瀬をはやみ
二
「どうして出航を認めたんですかっ?」
若い隊士が土方に詰め寄っている。
その後ろには新選組の鬼副長というのがどれほどのものか計ってやろうと
同船している幕兵達が鵜の目鷹の目で様子を見ている。
「副長っ!」
土方は無言で若い隊士の腕を捻り上げると船尾に連れて行き
船縁にその身を押しつけた。
「何を血迷ってやがる。この船に乗っているのは俺達だけじゃねぇんだ。
血筋だけを頼んだ木偶同然の幕臣の馬鹿共に、新選組が仲間割れしていると
見せて嘗められてぇのかっ!」
押し殺した声で土方が囁いた。
けれど若い隊士は怯む様子もなく言い返す。
「神谷は薬を手に入れてくると戻ったんです。少しぐらい出航を待つ事だって
できたんじゃないですか? 何故見捨てたんですっ?」
「相馬っ!」
土方が腹に響く声で名を呼ぶ。
思わずビクリと背筋を伸ばした相馬主計は鋭い土方の眼光に射抜かれたように
呼吸を止めた。
「たった一人の平隊士の為に、この船に乗っている全員の予定を変える事など
許されると思うのか? まして確実に神谷が戻るとも限らないだろう」
冷たく言い捨て去ろうとする土方の背に相馬は言葉を叩きつけた。
「戻らないはずが無いじゃないですかっ! 神谷が沖田先生の元に戻らぬはずがっ!」
知っている。隊士だったら誰もが知っているのだ。
古参の隊士達は元気だった頃の総司と神谷が肩を並べては甘味処へ向かう姿を
幾度も目にしていたし、病んでからは薬を飲まないと言っては叱られ、
大人しく寝ていないと言っては叱られ、その度に神谷の小言の嵐の中で
肩を竦めていた総司の姿を覚えている。
鳥羽伏見で散々に負け、けして少なくない同志を失って重い体を引き摺るように
辿り着いた大阪の地で、以前と変わらぬ空気を纏い何かと軽口を叩く総司と
ぷりぷりと怒りながらも甲斐甲斐しくその世話を焼く神谷の姿に、ささくれ立った
心がどれほどに癒された事か。
変わらぬものがここにある。
それがどれほどに皆の心を慰撫した事か。
そんな神谷を総司から引き離す事など許せようか。
どうして自分はあの時神谷と共に行かなかったのだろうか。
山崎が叫ぶ前に、あの混沌とした騒ぎの中で神谷を一人にする事が危険だと
どうして気づかなかったのだろうか。
許せないのは自分だ。
けれどそれと同様に、神谷を見捨てたこの男にも憎悪の思いが抑えきれない。
血が滲むほどに唇を噛み締める相馬を土方が振り返った。
「総司には言うんじゃねぇぞ。神谷は他の船で傷病者の手当てをしている事にする」
「そんな事っ!」
総司が納得するはずがない、と続けようとした言葉を遮る。
「これは命令だ。お前は一切黙っていろ。そして神谷が無事に江戸に戻る事でも祈ってろ」
それだけを言い残すと土方はその場を後にした。
「化けよったなぁ・・・」
呆れとも感嘆とも言える溜息を辰吉が吐き出す。
明七つをいくらか過ぎたこの時刻、未だ空に光は差さない。
ぼんやりと室内を映し出す行灯の灯りの中、クスリと笑ったセイの姿は
どこからどう見ても武家の娘にしか見えない。
元々華奢で女子のような姿だったが、ここまで女子姿が板につくのも
どんなものなのだか、と口に出さずに辰吉は思った。
「お待たせしてもうて」
大和屋忠兵衛が部屋に入ってきた。
一瞬辰吉同様に動きを止めてセイの姿に見入っていたが、そこは年の功と言うべきか
動揺を面に表す事も無く、静かにセイの前に二通の手形を差し出した。
「こちらが新選組隊士、神谷清三郎殿の江戸行きの手形ですわ」
セイに頼まれて懇意の大阪奉行所の与力に依頼して手に入れたものだ。
「そしてこちらが富永セイ殿の江戸行きの手形」
コクリと辰吉の喉が鳴った。
神谷清三郎に対する手形は何ら問題は無い。
この後幕府が勢力を回復し、またこの京大阪に力を及ぼすようになっても、
新選組隊士に手形を出した事は当然の行為とされるだけだ。
けれどもう一通の方はあきらかに法に触れるものなのだ。
富永セイなど、この大阪のどこにも存在しないのだから。
「よう、こんなもんを・・・」
辰吉の言葉に忠兵衛が苦笑する。
「確かに無理やと思うとった。いくら懇意にしてる言うても、戸籍もない、
町役の添え状も無い人間の手形を出して欲しい言うんは」
苦笑を浮かべたままでセイに視線を移した。
「神谷はんが船に乗り遅れた原因になったご妻女。その与力の妻女はんで。
既に事情を聞いていたそうですわ。斬り捨てられたお侍さんの調べをしてる時になぁ。
こんなもんでは借りを返す事にもならんやろが、と言うてはった」
人の世の不思議を思ってセイの唇に薄い笑みが浮かんだ。
まさかこんな所で人の縁が繋がるとは思いもしなかったが、その手形があるか無いかで
随分道中の苦労が変わってくるだろう。
少なくとも幕府の力がまだ強く残っている場所までは、女子姿で行こうと
決めているのだから。
「それから、これを」
忠兵衛が懐から袱紗包みを取り出してセイの前に置いた。
一見しただけで中身が小判の切り餅だとわかる。
「いいえ、こんなものを頂く事はできません!」
セイが慌てて手を振った。
今身につけている武家の女子装束一切も忠兵衛の好意で用意してもらったものだ。
背後に準備してある旅荷物も勿論。
鳥羽伏見の戦が始まる前に隊からまとまった金子が全隊士に支給されていた。
京に縁故の者がいるなら、これで後顧の憂いを断ち切っておけという土方の配慮だった。
そのほとんどをセイは里乃の元に置いてきていたが、不慮の事態のためにと
五両ほどは懐に残していたのだ。
戦の最中という事で万事高騰している時期にこの程度ではかなり苦しいだろうが、
これで何とか江戸まで向かおうと思っていた。
最低限の体力を維持できる食べ物が手に入れば、百姓家の物置に寝ようが、
破れ寺の片隅で夜を過ごそうが前へ進むことはできる。
「持っていかなあかん。あって邪魔になるもんやない。江戸までの道中、どれ程の
日数がかかるかもわからんのや。時には金子で命が買える場合かてあります。
近藤センセの元に神谷はんを無事に戻す事が、私共が受けたご恩に報いる
いう事ですよって」
静かな忠兵衛の言葉にセイが頭を下げた。
確かに金子がある事で回避できる危険もあるだろう。
まして真実女子の一人旅となるのだ。
昼間の武士のように自棄になった者達がどこにいるのかわからない。
梅の蕾も未だ固いこの時期に、寒さを凌げる宿に泊まれるなら体の負担も少なくなる。
「ありがとうございます。このご好意、神谷清三郎生涯忘れはいたしません」
喉の奥から搾り出すようなセイの言葉に微笑んで、忠兵衛がその肩を優しく叩いた。
「こんな事は忘れてかまいまへん。ただ、どうかご無事で江戸までお戻りを」
その言葉にセイは何度も頷いた。
「ほな、いこか?」
軽い口調の辰吉の言葉にギョッとセイがそちらを見る。
すっかり旅支度を整えた辰吉が部屋を出ようとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。行こうかって・・・」
「俺も行くで? 女子の一人旅なんて危なすぎや。取り合えず尾張を抜けるまで
つきおうたる」
「はぁ?」
目を剥くセイを無視して忠兵衛が辰吉に旅費を手渡している。
「ほな、神谷はんの事、頼むな」
「ああ、任せときぃ」
「いや、でも」
オタオタと言葉を重ねようとするセイに向かって辰吉が言う。
「武家の娘が一人旅やなんて、それこそ不自然すぎるやろ? 下男の役をしたる。
勘二がおったら絶対にやっとった。あいつに夢枕で毎晩どやされるんはご免やよってな」
ここにも優しい人の想いが残って息づいているのだと、改めてセイは知った。
出会いは最悪だったが、自分を庇って命を落とした山城屋勘二の顔が浮かぶ。
幾つもの想いを抱えてセイは総司の元に必ず辿り着くのだ。
どれほど困難な道中であろうと決して諦めはしない。
きっと江戸で待っているだろう愛しい男の面影にセイは誓った。
「具合はどうだ?」
静かに船室に入ってきた土方が横たわる男に問いかけた。
短く息を継ぐ男の顔には血の気が薄い。
最早命数が尽きようとしている事は誰の眼にも明らかだった。
「神谷はん、無事やろか?」
苦しい息の下、心を占めるのはそんな事かと土方が視線を逸らす。
「・・・沖田センセに、何てお詫びすればええんやろ・・・」
「神谷は他の船に乗っている」
そっけない土方の答えに、山崎が苦笑を浮かべる。
「そんな嘘を言うたかて、沖田センセには通用せんと違いますか?」
いずれ知れる事は確かだろうと、強い確信を持って口にする。
「それでも、だ。今の段階ではそう言うしかねえ」
苦しげな土方の様子に、山崎も眉間に皺を寄せる。
あの時、自分になど付き添う事無く総司と共に先に乗船していたなら
神谷が総司から引き離される事もなかっただろうに。
そうでなくとも、あの時すぐ誰かに後を追わせていたなら・・・。
悔やんでも悔やみきれない事実が山崎の心を責め苛む。
神谷や総司は知らない事だが、自分達は鳥羽伏見以降の地獄絵を知っている。
薩長を始めとした敵たちが、どれほど容赦無く幕府方の兵を惨殺したか。
一瞬前まで味方だった者たちが、どれほど無造作に銃口をこちらに向けたのか。
そんな只中に置いてきたのだ。
あの優しくも可愛らしい隊士を。
伊東一派の脱退により幹部の人員が足りなくなり、監察から助勤に移ったといえ
山崎の情報処理能力に変わりは無い。
己が目でつぶさに確認した現在の京阪の様子は、そこに残された隊士の末路を
絶望的なものだと示している。
時流の流れはあの隊士の身を押し潰し消し去るとしか思えない。
つう・・・と、山崎の頬に雫が筋を作った。
「馬鹿野郎っ!」
一瞬目を見開いた土方だったが、次の瞬間には目を細めて怒鳴りつけた。
「どれほど絶望的だろうが、あの童が簡単にくたばるはずがねぇだろう。
誰が育てたと思ってやがる!」
奇跡を願うような事であろうと、土方が真実そう思っている事が伺える。
確かに池田屋を始めとする死線ぎりぎりの所で、必ず生き残ってきた神谷だ。
山崎の胸にも小さな希望の光が瞬いた。
それを確認したかのように、土方が尚も言葉を重ねる。
「総司が何も感じてねぇ。神谷が死んだなら間違いなく総司は何かを察知する。
そしてヤツが何も言わない以上、あの童は生きている。生きているなら・・・」
一度言葉を切った土方が山崎の眼を強く見据えた。
「生きているなら、絶対に総司を目指して帰ってくるんだ。そうだろう?」
お神酒徳利と称されたふたりだ。
離れようとて離れる事などできないだろう。
出会った頃のふたりの姿が山崎の脳裏に浮かび上がる。
子犬のように転げまろぶ小さな隊士と、寄り添うようにその姿を見守っていた鬼神の姿。
鬼神が病んでからは影のように小さな隊士が寄り添っていた。
そうだ。
あのふたりが引き合わぬはずが無い。
今、一時離れていようと必ず共に歩き出す。
まして今の総司を知る神谷が、何があろうと先に彼岸に逝けるものか。
「・・・・・・ああ・・・・・・」
溜息のように呼吸を放ち、山崎が微笑んだ。
「そうやなぁ・・・。必ず戻ってきはります。沖田センセの傍に・・・」
「当然だ。簡単に三途の川を渡ろうとしても、先に逝った一番隊の連中が
必死に押し戻してくれるだろうよ」
山崎から自責の念が薄れた事に安堵して、土方が軽口を叩いた。
病に倒れ、無念を抱える総司の分もと先を争って敵陣に突っ込み、
苛烈に散っていった一番隊の男達の姿を思い出す。
仲間達に病をうつさぬようにと気遣って、なるべく近づかぬようにしていた
総司の思いを知りながらも、事ある毎にその病室に行っては町中での出来事を
面白おかしく語ってその無聊を慰めていた。
不器用でありながら、情に厚い男達だった。
その連中が大切に守り愛しんでいた神谷だ。
簡単に彼岸に受け入れなどしないだろう。
けれど山崎が苦笑を浮かべながら土方に異を唱えた。
「あきまへん。一番隊の連中は、みんな神谷はんが大好きやった。
彼岸に向こうたら両手を広げて迎えるに決まってますやろ。
私が神谷はんを送り返しますよって・・・」
はっと土方が山崎を見つめる。
「土方センセ。最後までお供できへんで、すんまへん・・・」
少しずつ声が掠れていく。
「けど・・・満足、やった・・・。ああ、楽しかったなぁ・・・」
一度大きく息を吸って、その呼吸が止まった。
「・・・・・・山崎・・・・・・」
土方の鼻腔に一際濃い血の臭いが漂った。
それは強く噛み締めた己が唇から零れた血の臭いだろうか。
この日、新選組は誰より優秀な隊の眼と耳を失ったのだった。
続く