瀬をはやみ



   一



重症の山崎を乗せた大八車を隊士が数人掛かりで押している。
敗走の軍というものは、どこか浮き足立ちあちらこちらで殺伐とした諍いが
起こるのは仕方の無い事とはいえ、我先にと天保山沖の船を目掛けて
殺到する姿は見るに耐えないものがある。

セイは小さく溜息を吐いて血の気が失せながらも機会を見つけては
軽口を叩き続ける男に視線をやった。

「神谷はん。早よ沖田センセのとこに戻らな、心配して迎えに来はりますよって、
 先に行かれてええですよ」

「何を言ってるんですか。傷病者の看護は私の役目です。
 無駄口を叩いていないで少しでも眠ってください」

「せやけどなぁ・・・こう、寒うて眠れんのやわ」

確かに冬場の海沿いは海風が冷たい。
けれど山崎の身には幾重にも厚手の衣がかけられている。
だというのにこれほど寒がるという事は、やはり伏見での戦いで負った怪我の
出血が多いせいだろう。
もはや手の施しようが無い事など、素人目にもあきらかではあったが
セイは最後まで手を尽くすことを辞める気はなかった。

ふと先程通った道筋に薬種問屋の看板を見かけた事を思い出した。
止血用の薬も底を尽きつつある。
できれば体内から体を温める漢方薬や増血作用のあるものも欲しい。
欲を言うなら、すでに船に乗り込んでいるはずの総司の為にも
滋養強壮の薬も手に入れたい。

「山崎さん。少し離れますが、皆がちゃんと守ってくれますから船まで
 もう少しだけ辛抱してくださいね?」

そう言い残すと仲間に用向きを伝え、山崎が止めようと言葉を発する前に
その場を走り去って行った。

「神谷はん。あかんっ! 誰か一緒についていかんと! こんな騒ぎの中、
 何が起こるかわからんやろ? 誰か行ってんかっ?」

悲鳴のような山崎の言葉に傍にいた隊士がセイを追おうと振り返った時には
すでにその姿はどこにも見えなくなっていた。
そして、この時の事を山崎はもちろんこの隊士も後々まで後悔する事になる。









徳川家康以来の二百六十年余り、日本という国家の中枢に確かな存在感を
見せつけながら堅固な体制を維持しつづけていた徳川幕府が揺らぎ始めたのは
いつの事だったのか。

大老井伊直弼が事もあろうに江戸城の目と鼻の先で暗殺された時か。
それとも慶応二年の第二次長州征伐が呆れるほどあっけなく
幕軍の敗北で終了した時か。

今となっては論じる事さえ無意味かもしれない。


前年の徳川十五代将軍慶喜による大政奉還をもって、事実上幕府は瓦解し、
あれほど堅牢と思われた体制が崩壊する音が響き始めた。
威容を誇った幕府という城は永き時の間に内部は腐り果て、全てを支えるべき
将軍という大黒柱が意外な脆さを露呈した時、時代の奔流に押し流され
その末端にいた者達を激しい濁流の中に投げ込んでいった。

鳥羽伏見での戦は、柱無き幕軍の脆弱さをまざまざと見せつける結果となり、
戦意を失った幕府方の武士達は我先にと江戸へ逃走した慶喜の後を追った。
すでに幕府という失われた権力を守るものなど無いというのに。
彼らは江戸の地に何を見ようとしていたのか。










「そこを何とかお願いできませんか?」

駆け込んだ薬種問屋でセイは強い口調で頼み込む。

「そう言わはっても、無いもんはどうにもならんのや」

先程からしつこく食い下がる若い武士に店の主人もほとほと困り果てていた。
すでに伏見から敗走してきた武士や各藩の医師達によって、めぼしい薬は
全て買い上げられている。
残っている物はこの若い武士が望む物とは掛け離れた物ばかりだ。
けれど必死の形相のこの若侍を見ていると、何か少しでも力になってやりたいと思う。

「ああ、少し裏手の路地奥になるんやけど、小さな診療所がありまんのや。
 そこやったら、この店の紹介や言うたら、少しは傷薬を融通してくれる
 かもしれまへん」

主人の言葉にセイの顔がパッと明るくなる。

「ありがとうございますっ」

疲れきりどこか虚無感すら湛えた幕軍兵士の顔ばかりが目についていた主人には、
セイのその笑顔がひときわ輝いて見えた。

「ほな今地図を書きますさかい、急いで行かはるとええですわ」

自分まで明るい気持ちになったようで、主人は手早く地図を書き始めた。



「ここらへんのはず・・・」

主人の書いた地図を片手にセイはキョロキョロと周囲を見回していた。
大阪の裏路地は京に比べると複雑でわかりにくい。
碁盤の目のようにきっちりとした路地に慣れているセイは、うっかり幾度も
迷いそうになりながら、その診療所を探していた。
船着場からそう遠い場所では無いが、急がなくては船に間に合わなくなってしまう。
その焦りがよりセイの感覚を鈍らせているのかもしれない。


「いやぁぁっ!」

狂いそうな方向感覚を始め全身の感覚を鋭敏にしていたセイの耳に
小さな悲鳴が届いた。
思わず反射的にそちらの方向に走る。

薄暗い裏路地の突き当たりに武士らしい男の大きな背中があった。
その向こうには押し倒された格好で女がいるようだ。
悲鳴を上げさせまいと口を押さえられているのか、くぐもった女の声と
男の吐き出す荒い息、そして必死に暴れているのだろう、着物の裾が肌蹴て
こちらに伸ばされている女の白い脛が闇の中に浮かび上がる。

「何をしているっ!」

セイのかけた声に男が振り向いた。
乱れた髪も血の跡と思われる着物の汚れも、この男が幕軍の
敗残兵である事を示している。

「こんな場所で女に無体を強いている暇など無いだろう。さっさと船に乗って江戸へ向かえ。
 決戦を前に下らぬ事に時を費やすな!」

厳しい声を投げつけられても男のどんよりと濁った目は、僅かな光も映し出さず、
ただ自分の楽しみを邪魔された事への不快感を浮かべただけだった。
抱え込んでいた女を突き放すと立ち上がり、セイに向かって刃を抜いた。

「何が決戦だ。もう負け戦なんざたくさんだ。俺は武士なんぞ捨てて好きに
 生きる事にしたんだ。お前のような綺麗事を言うやつなぞ・・・」

言葉を言い切る前にセイに向かって踏み込んでくる。
油断無く構えていたセイは軽く半身を逸らす事でその刃を避けたが、
たとえ愚か者とはいえ同じ幕軍の兵を切り捨てる事に小さな迷いがあった。
その迷いが微妙にセイの反応を鈍らせた。

「つっ・・・」

避けた瞬間に横に払われた刃がセイの左腕に食い込んだ。

(しまったっ)

ヒヤリとしたセイだったが、その男の刃はろくな手入れもされておらず、
持ち主の心同様に刃こぼれし血糊で輝きも失せたなまくらだった事が幸いした。
総司や自分の刀だったなら、間違いなく左腕は斬り離されていただろう。

じわりと着物に滲む血の色と、カッと熱をもったその場所の痛みが
セイに一切の遠慮をする気持ちを失せさせた。
引き戻した刀を再び構える男がそれを振り下ろす前に、神速の刃が走り
その男の首筋を裂いていた。

歪んだ笑みを浮かべたままで、何が起きたかを自覚する前に魂を彼岸へと
飛び立たせた男がドサリと倒れる。
噴き出す血を避けるように半歩下がったセイが路地の奥に目を向けると
武家の妻女らしき女が放心したまま座り込んでいる。

「大丈夫ですか?」

襲われかけた上に目の前で人の死ぬさまを見たのだ、心に受けた衝撃を慮って
セイが優しく声をかける。
パチパチと瞬きした女は一瞬コクリと息を呑むと、慌てて立ち上がり
乱れた着物を調え始めた。
セイはとっさに後ろを向き、支度が終わるのを待った。

しばしの時の後、女が小さく声をかけてきた。

「ありがとうございました」

その言葉にセイが静かに振り向く。

「危ういところでございました。何とお礼を申し上げれば・・・」

涙を滲ませながらも気丈に礼を述べるその姿に、さっきの男よりも
この女子の方が余程強いものを持っていると思う。

「礼などいりません。ご無事で良かった」

あんな男でも幕府方というくくりで言えば仲間となるのだ。
隊の人間であれば士道不覚悟の元に断罪される事は間違いない。
自分はその不始末を片付けただけで、礼を言われるなどこそばゆいだけだ、
とセイは苦笑を浮かべる。

「それよりも、こんな時期にお一人で歩くなど危険です。早々にご自宅に
 戻った方が良いですよ」

その言葉にコクリと頷きながらセイの傷を痛々しげに見つめる。

「この近くの診療所に母の薬を取りに参る途中だったのです。よろしければ、
 ご一緒に参られて怪我の手当てをなさってくださいませ」

「えっ? 診療所ですか?」

聞いてみればセイが探していた診療所に違いない。

「是非、ご一緒させてくださいっ! お願いしますっ!」

自分の傷の手当などセイの頭にはほんの僅かも浮かんではいなかった。
これで山崎や総司の薬が手に入る。
一刻も早く薬を持って船に戻らなくては・・・。

いまだ動揺が鎮まっていない女を引き摺るようにして、セイはその診療所へ向かって急いだ。








診療所で簡単な傷の手当をしてもらい、助けた妻女の口添えで薬を分けて貰ったセイは
港へと走っていた。
早く早く、急がなければ船に間に合わない。
沖田先生が待っている。山崎さんの容態も気になる。
ズキズキと痛む腕の傷が呼吸を乱す。


「どいてください、通してっ!」

相変わらずごった返す港の中を聞かされた船に向かってセイは人混みを
掻き分けて進んだ。
けれどようやく岸壁に辿り着いたセイの前にはただ広い海原が広がるだけで。
船の着岸している場所を間違えたのかと、近くにいた人足に勢いこんで尋ねる。

「ふ、富士山丸はどこです?」

「あ? ああ、あのデカイ船やったら四半刻も前に出ていったで。
 ほれ、あの遠くにポチリと見えるやろ?」

その人足の指す方向に目を凝らしたセイには、彼方に黒い点がある事しかわからない。

「う、うそ・・・嘘でしょう?」

泣き出す一瞬前の表情で人足を振り返るが、すでにその男の姿は人混みの中に消えている。
セイはもう一度海を見つめた。
彼方に遠ざかる船影と思しき黒い点に叫ぶ。


「沖田せんせいっっっっ!!」






無意識だった。
足が一歩二歩と岸壁に向かっていく。
泳いで追いつけるはずが無い事など判っている。
けれど、あそこに総司がいるのだ。

自分は重傷者について乗船するから、総司は先に近藤と共に行ってくれと
言った言葉にひどく不安そうな表情を浮かべていた。
不動堂村の屯所に移ってから、いやそれ以前に自分の病が判明してからは
セイが自分に近づくのをひどく嫌がった男が、戦の気配が強まるに従って
逆に自分の目の届く場所にセイを置きたがった。
総司の分まで闘うと覚悟を決めて出陣するつもりだったセイを引き止め、
何をどう言って土方を説得したのかは知らないが、セイを戦場に出す事を許さず、
近藤の肩の治療を手伝う為と名目をつけて大阪へ自分達と共に移らせた。
城内でも怪我人の手当てでセイが総司の近くを離れる度に、用も無いのに
傷病者が置かれている部屋の前をうろうろとしていたのだ。

野生の動物並に勘の働く男だ。
何かを察知していたのかもしれない。
「早く来てくださいね」「気をつけてくださいね」
と繰り返し告げていた心配そうな声が甦る。

また一歩、足を踏み出す。
次の一歩の先に陸は、無い。

セイは足を踏み出そうとした。



「あほうっ! 何してるんやっ!」



がしっと左腕を掴まれ、セイは傷の痛みで正気に戻る。
後ろに引き戻された体が均衡を失いかけるが、掴んだままの手が支えてくれた。
自分の腕から握っている相手の腕、肩、顔と視線を移したセイの目が驚きに見開かれた。

「あ、あなたは・・・山城屋さんと一緒にいた・・・」

中途半端なセイの記憶にその男は不満そうにしながらも名乗った。

「辰吉や、船戸辰吉っ!」

「あ、ああ、そうでした。どうしてこんな場所に?」

思考の整理がつかないセイは、混乱したままで問いかける。

「どんなもこんなもあるかいっ! 新選組が江戸に戻る言うから、陰ながら見送ったろうと
 思ってたんや。したらもう船は出たいうし、しょもないから戻ろうとした所に
 居るはずも無い人間を見つけてしもた。しかも今にも入水しようとしてくさる」

呆れたような辰吉の言葉にハッとしたようにセイが海原を振り返る。
先程まで針で突いたような黒い点だった船影はすでに影も見えなくなっていた。

「入水なんかじゃ、ないですよ・・・」

弱々しいセイの声に辰吉が舌打ちして歩き出した。
まだセイの腕を掴んだ手はそのままだ。

「あ、あの?」

「こんな場所におったかて、どうにもならん。とりあえず今後の事を考えんと」

「ええと・・・」

「ええからっ!」

辰吉の声の強さに周囲の人間の何人かが振り返ったが、セイはそれどころでは無かった。
今後の事・・・そうだ、こんな場所でうろうろしていられるはずもない。
あと数日もしないうちに、大阪とて官軍を名乗る薩長の連中が進軍してくるはずだ。
海路で江戸に戻る道は閉ざされた。
他にも船はあるやもしれないが、新選組を離れたセイ個人を乗せてくれるとも思えない。
辰吉に手を引かれるままに、セイはこの先の事を考え続けた。





「ここは・・・」

八軒家の船宿である京屋の裏口に辰吉は入っていく。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

慌ててセイが止めようとするが辰吉は気にもせずに小女に主人を呼ぶように頼んだ。
しばしも待たせず忠兵衛が姿を現す。

「神谷はんっ!」

すでに幕軍敗走の情報は大阪の人間なら知らぬ者は無い。
近藤の供として幾度か大阪を訪れていたセイの事を忠兵衛ももちろん知っていた。
まして数日前に起きた大阪城の火災以降、新選組はこの京屋を避難場所として
江戸への退却までの間、仮の滞在所としていたのだ。
今朝方傷病者に付き添って出て行くセイの姿を忠兵衛は見ていた。
また辰吉同様に少し前には大阪を離れていく近藤達を乗せた船を見送ってきたのだ。
セイがこの場にいる事が俄かに信じられようはずも無かった。

「なんで、こないなとこに・・・」

絶句している忠兵衛に辰吉が言葉をかけた。

「間抜けやろ? 乗り遅れよったらしいで」

「辰吉さん、お知り合いなんですか?」

コソリと問いかけたセイに辰吉はニヤリと笑った。



とりあえず奥の間に場所を移し、セイは一部始終を語った。
忠兵衛は腕の傷を気にして医師を呼ぼうかと言ったが手当てなら既に
済ませてあるとセイは断った。
今はそんな事よりも考えなくてはならない事があるのだから。

「で、どないしはります?」

海路が閉ざされている事はすでに三人とも承知の事だった。
かといって陸路とて官軍占領下の京を突っ切るか、もしくは大和国の
伊賀越えをするしか道は残っていない。
けれど伊賀の周辺は十津川郷といい吉野といい、尊王意識の強い一帯であり
そこを幕臣が通り抜ける事は危険極まりない。

この時、紀州藩が会津や幕兵を後援する形で船を準備していた事など
末端組織である新選組のさらに平隊士であるセイや、町人の忠兵衛などが
知るはずも無い。
もしも知っていたならすぐに紀州へと向かい、会津兵の中から顔見知りの一人も
見つけ出して江戸まで同乗する事も可能だっただろう。
けれどセイにその道を示すものは無かった。


セイが船に乗り遅れた事を聞いてから幾度も繰り返した言葉を、もう一度
忠兵衛は口に乗せた。

「どう考えても危険な事に変わりまへん。このままどこか安全な場所で
 世が治まるのを待つんが得策や思いますよ?」

その言葉にセイも首を振り同じ反応を返す。

「駄目です。同志が待っているんです。私は戻らなくてはいけないのです」

「戻るったって、どないすんねん?」

頑ななセイの態度に呆れたように辰吉が尋ねた。
暫くじっと何かを考えていたセイが口を開く。

「京を抜けて東海道で」

「「東海道やてっ??」」

男二人の声が重なった。


「そりゃ無茶ってもんや。京に入った途端に捕まってバッサリやで?」

辰吉が口角泡を飛ばしてセイを止めようとするが忠兵衛がそれを遮った。

「何ぞ考えがおありなんやろか?」

「はい。それでお願いしたい事があるのですが・・・」

この後のセイの言葉は、この日最大の驚愕を男達に与えた。