瀬をはやみ



   14




総司の病室の控えの間であった続き部屋の中央に床がしつらえられ、
セイがうつ伏せに寝せられた。
伸ばされた左腕と体の間に座した松本が周囲の男達を見回す。

「もう、隠す事もねぇだろう。いいな、セイ」

短い言葉でもセイには伝わる。
小さく頷いたのを確認して松本がセイの着物を背の中ほどまで引き下ろした。

薄汚れたさらしが背中を覆い、そこに隠されない真っ白な肌が幾つも燈された
行灯の光を弾く。
この姿を見て“如身遷”などという戯言を信じる者などいるはずもない。
けれど目の前に晒された事実に驚愕の表情を浮かべたのは相馬だけだった。

「ほう・・・ここにゃ狐と狸ばかりが揃っていたらしいな」

面白そうに松本が笑みを浮かべ、一瞬の後に厳しい表情に転じた。

「その辺りについちゃ、後でじっくり聞かせて貰うとして・・・。この中で一番
 力がありそうなヤツは・・・斎藤、お前がセイの左腕を押さえろ。
 手首と肘の下をがっちり押さえて微塵も動かす事を許すなよ。
 それと一番軽そうなお前」

「辰吉や」

指で示されて不機嫌そうに辰吉が答えた。

「おお、お前はセイの腰の上に乗っかって暴れねぇようにしておけ。
 相馬、いつまで呆けてやがる。お前はセイの両足首を固定しとけ。
 蹴りつけられねぇように気をつけろよ」

続けて黙って座っていた土方に視線を向けた。

「悪いがな、人手が足りねぇんだ。お前さん、俺が言う通りの道具を
 順次渡してくれねぇか。それと邪魔な血を拭き取ってくれ」

「承知しました」

ここまで来て知らない振りをする気は無いという事だろう。
土方が頷き、松本の広げた手術道具の隣に座を改めた。

「沖田・・・」

「はいっ!」

食い入るようにセイを見つめている男に最後に言葉をかける。

「お前はセイの右手をしっかり握っておけ。絶対に離すんじゃないぜ」

「は、はいっ!」

慌ててセイの右手を握り締める男を確認するとセイに視線を向けた。

「セイ。腕を落すのは最後の手段だ。松本良順の持てる限りの技で、このまま
 傷んだ患部だけを切除する。上手くすれば腱も痛めねぇで済むかもしれん。
 ただ、かなり状況は酷いからな・・・体に回った毒の様子によっちゃ
 切り落とす事も有り得る。どちらにしろ死んだ方がマシってぇ痛みを伴うだろう。
 覚悟はいいな?」

「はい。宜しくお願いします」

迷いの無い眼差しが松本に向けられた。

「へっ、さっきまでとは別人みてぇな良い目をしやがる」

寸時緩んだ表情を引き締めると松本の纏う空気が一変した。



ありったけ集められた行灯の明かりの中、凄惨な光景が映し出される。
幾度も傷口を清められ、痛みを承知で肉に辿り着くまで傷んだ患部を布で擦られる。
松本の構えた刃物が肉に食い込んだ瞬間、それまで口に押し込まれた
手ぬぐいを噛み締めて悲鳴を耐えていたセイの口から呻き声が漏れ、
陸に上がった魚のように全身が大きく跳ねようとした。

その動きを予想していた男達が一斉に力を込めた事で、セイの動きは
抑え込まれたが力の入った体は小さく震えを繰り返している。

「痛ぇか?」

少しずつ患部を切り裂きながら松本が声をかける。
麻酔無しで少しずつ肉を切除していくのだ。
痛いのは当たり前の事だが、僅かでも気を逸らす事が痛みを緩和させると
知っての言葉だった。

痛々しげに自分を見つめる斎藤の視線に一瞬頷きかけたセイだったが、
すぐ傍に居る土方と目が合った途端に大きく首を振った。
どんな状況に陥ろうと泣き言を言わない。
それを口にするぐらいなら腹を斬る。
この男にそう誓った事を忘れた事などありはしない。

「強情な野郎だな・・・。だが、左腕に力を入れるんじゃねぇ。腱まで傷つけちまう
 じゃねえか。痛かったら沖田の手でも引っかいてやれ」

松本の言葉にセイの右手を握る総司の手の平がピクリと動いた。

「神谷さん?」

痛みに幾度となく体を震わせていても、総司に包まれた手だけは力が入る事が無い。
男の骨ばった手にそっと預けているだけだった。
それに気づいた総司がセイの手を強く握り締める。

「私の手を傷つけても構いません。だからこちらに力を込めて!」

セイが首を振り、同時に痛みに全身が跳ね上がる。

「ったく何があろうと沖田を傷つけたくねぇって事かよ、この馬鹿は」

呆れたような松本の言葉と同時に、このままでは左腕に入れられた力が
抜けそうも無いと土方が腰を上げかけた。

「総司、代われ」

寸分の齟齬も無く、総司とセイが首を振った。

「お前ら・・・」

盛大な溜息を吐き出して土方の腰が畳に落ちる。
絶対にこの手を離したくないのだと、二人の必死の表情が訴えていたのだ。
苦笑を浮かべながら松本がセイの左腕を叩いた。

「だったらこっちの力を抜け。沖田はお前の力程度でどうこうなるほど弱っちゃいねぇ。
 むしろ見てるだけの方が辛い事ぐらいお前にもわかるだろう。
 少しは痛みを分けてやりゃあいい」

その言葉に総司が大きく頷いている。
男の手に包まれたセイの指先に僅かに力が込められた。

「痛みも、苦しみも、私に分けてください・・・」

囁くようなその言葉に、セイの瞳から痛みからではない涙が幾つも零れ落ちていった。










「はぁ・・・・・・・・・」

溜息が重なり合い部屋の中に落されている。
取りあえずセイの傷は骨までは達しておらず、腱も痛んでいないと思われた。
化膿した部所から発した毒がどの程度周囲に影響を及ぼしているか、
それは数日様子を見てみないと断言できないと松本は言ったが、
その表情から憂いは無いと思われた。

「しかし・・・副長が神谷の事をご存知とは驚きましたな」

斎藤の言葉に土方が片眉を上げた。

「俺だけじゃないだろう。誰も彼も知ってて隠しやがって」

「辰吉、お前はいつ気づいた?」

松本の問いに辰吉が布団に横たわり、安らかな寝息を零すセイの方へと顔を向けた。

「京で雪弥ってやつんトコに逃げ込んだ時、“自分は医者の娘だった”て
 無意識に口を滑らせたんや。それで、おや? と思ったんやけどな。
 旅をしてる間に何となく感じたいうとこやろな」

前髪で瞳は隠されているが、その声音の柔らかさがセイへの感情を伝えて来る。
それに目元を和ませた松本が斎藤に問う。

「お前は?」

「局長が長州に行った頃ですな。うちの隊にしばらく神谷を預かった時に
 何となく察知したというか・・・」

苦笑を刻んだ口元が言葉を止める。
神谷に恋情を持ったと土方に告げた事を思い出したのかもしれない。

「法眼は・・・」

「最初からに決まってるだろう。セイは俺の恩人の娘よ。十になるかならぬかの時に
 会ったきりだったがな、すぐにわかったぜ」

「それで“如身遷”などと言って皆を騙したという訳ですか・・・」

深い溜息と共に土方が額を手で押さえた。

「全く・・・裏切り者ばかりだったって事かよ・・・」

放り投げるような土方の言葉に、セイの手を握り締めたまま
こちらに背を向けていた総司の体が大きく揺れた。

「それは違うだろう」

松本が土方の背中を叩く。

「愚かで不器用な娘の守り手ばかりだったって事だ。お前も含めてな」


「副長は、いつからっ?」

それまで沈黙を守り続けていた相馬が口を開いた。

「俺は・・・」




薩長との戦も間近と殺気立つ不動堂村の屯所に深夜セイが現れた。
体調が思わしくない今、慌しい屯所に置いておくよりはと近藤の休息所に
預けていた総司と共にあるはずのセイが、土方の部屋を訪れたのだ。

すでに総司の願いと近藤の気遣いによって、セイは看護と護衛を兼ねて
総司から離れない事と決まっていた。
それを覆して戦に連れて行けとでも言うのかと考えた土方の予測を
大きく外す話を告白されたのだった。

自分が実は女子である事。
総司は幾度も隊を出そうとしたが、悉くそれを跳ね除けて現在があるという事。


「そんな事を今更俺に話してどうしろって言うんだ?」

あまりに予想外の話に頭を抱えかけた土方に静かな声が投げられた。

「沖田先生は局長や副長に黙っていた事を心の重荷となさっています。
 いつかそれに耐えられなくなり副長に告白された時、どうか責められる事の
 ないようにとお願いに参りました」

そしてその場で土方に何も言わせず幾つかの事を誓ったのだ。
本来であれば仲間を謀った咎で切腹にも値するだろうが、しばし命を預けて欲しい。
その条件として。

何があろうと弱音を吐く事無く、総司と共にある事。
自分の命ある限り、新選組隊士の神谷清三郎であり続ける事。
万が一望まぬ形で女子だと周囲に知れた時には、時を待たず腹を切る事。

沖田総司という武士が自分の主君で誠なのだ。
生ある最後の瞬間まで、その誠を手放す事は無い。
命の猶予を願う代償は己の全て、身体と魂。
猶予の期限は総司の病が癒えるまで。

「もしも・・・癒えなかったとしたら?」

それは既に仮定の話ではないのだと土方は腹の中に石を抱えたように思う。
けれどセイは薄く笑った。

「主君につき従うは武士の習い。神谷は何処までも、お供いたします」

息を呑むほどに澄み切った瞳で言い切ったその者に、土方も反論を唱える事など
出来なかった。





「馬鹿もいい加減にしろ! と言えねぇもんを持ってやがった。
 あいつの武士の魂を否定できるやつはそうそういねぇだろうよ」

苦々しく語る土方の言葉を背に受けても総司は振り返ろうとしなかった。
ただ青々と剃り上げられたセイの月代を優しく撫でる。


相馬は土方の事をじっと見つめていた。
厳しいばかりと思って反発する思いだけを抱えていたが、全てを承知して
懐深く収めた上で総司もセイをも見守っていたのだ。
そして近藤不在の新選組を取りまとめ、幕府の重鎮とも対等に渡り合っている。
感情に揺らされ、無闇に騒ぎ立てただけの己との違いを厳しく突きつけられ、
相馬の中に言い知れぬ感情が生まれていた。

激しい熱を身の内に押さえ込み、冷徹な鬼となりきるこの男をもっと知りたい。
他人の“誠”を尊重するこの男が示す、真実の“誠”を知りたいと感じ始めた。


相馬の思いなど知らぬままに土方の言葉が続く。

「本当にな・・・他に惚れた女がいる男を、あそこまで一途に思えるなんざ
 確かに女子の恋情とは言えねぇかもしれねぇな」

溜息のように落したその言葉に始めて総司が振り返った。

「他に、惚れた女って・・・?」

「わざわざ身請けした妓を休息所に囲っていたじゃねぇかよ。お前の病も
 その妓からうつったもんだろう?もう、いねぇけどな・・・」

苦々しげに土方が吐き捨てた。

「ああ・・・それで・・・」

辰吉が納得したように頷く。
その口元もはっきりと歪んでいる。

「神谷はんは道中で京言葉の女子を見かける度に様子がおかしくなっとった。
 それが理由やろな」

「違うぜ」

総司が口を開く前に松本が言葉を放った。

「セイは沖田が以前受けた恩を返す為に妓を身請けして面倒見てた事を知ってた。
 沖田は恋情なんぞ持ってなかった事も」

辰吉と視線を合わせて言葉を続ける。

「だがな・・・その妓は沖田に惚れてた。だから沖田を連れて行かれる気がして
 セイは怯えてたんじゃねぇか?」

向けられた言葉に、辰吉は頷いた。


「他に・・・他には何を知っていたんですか?」

何かに怯えるような声音で総司が尋ねる。

「全てを」

総司の問われ無造作に松本が答えた。

「何もかも知ってるぜ、セイは」

それは小花にセイが女子と知っていると脅かされたという事も、小花を囲う事で
それを隠したいという意識が自分にあったという事も、感染の大元の原因として
知っているという事か。

総司の面から血の気が引いた。

純粋に自分を慕ってくれているこの人が、そんな事を知ったとしたなら
どれほどに傷ついた事だろうか。
今も心の傷が血を流し続けているのではないだろうか。

「な・・・ぜ・・・? 誰が・・・?」

「妓がな、死ぬ前に詫びたいとセイに全てを語ったそうだ」


蒼白になったセイが駆け込んできた時の事を思い出す。
総司の病は自分のせいなのだ、どうか治して欲しい、それが無理なら
この場で責任を取って腹を切る・・・と今にも自分の身に
刃を突き立てそうな勢いで迫ってきた。
そこへ息を切らせた里乃が追いついてきて、セイを一喝したのだ。

「自分のせいなんて思いあがったらあかんえ! おセイちゃんが武士になったんは、
 傍から見たら沖田センセのせいでもあるけれど、それは違うやろ?
 おセイちゃんが自分で決めた事なんや。誰のせいでもない」

セイの身体を抱き締めて、せつせつと里乃が語りかけた。

「それと同じや。沖田センセが自分で決めはった事を、おセイちゃんが抱えるんは
 間違いやろ? おセイちゃんがそんな風に思うんは、沖田センセに失礼やろ?
 違う?」

武士としての高い矜持を持ったあの男が間違ってもセイが原因だなどと
思うはずも無い。
セイがそんな事を思ったなら、それこそ総司の矜持を傷つける。

その瞬間にセイの覚悟が固まった。



「元々沖田から離れるつもりなんざ無かったやつだがな。生涯を神谷清三郎として
 沖田総司の臣下として生き続ける事を覚悟しやがったんだよ。こいつの頑固さは
 両親譲りだ。誰にも止められっこねぇぜ」

セイの頑固さに関してはその場の誰もが承知している。
呆れたような感心したような溜息がいくつも落ちた。

「・・・・・・この人ってば・・・・・・」

小さな総司の声が零れた。

「こんな小さな身体のくせに、華奢なその身の中に、柔らかな心の中に、
 こんなに色々なものを・・・重いものを抱え込んで・・・」

再び総司の手がセイの月代を撫ではじめる。

「重荷から逃げようとも考えないで、傷だらけになっても真っ直ぐ戻ってくるなんて
 ・・・本当に・・・馬鹿なんですから・・・」

切なげな総司の言葉に返す言葉を持つ者は誰もいなかった。








「っん・・・っっっ」

男達の間に落ちた間隙を縫うように、セイの唇から小さな呻き声が零れた。

「神谷さんっ?」

どれほど小さな声であろうと聞き逃すはずもない総司が呼びかける。

「・・・・・・つっ・・・お、きた先生・・・」

「痛みますか? 他にどこか苦しいところはないですか?」

畳み掛けるような問いかけに小さく首を振ったセイが、自分の右手を握ったままの
総司の手を目の前まで引き寄せた。
そこには痛みに耐えかねたセイが握り締めたせいで、赤く指の痕が残っている。

「・・・す、みません・・・痛かったですよね?」

へなりと眉を下げたセイが心底申し訳無さそうに呟き、
その瞳から涙が零れ落ちた。

「っ! 貴女の方がよほどにっ!」

それ以上の言葉は喉から出てくれはしなかった。
そばに置いてはいけない、恋情に引き摺られてはならないと、暴れようとする感情を
必死に押さえつけていた箍はすでに外れている。


「神谷さんっ!」

力無く細くなった腕で精一杯にセイを抱き締める。
すでに傷に対する気遣いも出来なくなっていた。
ここまで身も心も傷だらけになって尚、自分の小さな痛みごときを憂う娘を前に
何を躊躇うというのか。

もう駄目だ。
自分の想いを抑える事などできはしない。
したいとも思えない。


「神谷さんっ! よく戻ってきました。心配しました。貴女の事を思わない時など
 一瞬たりとも無かった・・・生きててくれて・・・良かった・・・。
 私の元に帰ってきてくれて・・・良かった・・・」

感情を殺す事の無いその言葉に、セイは声を殺すこともできず泣きだした。
細くなったとはいえ、以前と変わらぬ温かな腕の感触に尚更涙が零れ落ちる。
病が判明してから、一度として自分が触れる事を許そうとしなかった男が、
強く強く自分を抱いている。
傷の手当をさせる為などではなく、紛れもない総司自身の意思で。

震える声音が、どれほど総司がセイを想っていたかを物語る。
朝に夕にこの身の無事を願って心を磨り減らしていたのだろう。
京にあった頃、事ある毎にセイの身を気遣ってくれた事が甦る。
追い詰められ、後の無い状況の時に、救いの手を差し伸べてくれたのは
いつもこの男だった。
常にセイの身の安全を目の端で確認していたような男が、自由にならぬその身で
どれほどの焦燥に苛まれていたのだろうか。
弱りゆく己が身体を呪い、セイを危うい状況に追い落とした運命を
憎んだに違いない。
優しい男だから。
不器用な男だから。
どれほどの苦しみを抱え込ませてしまった事か。


「先生・・・先生・・・沖田先生・・・会いたかった、お側に戻ってきたかった。
 せんせぇ・・・!!」

一際セイの泣き声が大きくなる。

「泣く子の世話はアンタの役目だ」

黙って二人を見守っていた男たちが、斎藤の言葉を残して静かに室を出て行った。



総司は強くセイを抱き締めていた腕を緩める。
また突き放されるのではないかという不安からか、離されたくないと
セイが総司の胸元を握り締めた。

「こんなに心配させて・・・貴女は・・・」

自分を離そうとするではなく、優しい声音の様子にセイが顔を上げた。
その涙に濡れた頬に総司が唇を寄せた。

「貴女に病をうつしたくない。それは今も変わりません」

セイの手に力が入る。
総司に縋りつくように。

「ごめんなさい、神谷さん・・・」

頬の涙を優しく唇で拭われて、セイが目を見開いた。

「それでも、もう離せない・・・貴女のいない時間など、私には耐えられないんです」

苦しげに眉を寄せながら逆の頬に唇を寄せた。

「ごめんなさい・・・」

小さな小さな声と共に再び強く抱きこまれたセイの瞳には、
曙光の光に照らされるふたりの影がひとつとなって映っていた。













「辰吉さん、今どのあたりでしょうかねぇ」

開け放たれた障子に遮られる事の無い陽光が眩しく差し込む中でセイが呟いた。

「そろそろ横浜あたりに着いた頃じゃないですか?」

少し考えて総司が返す。


並べて敷かれた布団の中で怪我人と病人が会話を交わす。
ぴたりとつけられた布団は松本の指示だ。

セイの治療を終えてからもセイの手を離そうとしなかった総司は、
土方に怒鳴りつけられてしぶしぶ自分の寝床に戻ったものの、
半時もしないうちに控えの間で眠るセイの顔を確認しようと起き出してくる。
セイもセイで傷の発熱でうつらうつらと眠る合間にも隣室の総司が
気になるとみえて、目覚める度に傷の塞がらない身体で
這うように襖を開けては総司の様子を覗き見る。

幾度諌めても聞こうとせず、挙句にセイの傷口からの出血が止まらない事を
知った松本が断を下したのだ。

「セイの布団を沖田の隣に移せっ! この馬鹿共はそうでもしねぇと
 落ち着いて寝ちゃいねえっ!」

「そ、そんな事をしたら、本当にうつっちゃいますよっ!」

松本の言葉に悲鳴のような声を上げた総司が一喝された。

「これだけ間断無く襖を開けてりゃ同じ室にいるのと変わらねぇだろうがっ!
 四の五の言ってねぇで、大人しく寝てやがれ、この阿呆がっ!!」

確かにセイの容態が気になって、そして愛しい人の顔が見たくて、ちょろちょろと
襖を開けては覗き見をしていた自分の行為を自覚していた総司が口を閉ざす。
そうこうしているうちに、隣に敷かれた布団の中でようやく安堵したような
笑みを浮かべるセイの顔を見て、総司の心も温かく解けた。



「辰吉さんには本当にお世話になったんです・・・」

その言葉と共に湿っぽい別れは御免だと、松本に言伝を残しただけで
大坂へと帰っていった男の姿が総司の脳裏に浮かんだ。
旅の間、様々にセイを助けてくれたらしいあの男が、この娘に対して
どんな感情を抱いていたかは知らない。
けれど言葉の端々に、思いの欠片は見え隠れしていた。
輝く乙女の魂は、誰も彼もを惹きつけるらしい。


「大丈夫ですよ。きっと無事に大坂に戻られます」

重なった掛け布団の下で、そっとセイの手を握っていた総司の手の平に
力がこめられた。

「・・そうですね・・・きっと、そうです」

微かに握り返され、伝わってくる温もりが愛おしい。
細い指先が冷え切っていないと確認できる事が何より嬉しいのだ。
ようやく求めていたものが戻ったと実感できる。


「本当に神谷さんはお日様のようですね」

突然の言葉にセイが総司の顔を見つめて眼を瞬いた。

「一緒にいると心がとても暖かくなるんですよ」

にっこり、という音が聞こえそうなほど満面の笑みを向けられて
セイの頬が桜色に染まった。
未だ旅路での緊張感から完全に解き放たれていないセイにとって、
この無防備に近い総司の笑顔は刺激が強すぎる。
そっぽを向いてぼそぼそと言い返した。

「だったら沖田先生は慈雨ですね。乾ききった私の心を癒す優しい雨です」

反撃のつもりなのだろうが、その言葉は総司の心にするりと沁みこんだ。
戻ってきたばかりの頃のセイの強張った心や、音がしそうなほどに乾き
ひび割れた肌を思い出す。
自分がそれを潤す事ができるのだとしたら、どれほど嬉しい事だろうか。

そして・・・いずれ共には居られなくなろうとも、この愛しい人の心の中で
滾々と湧き出す泉となれれば良いと願う。
自分が死ねば後を追う、と言い切ったというこの人を現世に繋ぎとめる事が
これからの自分の役目だろう。
けれどそれはただ生きていれば良いという事ではない。
苦しみがあろうと心豊かにいられる事が大切なのだ。

そのためには残された時間の全てをかけて、この人の心に宿る泉となる。
生ある限り愛しい人の心を潤す存在であるように。



「雨といえば・・・」

総司の誓いなど知りもせずに、自分の告白に反応が無い事に焦れたセイが
何かを思い出して起き上がった。
するりと離された手の平が寂しくて、少し不機嫌を乗せた声をかける。

「また起き上がったりして・・・傷が開きますよ?」

「いえ、え〜〜〜と、これこれ。これですっ!」

ごそごそと部屋の隅で荷物を漁っていたセイが総司の目の前に
小さな包みを差し出した

「それは?」

「飴なんですよ。“飴の餅”っていうトロリとしたもので、旅の途中で
 先生へのお土産にって買ってきたんです。ちょっと日が経ってますけど、
 食べられると思います・・・多分・・・」

添えられていた細い木のへらに器用にくるくると飴を巻きつける。
総司も起き上がって琥珀色をした柔らかな飴を見つめた。

「多分って何ですか、多分って。そんな怪しい物を私に食べさせるんですか、
 貴女は?」

口では文句を言いながら、セイの手元のへらの先に食いついた。

「・・・ぅん・・・はいひょうふれふ・・・たぶん・・・」

「・・・・・・先生・・・・・・」

手渡されるまでも待てないのか、この男は・・・と溜息を吐きたい思いで
見やった相手は幸せそうに口を動かしていて、セイの頬が綻んだ。

もぐもぐと動かしていた口を止め、飴を飲み込んだ総司が上目遣いにジッと
セイを見つめてくる。
無意識に頬が熱を持つのに気づいて視線を逸らそうとすると、総司の口が開いた。

「神谷さん、もっと」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そうだったね、この男はそういう人間だった。
心の中で深い溜息を零しながらセイは新たに飴をへらに巻きつける。

「そういえば、これって別名“子育て飴”っていうんですよ。幽霊がこの飴で赤子を
 育てたっていう伝説が残ってるんです。確かに・・・子育て・・・ですよねぇ」

再び飴に食いついてきた総司をちろりと見ながらセイが呟いた。

「ひっどお〜〜〜い。私が神谷さんの子供って事ですか?
 子供は貴女の方じゃないですか〜」

唇を尖らせた反論の言葉も、セイ手ずから飴を食べさせられている姿では
何とも情けない。



「・・・・・・何をやってるんだ、アンタたちは・・・・・・」

呆れたような声音が廊下からかけられた。

「あ、斎藤さん、神谷さんったらね」

「兄上っ、ちょっと聞いてくださいよっ!」

ぎゃいぎゃいと先を争って騒ぎ立てる二人の姿は、すっかり日の光も
糧たる水も満ち足りた若木の姿で。
萎れて枯れかけていた数日前の名残などどこにもない。
喉の奥に笑いを飲み込みながら、さも不機嫌そうに斎藤が言葉を投げる。

「どうでも良いがな。そろそろ松本法眼が様子を見に来るぞ」

言葉と同時にピタリと動きを止めた二人が、次の瞬間にはそそくさと
布団の中に潜り込んだ。
ここ数日、松本の叱責を受ける度に薬の苦さが増す事に閉口していた二人なのだ。
これ以上苦い薬は勘弁願いたい、思う事は一緒だった。

ごそごそと掛け布団の下で総司が手を伸ばす。

「神谷さん?」

ほんのり頬を染めたセイが大きく骨ばった手に自分の手を触れさせた。
小さな手を再び握り締めた総司の口元が柔らかな弧を描く。

それを目の端に映しながら斎藤は部屋を後にした。





庭から見える夕景にあの二人のこれからを思う。
長き時が残されていない事を互いに承知していようと、
きっと穏やかで豊かな時間を過ごすのだろう。
そしていつの日か、先に彼岸の岸に辿り着いた男が、自分の生を全うした女を
深き敬意と情愛をこめて抱き締めるのだろう。

そうであれば良いと思う。
そうであれ、と願う。

たとえ時代に忘れ去られようと、あの二人に安寧を・・・。
斎藤は暮れ行く空に静かに祈った。




わかたれていた流れが、今ようやくひとつに戻った。





                                     了