さんはかっこいいんだから」
少しふざけた口調の総司だったが、表情がわずかに強張っている。
「千尋さんもスッキリした顔して帰りましたし、一瀬殿の所へは明日伺うのでしょう?
私も一緒に行きますよ」
「いいえ。千尋さんが必要無いとおっしゃってました。きっと色々とご自分から
お話したい事もおありなのでしょう」
「亘さんの事もですか?」
「それは口になさいませんよ。してはならぬ事だとご承知でしょうから」
セイの瞳に再び涙が浮かぶ。
届かぬ想い、叶わぬ想い。
大切に大切に胸に抱いて、いつかこの想いと共に朽ちていけたならそれでいい。
自分はそれがいい。
けれど、あの少女はそれで本当に良かったのだろうか。
「大丈夫」
ぽん、とセイの月代に手が置かれた。
「大丈夫ですよ。亘さんが傍にいる。だから大丈夫です」
自分の恋情を綺麗に隠して千尋の想いのためにと、セイに縁談を乞いに来た男だ。
セイとの話が纏まらぬのなら、何があろうと千尋の傍を離れないだろう。
亘の想いはきっと千尋を包んで守るのだろう。
ぽんぽんと頭上で弾む手の平が優しくて、けれど心の中を読まれたようで
セイは少し膨れてみせる。
「もうっ、先生達盗み聞きしてたんですね?」
その言葉にぎくりと身体を揺らした総司が視線を逸らして、何か言いたげに口元が動いた。
けれど一度深く息を吸い、にっこりとセイを見つめる。
「ちょこっとですよ。気にしない気にしない。さぁ、屯所に戻りましょう。
もうすぐ夕餉の刻限ですしね、お腹が空きましたよ〜」
何か腑に落ちないものを感じながらも、いつもの総司の軽口にセイも笑うしかない。
「はい、帰りましょう」
先程、追いついた亘に寄り添うようにして帰っていった千尋の姿を思い出し、
セイもほんの半歩だけ総司の近くに身を寄せた。
自分達もいつの日かあの二人のような柔らかな空気を纏えれば、と願いながら。
そして年が明け、朝晩の冷え込みも緩み始め気の早い春告げ鳥が鳴こうかという頃、
雪深い北の地からセイ宛に一通の書状が届いた。
西本願寺に屯所が移転してからは、滅多に来ることも無かった壬生の大樹の足元に
総司は佇む。
頭上にはこの木を好んで時折出没する愛らしい虫の姿。
『娘は幾度も“自分も神谷様のように大きな翼に優しい風を受け、
空に舞い上がれるようになりたい”と、その鮮やかな魂に近付きたいと
申しておりました。生涯何も望まず、寂しい日々ばかりで終わるのかと
思っていた娘の、あれほど楽しそうな顔は夢にも考えた事は無く。
感謝の言葉もございません。』
千尋の母からの手紙には繰り返し感謝の言葉が綴られていた。
手紙に添えられた荷には二枚の綿入れと少しの菓子が入っていて、
綿入れは会津木綿で作られているのだと、届けてくれた亘が説明してくれた。
一枚は紺の地色に水色の格子模様の大きめなもので、もう一枚はそれより
一回り小さく地色が水色で格子が紺に染められている。
千尋が一目一目大切に縫った物だと聞かされた。
「神谷様の大切な方に差し上げてください」と言付けられたという亘の言葉に、
セイは黙って綿入れを羽織るとその場を走り去った。
泣き顔を見せたくなかったのだろうと総司が苦笑しながら亘に詫びると、
気にしないでくださいと微笑んだ。
「あの子に一度だけ私の想いを伝えかけた事があるのです」
亘が遠い記憶を見つめるように遙か町並みの向こう、北に広がる峰々に視線を投げた。
「全てを口にする前に、一茎の草を口元に当てられたんですよ・・・。
この子にとって自分は本当に兄でしかなかったのだな、と思いました。
けれどね、渡された草は花をつけていました。吾亦紅の可愛らしい花を」
吾亦紅。
我も恋う。
けして口にする事は許されない言葉。
けれど心の中だけに止めておくには切なすぎる言葉。
優しい優しい娘が精一杯に思いの丈を伝えたのだろう。
あの瞬間だけで渋る周囲や嫌がる千尋を説得して、会津へ同道した甲斐がありました、
と亘は笑った。
その笑みはどこか以前よりも深みを増しているように総司には感じられた。
「よいしょっと」
広がる夕景を見つめたまま止まらぬ涙を流し続ける娘の座る枝に、総司も腰を下ろす。
「その涙は私のじゃないですよねぇ」
「うるさいです、来ないでください」
泣きすぎて掠れた声でセイが悪態を吐く。
子猫が毛を逆立てて威嚇するようなその様子に総司が小さく笑った。
「はい」
セイの目の前に総司が何かを突き出す。
竹串を二又にしたそれぞれの先にセイの親指の先程の小さな小鳥が差してある。
「会津の駄菓子だそうですよ。神谷さんが言ったんでしょう?
甘味馬鹿が身近にいるって」
だからね、亘さんが持ってきてくれたんです、と串を振る。
ふるふるとその先端で揺れる小鳥が可愛らしい。
「鳥飴って言うんだそうですよ。本来は一本の串に一羽の鳥なんですって。
でも千尋さんが懇意のお菓子屋さんに頼んで特別にこれを作って貰ったそうです。
連理の枝の如く、共にあれかし・・・と」
総司が愛しげに小鳥を見つめる。
白いその身の中に黒い瞳がつぶらに描かれ、まるでセイのようだと総司は思う。
セイもつられてゆらゆらと揺れる小鳥を見つめた。
本当は総司とセイの事を思って作ったものではないのだろう。
きっと自分の想いをセイ達に重ねて・・・。
そこまで思った時、再びセイの瞳に涙が盛り上がった。
その涙を散らすようにセイは総司の手から鳥飴をひったくると、二股の串を
パキリと二つに分けた。
「ああっ!」
総司が悲鳴のような声を上げる。
「な、なんですかっ?」
その声に驚いたセイが口に入れようとしていた飴を止める。
「折りましたね〜、連理の枝を! せっかくの千尋さんの気遣いを!!」
「折らなきゃ食べられないでしょう、何を言ってるんです、先生は」
呆れたように言い返すセイをじっと見ていた総司は次の瞬間ニヤリと笑う。
「いいです。それは斎藤さんと神谷さんだったんです。そうします」
「どうしてここで兄上が出てくるんですか?」
理由が判らないという顔でセイが尋ねるが総司は答えず、セイの手から
飴を取り上げると懐から出した紙包みにしまいこみ、その中からもう一本
繋がったままの飴を引っ張り出した。
「これが本当の神谷さんと私なんですよ〜。そしてね、これはこうやって
食べるものなんです」
そう言うとセイの口を開けさせて片方の飴を押し込み、自分も顔を寄せて
もう片方を口に含んだ。
いきなり至近距離に総司の顔が近づいた事で、慌てたセイが仰け反り
枝から落ちかける。
「ん〜、ん〜〜〜、んっ!!」
「んっ!!」
均衡を崩したセイの背中を総司が急いで支えて両腕に抱え込むように引き戻した。
双方慌てるあまり飴を口から離す事さえ忘れ、どこか間の抜けた一場面に
どちらからともなく笑い出す。
けれどやはり顔を近づけて飴を舐めているのが恥ずかしくて
セイが串を折ろうと手を伸ばす。
その手を総司が上から握りしめた。
「そんなに私と離れたいですか?」
そっと飴から唇を離した総司がセイを見つめて問いかける。
セイの目の前には片割れの鳥がゆらゆらと揺れている。
「貴女の胸の奥にいる誰かの元に行きたいですか?」
セイの目が大きく見開かれた。
あの時、千尋と話をした後に総司が何も問おうとしないので聞かれていなかったものと
安堵していたが、やはり聞いていたのだと確信する。
ふたりの間で揺れる鳥飴を総司が強い視線で睨みつける。
「これは私ではなく、その人のものだと言いますか?」
あまりにも真剣なその問いかけにセイはどう答えてよいのか判らず、
口を閉ざしたままだった。
ふと総司が唇を歪ませ、苦い笑みを浮かべる。
「すみません。貴女が私を上司として、武士として認めてくれている事だけで
満足するべきでした。いつか貴女がその人の元に行けるように力を貸しますね。
困らせてしまってごめんなさい」
そう言うと握っていたセイの手を離し、竹串の根元からそれを折ろうと指を伸ばした。
それを目にしたセイは考えるより先に体が動いた。
竹串に伸びた総司の手を払い、飴を総司の口に押し込んだ。
同時に唇から飴を離してセイは言い募る。
「何を勝手に納得してるんですか、先生はっ! 私はずっと先生と一緒だって
いつも言ってるじゃないですか。こんなものよりも、ずっとずっとしっかり
繋がっているんです。もう鎖でぐるぐるになってるようなものですからっ!」
顔を真っ赤にしながら言葉を紡ぐその姿を見つめる総司の心の中に、
自分という鎖がセイを雁字搦めにしている光景が浮かぶ。
それは何と甘美な事か。
千尋との縁談の話を聞いた時、どんなものであろうとセイを縛る物に対して
憎悪した事が嘘のようだ。
それが自分であるならばこれほど甘く、全身が熱を持つほどの幸福感が湧き出すのだ。
つくづく自分はこの娘に執着しているのだと再確認する。
つまりは自分もセイという鎖に身動きできぬ程に縛られているのだろう。
それもまた極上の美酒よりも自分を酔わせるものなのだ。
その極上の感情に酔ったまま総司はセイに顔を近づけた。
この娘の心の奥にいるという誰かからセイを完全に奪い取る為に。
その柔らかだろう唇を味わい、己に縛り付ける鎖を完成させる為に。
「え? やっぱり一個じゃ足りなかったんですか?」
困ったようなセイの声と同時に目の前で鳥飴が揺れる。
二人の間でゆらゆら揺れる物体をすっかり忘れきっていた総司は、
一度眼を瞬いて思わず吹き出した。
「ぷっ・・・あぁぁっ!!」
総司の唇から呼気と共に吹き出された飴が、反射的に伸ばしたセイの指をかすめて
地上に落下していく。
「あぁ〜〜〜〜!! 神谷さんと私の連理の枝が〜〜〜!!」
あまりにも情けないその声の響きにセイも苦笑するしかない。
「大丈夫ですよ。洗えば食べられますから」
子供をあやすように穏やかに言いながら、セイが下に降り始める。
その姿を見ながら総司は亘の言葉を思い出していた。
(たとえ想いを交わすことができずとも、最後まで側にいる事ができた事は
私の心を温かくしてくれます。本当に神谷殿の言ったように、この想いが
私の力となってくれるのです。きっと千尋もそうだった事でしょう)
穏やかな亘の声音が耳に響く。
(そうですね。たとえ形とならずとも共にいられる。胸の中に温かな想いが在り続ける。
これはこの先も私の力となるのでしょう)
亘に向かって総司が心の内で呟いた。
「沖田先生〜。早くしないと置いてっちゃいますよ〜」
既に下に降りたセイが、飴の串をブラブラと揺らしながら未だ木の上にいる
総司に呼びかける。
「はいはい。ちょっと待ってください。私は貴女ほどすばしっこくないんですから」
「それって私が猿並みだって言ってるんですか?」
セイが頬を膨らませている様子が上からでもわかる。
腫れあがった瞼も真っ赤な瞳もそのままではあるが、少なくとも大きな瞳から
涙の気配が消え去った事に総司は安堵した。
また思い出しては涙するのだろうが、今はこれでいい。
「そんな事は言ってませんよ〜」
軽口で答えながら、総司は木を降りていく。
命ある限り自分の胸の奥に住み続けるだろう娘の元へと。
セイの胸の奥にずっと前から居座っている存在が自分なのだという事を、
総司が知るのはこれから暫くの後となる。
清浄なる会津の大地にその娘は眠っている。
温かく、どこまでも真白な雪を花嫁衣裳として身に纏い、
ほのかに色づきし蕾の娘はきっと微笑んでいるのだろう。
挿絵 : uta様