瀬をはやみ



  13



セイの帰還を知らせると再び玄関へと戻った相馬に抱えられるように、
待ち焦がれていた人が総司の病間に姿を現した。
食い入るようにその姿を見つめる総司の目には、行灯の灯りのせいか
その頬がひどく青白く感じられた。
それでも無事な姿を確認して安堵の想いが胸を満たす。


「お帰りなさい、神谷さん」

布団に横たわったまま、総司はセイに顔だけを向けて微笑んだ。
最後に会った時から僅か二十日程しか経っていないというのに、
そのやつれようにセイが息を呑んだ。

「アンタが心配で沖田さんはろくろく飯も喉を通らず、ゆっくり眠る事も
 できなかったんだ」

斎藤の言葉に総司が笑った。

「違いますよ。食欲が落ちているんです。どうせ食べても吐いてしまうし、
 だから食べるのが嫌になっただけですよ。それに、ちゃんと眠ってましたよ」

(眠りの中でだけは私も自由に動けましたから・・・)

セイが大坂に取り残されたと知ってから総司に安らかな眠りが訪れなかったのは
事実だが、それでも僅かにまどろむ時の中ではセイを探して何度も東海道を
駆けていたのだ。
もう現実では出すことの出来ない大声でセイの名を呼んだ。
幾度も、幾度も。
どれほど走ろうと息切れする事も無く、確かに大地を踏みしめて
自分の足でセイを探していたのだ。

そして夢の中では必ず愛しい娘を見つけ出し、この腕に
しかと抱き締める事が出来ていた。

実際に総司の気力をゆるやかに、けれど確実に侵していたのは
夢の中でセイを抱き締めた至福の感情だったのかもしれない。
目覚めた時に感じる現実の孤独と虚無感、そして何も出来ない
自分に対する憤りとセイの身を案じる焦燥。

あまりにも幸福な夢は、乾ききった旅人の前に差し出した水を
スルリと取り上げるが如く、絶望を増幅させるものでしかない。
浅い眠りに揺蕩い、幸福と絶望を行き来するうちに、総司の生きようとする気力は
加速度をつけて失われていったのだ。

けれど今、己の絶望感を綺麗に隠して、何もないように微笑む。


セイの後ろに音も無く座していた辰吉に視線を向けて、小さく首を傾げた。

「確かあなたは・・・」

ぽつりぽつりとセイが大坂での事を語った。
辰吉と大和屋忠兵衛の好意が長旅の助けとなった事を。


「そうだったんですか・・・」

小さく溜息を吐いた後で傍らに座した斎藤に嬉しそうに語りかける。

「この人の純粋さは人の好意を惹きつけるんですねぇ。やっぱり神谷さんは
 きちんと一人で歩いていける人なんですよ。こんな追い詰められた状態でも、
 江戸まで戻ってこれた。強い人ですよねぇ」

もう私がこの人の力になれる事なんて無いんですよ・・・
微かな呟きが部屋に落ちた。

「ふ、ざけないで、ください・・・」

セイが喉の奥から搾り出すような声を出す。

「何を・・・何を言ってるんですか。一人でなんて戻れるはずがないじゃないですか。
 沖田先生がいるからっ、先生が待っていてくれると思ったから、
 だから、だから戻って来られたんじゃないですかっ!」

途中から涙を必死にこらえて、セイが言い募る。

「元気で、生きて戻らなくてはいけないと! どれほど苦しい事があっても、
 どんなに寂しくても! 戻る場所があると思ったから、帰って来られたんです!
 強くなんて無いですっ! 先生に会いたかった、か・・・ら・・・」

大きな瞳からポロポロと涙を零すその姿は、壬生の大樹の枝に座って泣いていた
あの頃と何も変わっていなくて。

総司は力を振り絞るようにして起き上がった。

「神谷さん・・・」

恐々と伸ばしかけた手に気づいて引き戻した。
同じ室内にいる事さえ、本来であれば拒むべきなのだ。
この健やかで未来のある娘に死病を近づけぬためには・・・。
総司は切れそうなほどに唇を噛み締めた。

今、触れてしまえば自分はこの娘の手を離すことが出来なくなるかもしれない。
会いたくて気が狂う程に求めていた人だ。
傍にいて欲しいと幼子のように心が叫んでいる。
けれど、それでも、何より願うのは・・・。


「・・・あのね、神谷さん。貴女の事は松本法眼にお願いしてあります。
 今ならまだ貴女が江戸に戻った事はここにいる人以外、誰も知らない。
 ですからこのまま隊を抜け、本来の姿に戻って幸せになってください」

小さく微笑みながら総司の唇から零れた言葉にセイが弾かれたように顔を上げ、
斎藤の眉間に皺が寄った。

あの鳥越神社の境内で「あの人と離れる事などできない」と言った男が
精一杯に強がりながらも愛しい娘の幸せだけを考えて口にした言葉だと
理解できない訳ではない。
けれど真実それが互いにとっての幸せなのか、それをわかっているのだろうか。

斎藤が二人から視線を逸らした。


「いやっ、嫌ですっ! 私は沖田先生のお傍にいたいっ! だから、だから
 ここに戻って来たんですっ! 出て行けなんて仰らないでくださいっ!」

「神谷さん・・・私を困らせないでください。傍にいなくても貴女が健やかに
 暮らしている。それが私の心を穏やかにしてくれるんです。ですから・・・」

泣きながら総司の布団に縋ろうとするセイを静かに見返しながら
痩せた男は首を振り続ける。

「嫌ですっ! そんな事はっ・・・」

「神谷さんっ!」

セイから顔を背けた総司の唇から鋭い声が投げられた。
それは京にいた頃に幾度もセイを隊から離そうとした時の声に酷似して、
今度こそ自分の意思を曲げないと頑ななまでに示していた。

「沖田せん・・・い、や・・・」

グラリとセイの体が傾いだ。

「神谷はんっ!」

「神谷っ!」

真っ先に反応したのはたった今まで自分の存在を消しているかのように
じっと後方に座っていた辰吉だった。
倒れかけたセイの体を支えようと伸ばした手がその左腕を掴む。

「・・・・・・っっっっっっっ!」

声にならない悲鳴を上げて辰吉の腕を払ったセイの体が、総司の布団に
音を立てて倒れこんだ。

「っ! すまんっ!」

慌てて辰吉がセイの体の下に腕を差し入れその身を起こそうとするが、
それを斎藤が止めた。

「そのままで・・・」

立ち上がった斎藤がセイの脇へと膝をついてその顔を覗き込んだ。
直前の言い合いの為ではない呼吸の荒さと、額にびっしりと浮かんだ汗が
体の変調を語っている。
閉じられた瞼はピクリとも動く気配は無く、きつく寄せられた眉根が
苦痛の激しさを表していた。

「どういう事だ?」

自分に向けられた問いかけに、僅かに視線だけを動かす事で辰吉は答えた。
その視線の先、セイの左袖を斎藤が捲り上げる。


「・・・・・・こ、れは・・・・・・」

肘から肩にかけて倍近くも腫れあがった腕がむき出しになり、さすがの斎藤も
続く言葉を思いつかない。

幾重にも巻かれた包帯はどす黒く染まり、そこからは腐臭ともいえる
匂いが漂ってくる。
包帯の巻かれていない皮膚も茶色く変じて二の腕全体に
炎症が広がっている事を示していた。

「相馬っ! 相馬っ!」

部屋の外で控えているはずの男を斎藤が呼びつける。

「すぐに松本法眼を呼んで来いっ! 寝てても何でもかまわん。
 引き摺って来るんだ!」

常には有り得ない斎藤の動揺ぶりに相馬が駆け出して行く。
眼前で繰り広げられている騒ぎも総司の耳には届いて無かった。

「か・・・みや・・・さん?」

細い細い囁くような声を落して、そっとセイの頬に触れる。
火に炙られているかのような熱を放つそこをゆるゆると撫でながら
総司の視線は腫れあがった腕から離れようとしない。
斎藤が細心の注意を払って包帯を解いた。

「っ!!!!」

男達の眼が見開かれる。
包帯に張り付いた血の固まりがそれまで押さえられていた傷に出口を作り、
そこから黒茶けた血と濁った膿が流れ出す。

「神谷さんっ! 何ですか、これはっ! どうして、こんなになるほど
 放置したんですっ! 神谷さんっ!」

総司が幾度も咳き込みながら意識の無いセイの体に手をかけて揺すった。




「神谷が戻っただと?」

今後の傷病者の療養先について松本と打ち合わせていた土方が現れた。
けれど目の前の光景を見て言葉を飲み込む。
共に入室した松本も同様の驚愕に眼を見開いた。

それでも医者としての本能が勝ったのか一瞬動きを止めただけで、後についていた
相馬に手早く処置の道具を持って来るように言いつけた。

「ま、松本法眼っ! 早くっ、神谷さんの手当てをっ!」

松本の姿に気づいた総司が悲鳴のような声で懇願する。
その声に引かれるように斎藤が開けた場所へと松本が腰を下ろし、
セイの腕を確認しながらその頬を軽く叩く。

「神谷・・・神谷・・・馬鹿野郎が。どうしてここまで放っておきやがったんだ。
 お前だったら傷の処置なんざお手の物だろうがよ・・・」

呆れたように、けれど哀しげに松本が問いかけた。
その言葉に答えたのはセイではなく。


「できるはずもないやろ・・・。周囲は敵だらけや。宿にいたかて落ち着いて
 傷を清める事もできんかった。いつ誰が踏み込んでくるかわからんのに、
 無防備に傷の手当てなんぞしてられるもんか・・・」

辰吉の言葉を聞き取りながらも男達の視線はセイから離れない。

「道中かて野宿が続いた時もあった。疲れなんぞ取れるはずも無い。
 挙句幕臣やいう連中に襲われて・・・氷の張った泥田の中に飛び込んだ。
 凍るような小川で身を清めんとあかんかった。高熱を出して倒れたかて
 泣き言ひとつ言わんと・・・痛いも苦しいも、言わんとな・・・」

感情を乗せないままに事実を淡々と語るその言葉は、痛ましさをより強く
伝えて来る。

「手当て? 薬なんぞがどこにあったんや。何もかも幕府の兵に持ち去られて、
 どこに行ったかてあるのは腹下しの薬程度や。神谷はんかて持ってたんは
 血止めと滋養の薬や。そんなんを大事に大事に抱えて帰ってきたんや、
 こん人はっ!」

初めて辰吉の言葉に感情が表れた。

「箱根の関所で限界やったんや! あそこで一度倒れて、近くの医者にも
 言われた。一刻も早く腕を落とさんと、全身に毒が回って命も危ないってな!
 けど神谷はんは首を振らんかった! 腕を切るんは仕方ない、せやけど
 それは江戸に戻ってからやて。今そんな事をしたらまた数日は動く事も
 できんようになる。今は一刻も早く江戸に戻って、心配しているだろう人を
 安心させなあかん。そう言って・・・旅を・・・続けたんや・・・」

固く握り締められたその拳が辰吉の苦しさを表している。
きっと幾度も言葉を尽くして止めたのだろう。
目の前で命を削ろうとしているその小さな体を、縛り付けてでも
治療させたかったのだろう。
けれど余りに一途なセイの想いに言葉を飲み込むしかなかったのだ。

セイという人間を知っている者達は辰吉の苦しさを我が物として理解できた。


「・・・ま、つもと・・・法眼?」

薄く瞼を開けたセイが松本を確認して小さく呼びかけた。

「神谷、お前の事だ。この傷がどんな状態かわかってるな?」

確かめるように傷へ近い皮膚へと指を触れさせながら松本が問いかける。
コクリと頷いたセイに向かって、苦しげに言葉を続けた。

「だったら痛ぇのも覚悟してるな?」

その言葉にセイが首を振った。

「処置は・・・いりません・・・」

「どういうこった」

「ここを出て行けと言われました。もう、行く場所もありません。
 ただひとつの帰る場所を失うなら、私はいらない・・・」

痛みを堪え、奥歯を噛み締めながら押し出された言葉は悲哀を放ち、
部屋に足を踏み込んだまま身動きできずにいた相馬が力なく座り込んだ。

「何を馬鹿な事を言ってるんですっ!」

沈黙の中に総司の叫びが迸った。

「貴女を気遣っていた人がどれほどいると思っているんですか?
 我侭も大概にっ」

「ええやろ・・・。ようやっと我侭言えたんや。ずっと我慢してた、張り詰め続けてた。
 生きて戻って義理は果たした。もうええやろ。言いたい事を言うたかて・・・。
 ここを出て行け言われて、もう休みたい言うんなら、俺がついてるわ。
 ここまで付き合ったんや。最後まで面倒みたる」

ぽん、と軽くセイの袖を叩きながら辰吉が口元だけに笑みを浮かべた。
望んで願って命を削り必死に帰り着いた、その一部始終を目にしていたのだ。
絶望の深さを理解できないはずもない。

「何を貴方までくだらない事を・・・。松本法眼、構いませんから
 神谷さんの治療を!」

力づくでも治療をさせてしまおうと顔を上げた総司の眼を正面から見据えて
松本が否を唱えた。

「以前もお前には言ったがな。生きてる事に感謝しねぇ野郎が
 俺は大嫌いなんだよ。今のこいつは俺が手を貸すに値しねぇな」

冷たいともいえる声音で松本が呟いた。
信じられないと眼を見開いた総司が救いを求めるように斎藤に、土方にと
視線を走らせる。
けれど誰一人として総司に同意しようとはしなかった。
むしろセイの願いこそ正当なものだと言うように、総司を見返す視線には
非難が含まれている。


「どうして、どうして皆私を苦しめるんです。私は神谷さんに幸せでいて欲しい
 だけなのに・・・。私の近くにいたなら病だってうつってしまうかもしれない。
 そんな事は、耐えられないっ!」

拳を握り締めて俯き、肩を震わせる総司に低い声がかけられた。

「労咳だとてうつるとは限らねぇんだよ」

「・・・・・・土方さん・・・?」

驚いたように顔を上げた弟分を見据えて土方は頷いた。

「俺が労咳で寝付いてた時、為兄がずっとつきっきりだった。だが欠片ほども
 うつりゃしなかったぜ。たとえ神谷がお前の傍にいようと、お前から離れて
 どこかで暮らしていたとしても、病ってもんはうつる時はうつるし、うつらねぇ時は
 うつらねぇんだよ。・・・そうではありませんか、松本法眼?」

最後の問いかけに松本が頷いた。

「確かに土方の言う通りだ。じゃなけりゃあ、医者なんぞ皆労咳がうつって
 生きてられねぇだろうよ」

「神谷を手放す事などできっこない、と言ったのはアンタじゃなかったのか?
 沖田さん」

とどめのように斎藤の言葉が総司を追い込んだ。
そのまま誰もが口を噤んで男の決断を待っている。


ふっと泣き笑いのような表情を浮かべて総司が眼を閉じた。

「・・・ひどいですね・・・。私の味方が一人もいないなんて・・・。
 揃って神谷さんの味方だなんて、ずるいじゃないですか」






自分はいつの頃からか、『自分』という『個』を見ることが無くなっていた。
試衛館の弟子。
近藤の兵である武士。
新選組の刃である一番隊組長。

『個』である自分という意識は敢えて持とうとも思わず、持つ必要も無くいたのだ。
けれど、セイと共にいるうちに『個』というものを知るようになった。

それは武士として、近藤の兵として不要の感情だとばかり思っていたし、
時にはそんな感情が自分の武士としての立ち位置を足元から崩すような
不安を覚えた事もあった。
不要だと思い、投げ捨てようとした事が幾度あったか。

けれど『個』であるが故に近藤や土方に心酔し、だからこそ共に歩きたいと
感じるのだとも知らされた。

今更ではあるが『個』でいる事は許されるのだろうか。
死病をうつすかもしれない。
長い時を共にいられるとも思えない。
自分の前の道は、それほど辿らぬうちに閉ざされるのだろうから。

それでも求めても良いものだろうか。
命の輝きを全身から迸らせる、このたぐい稀なひとを。






固く閉ざされていた総司の瞼が開かれた。


力無く横たわる細い体を包む着物は所々がほつれ、裾はすっかり擦り切れている。
綺麗好きだったセイの物とも思えぬほどに汚れ、色を変えたその様子が
辰吉の言葉以上に道中の過酷さを表していた。
どんな厳しい鍛錬や隊務であろうと、いつでも柔らかさを失う事の無かった頬が削げ、
鋭い顎の線を強調している。
痛ましい思いで視線を移した唇は、記憶にある桜色の艶やかさは微塵も無く
触れればぱりりと音がしそうに乾き、白っぽくひび割れていた。

「・・・こんなに、ボロボロになって・・・」

それでも求めるというのか、こんな何も残されていない無力な男を。
共に在りたい思いは己だけの望みではないと、言ってくれるのか、
この人は・・・。



総司の瞳に強い光が灯った。


「神谷さん? けして幸せには、してあげられませんよ?
 それを承知で、私と共にいたい、と望むのですか?」

一言一言を噛み締めるように言葉が綴られた。
外気にさらされた傷が痛むのだろう、眉根を寄せたままのセイが
それでも必死に声を搾り出した。

「沖田先生の、お傍にいる事以外に、私の幸せなど有り得ません。
 私の誠は沖田先生なのですから!」

想いの全てを言霊に乗せて解き放ったセイの頬に、総司が手を添える。

「それなら、生きなさい。私の傍で・・・生きなさい」

零れる寸前まで涙を満たした瞳が、深い想いを湛えて微笑む男を凝視した。
そして何度も繰り返し力強く頷く。

「はい、はいっ! 先生のお傍で、共に生きていきますっ!」


周囲から一斉に安堵の溜息が落ち、小さな笑声が広がっていった。